肯定の行程


 ふわり。
 生ぬるい湿り気をたっぷりと帯びた風が、少女の一つに結った髪を揺らした。時刻は五時半。少しずつ傾き始めた太陽が、ずっと遠くの建物の間から顔をのぞかせている。
 見慣れた特別棟の煤けた校舎と、砂煙をあげる校庭とがオレンジ色に染まるのを、下駄箱の前に座り込んだ少女―――吉野恵理香はぼんやりと眺めていた。
 野球部の男子生徒たちの威勢のいい掛け声と、埃っぽい匂いとが、風に乗って恵理香に届く。
 ばし、ぱしん。定期的なミットの音と、スパイクが地面を蹴る音が交互に聞こえて、恵理香は「今年こそ甲子園だ」と、クラスメイトの男子が騒いでいたのを思い出す。お調子者で有名な彼は、クラスメイト達にまたいつもの冗談だとあしらわれ、馬鹿にされていた。恵理香自身も、笑って彼を冷やかした。
 その時の、顔中真っ赤にしていた少年の顔が恵理香の脳裏にちらつく。「うっせー!」と怒鳴ってひときわ皆を笑わせた後、彼も笑って、それから小さく、「ふざけんな」とつぶやいた彼の声は、席が近い恵理香にだけ聞こえていた。『甲子園に行く』というのは、きっと本気で言っていたのだろう。
 高校生らしく青春の汗、ね。 皮肉交じりに心の中で吐き捨て、小さく笑う。
 彼もあの中に混じって、まさにその汗臭い青春とやらを謳歌しているのだろうか。
 砂煙にまみれ、体力を限界まで消耗させて、目標へと体を削る。それが格好悪いなんて言うつもりはないが、そこまでする意味も恵理香には見いだせない。

「あ、吉野じゃん」

 突如頭上から降ってきた声に驚いて肩がはねた。
 上を向いて見ると、赤褐色の瞳をふちどる垂れぎみの目と目が合った。色素の薄まった長い髪が頬に擦れて、少しだけこそばゆい。
「佐蔵だ」
「佐蔵です」
 佐蔵と呼ばれた少女は笑って、恵理香の言葉を反復する。彼女の脱色された髪が陽の光に透けてオレンジ色に輝いた。先ほどの生ぬるい風が、また恵理香の頬をするりと撫でて、校庭へと去ってゆく。
 恵理香の同級生である彼女は、大体恵理香がいつも一緒にいる仲間内の一人、というよりかその中心人物であった。『佐蔵』とは彼女の名前ではなく苗字なのだが、響きがすでに名前のようなので彼女の事を下の名で呼ぶ友人はほぼいない。ノリがよくムードメーカーな佐蔵は、いつもふわりとした何とも言えない笑みをたたえている。陽の光を浴びて微笑んでいる今も。
 まるで今の自分を取り巻く空気だ。恵理香はひそかに頭の隅でそんなことを思った。
 佐蔵の顔はどちらかというと柔らかい印象を与える顔だ。
 少し垂れた目に同じく垂れた眉。
 三日月状に弧を描く薄い唇。目があまり大きくないせいなのか、一七歳という歳の割にはいくらか大人っぽい顔立ちではあるが、見たものにきつい印象を与えることはないだろう。目は大きくつり目で、童顔であるにも関わらず、初対面の人を委縮させてしまうことの多い恵理香のそれとは真逆のものだ。
 しかし、佐蔵のその眼差しは、何故かときどき鋭く見える。
 垂れた目の中のその茶色い瞳に見据えられると、恵理香は何故かいつも身構えてしまうのだ。何を考えているのかわからない、どっちつかずの目。
 まさにこの生ぬるい空気のよう。
 そんなことを考えている自分の方がよっぽど信用ならないだろうとわかってはいるが、恵理香は何の意味もない考定をする。
「今帰り?由香は?」
 佐蔵は恵理香の肩に手を乗せて体重をかけてきながら、首を傾げた。恵理香の後頭部に、佐蔵の暖かな感触が伝わる。
 佐蔵の言う由香とは、恵理香のもっとも仲のいい友人だ。移動教室や登下校の時などは、恵理香はいつも由香と一緒にいる。
 しかし、今は恵理香は昇降口に一人だ。きっと佐蔵は珍しく思ったのだろう。恵理香は一つため息をついて、答えた。
「彼氏」
「うへぇ」
 由香もついにかー。嫌そうなのかにやついてるのか分からない表情で佐蔵は呟く。
「由香かわいいからね」
 むしろ今までいなかったことの方がおかしいよと、恵理香は付け加えた。
 ぱっちりとした目に、笑うとえくぼのできる可愛らしい口元。ソフトボール部に所属している彼女の焼けた肌によく似合うショートカット。美女というよりは愛嬌があると言うのに近い可愛らしさを持つのが、恵理香の友人由香であった。
 ひそかに思慕している者も多かったであろう彼女は、遂に今日とある男子生徒から告白を受けて、交際を始める運びとなったのだった。
 それでも一緒に帰ると言って聞かなかった由香を、いいから彼氏と帰れもったいない、と無理やり行かせたのが約三十分ほど前。
 そのまま一人で帰ろうかと思ったのだが、なんとなくすぐに帰ったら由香と彼氏が寄り添って帰るところにばったり出くわしてしまいそうな気がして、結局何もできずに下駄箱に座り込んでいた。我ながらさびしい高校生活だという自覚はしている。さきほどのため息は、そういう気持ちから来ているのだろう。
「つか佐蔵さ、下の名前なんだっけ」
 由香から話題をそらしてしまいたくて、肩に乗せられた佐蔵の手をそっと払いながら問いかけた。佐蔵は垂れた眉毛を一層ハの字に下げて苦笑した。
「うっわ何それ、ひどくね?朋子だよ、と、も、こ」
 佐蔵朋子。そういえばそんな名前だった。しかし目の前で喋る人物とそれが同一とは恵理香にはどうも思えなくて、おかしな違和感が拭えない。
「全然朋子っぽくないじゃん」
 つい噴出した恵理香に、佐蔵が唇を尖らす。
「朋子っぽくなくても朋子なんだからしょーがないじゃん」
 珍しく憮然とした表情の佐蔵にますます笑いがこみ上げてくる。くつくつと笑いながら恵理香が再び校庭へと顔を向ければ、気が付かないうちに陽はもう大分傾いてきていた。もう最後の仕上げなのだろうか、野球部の練習は走り込みにシフトしていた。
 すとん、と恵理香の隣に佐蔵が座る。夏服から伸びる、佐蔵の白い腕と恵理香の腕が軽く触れあった。夏とはいえ、夕方ごろになればさすがに汗はひいている。べたべたとした不快さはなかったが、いい気分はしなかった。
 佐蔵の制汗剤の匂いが鼻をかすめる。体育の授業の後に借りたことがあったそれの、甘ったるい香り。おおざっぱであまり行儀のよくない佐蔵にはおよそ似合うとは言い難い、女の子らしい香り。佐蔵もこういうのをつけるのかと、意外に思った。由香や恵理香が普段使っているような、柑橘系やミント系の爽やかな香りのもののほうが、佐蔵には合っている。
「あ、誰かこけた」
 佐蔵の呟きにつられて校庭を見ると、野球部の中の一人が膝を折っている様子が見えた。遠いのでよく様子が見えない。一年生だろうか。顧問の教師に罵声を浴びせられ、誰かわからない少年は急いで走り込みを再開する。やはり疲れているのだろう、足取りは重い。
 恵理香はゆっくりと目を細める。
「覚えてる?前にさ、野球部のあいつ、甲子園行くーとか言ってたやつ」
 急に脈絡のない話を始めた恵理香を見つめ、佐蔵はいぶかしげに眉をしかめた。
「そんなんあったっけ。それが何」
「あー…ごめん。やっぱ何でもない」
 行けるわけないのに、バカだよね。そう口に出そうと思ったが、そうやって中身のないことをしている方がよほど馬鹿らしいことに気づいて黙り込んだ。
 佐蔵は何を勘違いしたのか、少し目を見開いて恵理香の顔をのぞく。もとから色の薄い佐蔵の瞳が、夕日に照らされきらりと輝いた。制汗剤の匂いがきつくなる。
「…吉野ってあいつ好きなん。野球部の」
「な訳ないじゃん」
 真顔で問いかけてきた佐蔵の質問を、ため息交じりに一蹴する。
 なんだ、つまんねと言いながら、佐蔵は小さく破顔した。つまらなくて悪かったなと唇を尖らせると、佐蔵が身を乗り出して聞いてくる。
「じゃーさ、告られたらどーする」
「ないでしょ」
「うわ、ひでー」
 即答してやると、嘲笑交じりにそう返された。ゆっくりと佐蔵の体が離れていく。なぜだかそれにひどくほっとした。
「そうじゃなくて、告られることがないでしょ」
 ゆっくりと、言葉を選びながら述べると、佐蔵は心底びっくりしたという風な顔でこっちを見てきた。確かあの野球部の男子生徒は、他に好きな子がいたはずだ。他にいたというか、記憶が正しければ由香のことが好きだったはず。
 残念だったねと、遠くを見ながら目を細めると、急に佐蔵の瞳孔が鋭くなった。
「吉野って、意外と自分に自信ない人だよね」
 薄茶色の瞳が、鈍く光る。薄い唇の間から覗く舌が、異様に赤く見えた。多分、そういう風に見えた気がしているだけなのだが。
 どくり。
 心臓が大きく脈を打つ。
 図星だった。
 恵理香は、本当はちゃんとわかってはいるのだ。
 あのクラスメイトの男子も、由香も、そして目の前の佐蔵も。周りの人間が持っているものが羨ましくて仕方がない。自分は、そうはなれないから。そうはなれないと、決めつけて、諦めてしまっているから。
 自分自身の落ち度は、恵理香が一番よく知っている。
 それを見事に言い当てられた。
 胸の内に広がるこの気持ちは、悔しいのか腹が立つのは、それとも嬉しいのか。
「ほっとけ」
 何とか絞り出すようにして言い返すと、佐蔵はいきなり腕を掴んできた。
 驚いて息を飲むと、その隙に佐蔵がずいっと顔を近付けてきた。佐蔵の息が、鼻先にかかる。逆光のせいで佐蔵の表情は見えにくいが、開いた目の中ばかりが爛々と光っていた。
 甘い制汗剤の香りが、一層強くなった。
 同時に、耳朶に鋭い痛みが走る。
「自分の好きなもんバカにされんのって腹立つんだよね」
 吐き捨てるような声。
 何を言われて何をされたのか、恵理香が理解する前に、佐蔵はさっと立ち上がった。
「もう暗いし帰るわ。明日ね」
 佐蔵の表情は少しも変わらず、いつもの柔らかい笑顔に戻っている。夏服のスカートを翻して、佐蔵はあっという間に校舎から去ってしまった。
 野球部の練習は終わったようだ。夕日はもう半分以上隠れていて、オレンジ色の校庭にいる人はまばらになっている。
 少しずつ暗くなる校舎の中で、恵理香は一人呆然としていた。
 ただ、噛まれた右耳が、なんだか無性にじんじんと痛かった。












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