雲を掴んだ夜
夜は更け、葉擦れの音すら消える時刻。
隣に寝そべる相手の体温だけが、唯一この部屋の温もりで。
腕に乗せた手に触れる、抉れたような矢傷の跡。穴のようになったそれらは、もう随分と昔のもののようだ。
『…アンタでも、怪我なんかするんだな』
肩口のへこみをくるりと指でなぞる。
くすぐったいのか、乱暴に髪を混ぜられた。
「お前は私を何だと思っているんだ」
自分にも、若造の頃はあったのだと笑う。
『想像できねぇ』
「私も人の子だぞ」
体が大きかった分、初めは矢を避けるのが苦手だったとか、油断や甘さが抜けなかったのだとか。
「まあ、ある日を境に変わったがな」
言ってふと、虚をみる。
それがいつも、自分を素通りしているようでひどく嫌だ。
こんな時孟隻が思い出しているのは、いつだって心酔する主上とやらと、死んでいった恋人のことに決まってるのだから。
『…アンタが初めて刀を取ったのはいつだ?』
だから、例えこの問いが、アンタの古傷を抉るかもしれないとわかっていても。
「そうだな…流石に忘れもしない。九つの秋だ」
記憶を遮るこの問いを、止めてやれなかった。
『九つ…?』
「あの日私は、初めて人を殺したよ」
そうだと頷く。あの時は、流石に手の震えが止まらなかったと。
「賊に組み敷かれる母を見て、咄嗟に相手を殴り倒した」
奪った剣で止めを刺し、立て続けに二人斬り、家族を率いて山に隠れたのだという。
「それでも、息を殺して夜明けを待つ中、無我夢中とは程遠い冷静さで剣を振るった自分が何よりも意外だった」
必死だったと言い切るには、あまりにも狙いが的確で。違わずに人を殺せる自分が信じ難かったのだと。
「暫くは、鹿を狩るのも恐ろしかったよ」
『…それでも、アンタは…刀を捨てなかったのか』
「私には、必要なことだったからな」
乱世は、農民と言えども武器を取る。武将の初陣も早まりつつある。
それでも、九つは…早い方だろう。まして農民では早すぎる。
「そんな顔をするな」
そう言って平然と笑うお前が、どうして平然と笑えるのか、やっと分かった気がした。
きっとお前は、傷を傷とも思わなくなるほど、数多の思いを乗り越えて来たのだろう。
「私自身が矛なのだ。戦場以外では活かされん」
お前はただ、天下を得る為にそれを振るえばいいと、甘やかすように口付けられる。
「竜は竜らしく、周囲の全てを雲として天への階を昇らねばな」
武骨な指が、優しくオレの髪を梳く。
穏やかな目が、慈しむようにオレを見る。
オレだけに甘いこの雲に乗れば、独眼竜はきっと天に昇れるだろう。
だがその時は、雲の全てを掴んで行くのだと、そっと矢傷の痕を撫でた。
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