明智征伐2
本能寺中を真っ赤に染め上げる炎と熱は、風に煽られていよいよ勢いを増す。
逆巻き立つ火焔は夜空を焦がし、月まで嘗めようかという激しさで、最早何人の織田軍兵を飲み込んだか知れたものではない。
その燃え盛る本殿の中心部。
やっと大輔が本能寺に到着した時には、既に頭上の天井は落下を始めていた。無我夢中のうちに大鳥の式ごと飛び込んだそこで、大輔は必死に信長に向けて手を伸ばす。
それはあっと思う間もない程、刹那の間の出来事であった。
『…信長様』
とっさに自身の下に庇い込んだ主は、まばたき一つする事なく、ごく平然と見上げている。
その無事な姿が、心底大輔を安堵させた。
『申し訳ありません。遅参を致しました』
しかし大輔はすぐに目だけで信長の傷を探りだす。背中に受けた火のついた梁さえ気にならない程、次の心配が心を占める。
あの瞬間とっさに術を使う余裕は無く、馬鹿馬鹿しくも常時張った弱い結界のみで大輔は崩れ落ちた天井を受けたのだ。一時はほっとしたものの、何の結界もない信長を完璧に守りきれたかは定かではない。
ただの人の身では、魔王とは言え梁の重さも炎の熱も軽視できる筈はない。
「構わん…大事ない」
だが幸い信長に外傷は無く、その様な様子も見当たらなかった。
それでも心底悔やむような顔をしたまま、ご無事ですかと大輔の表情が問い続ける。信長の頬についた煤の色さえ、大輔にとっては自身の未熟に思えてならないのだ。
『申し訳ございません』
絞り出すような、唸るような声は、胸の内が勝手に漏れるものだ。たとえ信長本人から一言の許しを得たとしても、未だ大輔の表情が晴れることはない。
『…豊臣めの始末は如何に』
しかし煩わしい繰り返しを嫌う腕の中の主君を見据えては、次の話を進めていくしか出来る事も無く。
今回の明智の謀反を焚き付けたのが豊臣方であることは、当然信長も気付いている。
考える素振りすらなく、すんなりと大輔に返す声は状況にそぐわないような上機嫌なものだった。
「よい…あれは我自らが片付けてやろう」
何を思い浮かべているのか、珍しく口角を上げた信長を、大輔は表面上、ごく冷静に見つめている。
しかしその瞳の奥で怒りが渦巻いている事までも、間近で眺める信長にはどうしようもなく愉しいらしい。
だがうっすらと笑いながら言う信長の答えにも大輔が反論することはなく。目の奥の表情はそのままに、ただしっかりと頷くだけだ。
『…一先ず、この場を抜けます。どうかお掴まりを』
言うが早いか、既に大輔の目は光り始めている。間を空けず、信長の腕がその肩に回された。
術を用いて瓦礫をどかし、焼け崩れたかつての寺から脱する。
火のまわらない石畳の道の上で、信長の衣服についた埃を払いながら。
『明智は俺が始末します』
そう明確に断言した。その顔をちらりと見た信長も、敢えて止める気にはならない。
『その後は直ぐにも四国攻めに取り掛かりましょう』
さっさと豊臣軍を包囲してしまいたいのだと遠回しに告げている。最後の一押しは信長がするにせよ、下準備だけでも大輔は終わらせてしまいたいらしい。
「…好きにせい」
『ありがとうございます』
その事については信長にも異論はない。
明智については更に興味がないらしく、初めから相手をするつもりもなかったようだ。軽い答えはどこか生返事のようでもあった。
粗方払い終わったところで、大輔は自身の着物を一枚、未だ寝間着姿の信長に掛ける。
ふと、大輔の羽織りを脱いだその脇腹の辺りに信長の目が止まった。
「…血が出ておるぞ」
それは先程、瓦礫のどこかが刺さってできた傷口である。
黒い羽織り姿では目立たなかったが、その下の衣服には徐々に血が滲み出ていたようだ。
ぐっと、押すように触れた信長の手が、たった一瞬で赤く濡れる。
『御手が…汚してしまいましたか』
申し訳御座いませんと、大輔の方が僅かに焦る。
だがそれを聞き流し、信長はそのさらりとする手触りにほんの少し眉間に皺を寄せた。
その血は乾くどころか、未だに止まってさえいないのだ。
苦々しく手を眺める信長に対し、僅かに大輔が動揺する。しかし拭おうとすぐさま伸ばした手は、信長自身によって阻まれた。
「フン……貴様の血ごときで、魔王の身が穢せるか」
はっきりとした声に取り出した布は空中で止まり、行き場を無くして元に戻る。
『成る程…道理で御座いますな』
驕っておりましたとその返答で微かに笑った大輔とは正反対に、信長の表情は険しくなる。
「早うその血を止めよ」
『御意』
まったく無茶な命令である。
しかしその聞けるはずもない命令を、恭しく大輔は承けるのだ。
たとえ不可解な術を使っても、これほど深いものはそうすぐに塞がりはしないというのにもかかわらず。
「人の身では体は死ぬ」
『…は』
ぽつりと、誰に聞かせるでなく、呟くように小さく洩らす。
大輔も、微かな相槌だけを言い落とす。
合わないままの視線が、なんとも言い難い間に思えた。
「……貴様が死ぬことは許さんぞ」
言うと同時に、ふいと地面に流された信長の目。
しかしその横顔からは、どうしても目を逸らし難いのだ。
『御意のままに』
大輔は一度声を飲んでから、抑えたような言葉を出す。
それは火の子のはぜる音に混ざる事はなく、はっきりと夜の冷気に浮かぶ。
『あなた様が生きろと仰るならば、私は必ず生きております』
未だ動かない信長に向け、大輔はただ更に言い続けた。
『我が命はあなた様の物。俺が死ぬのは、ただ信長様が死ねとお命じくださった時のみ。その下知を頂かずして、どうして勝手が出来ましょう』
大輔の声を聞き終わっても信長は動かない。
しかしそれは大輔も本より承知の上。
ただその目に一時でも安堵の色が浮かんだことを確認し、それで大輔は満足する。
『兎も角、一旦城にお戻りください。濃姫様たちには俺から無事を伝えます』
いつものように腕を一振り、いつも通りの大鳥が信長の前に翼を広げる。
馬で地上を行くよりも、はるかに速く安全であると考えたのだろう。
『直ぐにも西国の全てを献じましょう』
言ってその場に跪く大輔をしかと見据え、信長は黒い羽織りを翻す。
さっと大鳥に跨ると、変わらず頭を垂れた股肱を見下ろした。
「些事にすぎん…急ぐには、及ばぬわ」
そして一言そう言い残し、あっという間に上空に舞い上がって行く。
東に飛び去って行く大鳥の姿が見えなくなるまで見送ってから、漸く大輔は息をついた。
- 112 -
[*前] | [次#]
ページ:
目次へ
topへ