甲斐偵察1
――綾杉視点―→
『主』
天魔様の御室から退く途中、廊下を歩き始めた大輔様を呼び止める。
『赤松からの伝書が届いております』
告げて、歩みを止めない主の手に、たった今着いたばかりの書簡を乗せた。
すたすたと進むままで読む主の後ろにつきながら、何事かあったのだろうかと訝しむ。豊臣か長宗我部に何らかの動きでもあったというのか。
「…ハ!」
そう考えていたさなか、突然前を行く主が声を上げて笑ったのだから、驚くなという方が難しい。
ましてや声を出して笑うなど、滅多になさらない方だというのに。
『主…?』
「見てみろ」
聞けば、ただ読んでみろと書簡を投げ渡される。
そこでざっと目を通したが、何ということはない。たんなる定期連絡である。豊臣に動きはなく、長宗我部は多少怪しいものの未だ静観の姿勢は続くだろう、と書いてあるだけではないのか。
一体、これの何処がそんなに面白い。
「最後に漢詩があるだろう」
問うように見上げればそう言われ、よくよく確かめ直すと確かに数行の漢字が並んでいた。
短い。何首かあるうちの一部を抜き出したものであるらしい。慕情を詠んだうたのようだが、これを赤松が書いたとは思えない。筆跡は几帳面な字体でよく似ているとはいえ、おそらくこれは別物なのだろう。
きっと主が笑っているのもそのためだ。
「元就が書いたのさ」
『毛利が?』
「そうだ。あの元就がな。これが笑わずにいられるか」
この会いたいと告げる恋慕のうたを、あの毛利が…。いつも能面を貼ったような顔をして、ただ黙々と主の言に従うばかりのくせに。
仕方なく服従しているのだとばかり思っていたが、どうやらそれだけではないらしい。
『…意外です』
「だろう?」
あの男も思った以上に主に惹かれているようだ。
前から愉しげな声が返ってくる。もし今顔を見られるとしたら、主は笑っておられるのだろうか。
「ふた月の間、東に何の動きも見当たらなければ戻ると送っておけ」
おや、と思う。
この方が代筆とは珍しい。何を急いでいるのだと、経験的に思い当たる。
『何処かへ向かわれるのですか』
問えば、ぴたりと足を止めて振り向く。
その顔は上機嫌なそれではなく、普段と変わらぬ不敵な笑みを浮かべていた。
「先程、主命を承けてきた。俺はこれから越後に向かい、武田を探る」
けろりと言い放ってはおられるが、主は既に武田の忍に顔を知られている。それに式神も意思を持つ人型という高度なものを千体、中国に置いて来てしまって、これ以上は手駒の創出も難しい。
そんな中で向かわれるというのだ。
危険がないわけがないではないか。
「わかっているだろうが、お前は此処で後方の連絡を回せ」
『…は…』
そう言われるのは主の性格上、当然わかっていた。主は天魔様の命令だけは絶対に他の者に任せないから。
しかしたとえわかってはいても、単身で向かって行って欲しいわけがない。
行かないでくれとは言えないが、せめてついて行きたかった。
「不満がありそうだな」
『…自身の主が、敵地近くに向かうのに、不安を持たない臣が何処におりましょうか』
勿論、それだけの危ない橋を渡る価値のある任務である。危険だからこそ、越後という最も敵地に近い、しかし勢力範囲内から簡単な式を偵察に飛ばす事で済ますつもりでいるのだろうが…、それにしても危険過ぎる。
「むくれるな。それよりも、近々大変な波が来る」
『!!』
びくりと身が強張った。
明確に何時、どのようなと言わないということは、未だ運命が定まらないということなのか。
「主上に関わる大きな異変だ。必ず俺が防いでみせるが、恐らくその時は俺も害を免れないだろう」
声を低め、私に言い聞かせるようにそう続けた。
かつて主が未来とは時々刻々と変化しているのだと言われた。それでも大概の事は決まっていて、常に主の天眼に映っているのだと。
それが映らないという事は、よほど分岐の先の未来に差があるか、あるいは主自身が深く関わってしまっているかのどちらかだ。
もし不明瞭さの原因が後者ならばそれは、自身にとってもかなり重大な意味を持つ異変ということになる。
「綾杉はこの地でその時に備えろ。これは赤松にも伝えておけ」
『しかと、承りました…!』
まだ異変は起きないというのなら、今はただ、どうかご無事でと願うほかない。再び歩き出した主の背をじっと見送る。
「…そうだ」
途中、ふと足を止めて、主がこちらを見なおした。
「景虎にはいずれ戻ると行ってくれ」
ひらりと手を振ってそう言い残し、今度こそ主は視界から消え去った。
話の中ではほとんど触れていませんが、今回元就が引用した(という事にした)漢詩は「華山畿」というものの一首で以下のようなものです。細か過ぎる設定に付き合ってやるぜ!という男気にあふれた方はどうぞ。
「華山畿」
奈何許
天下人何限
慊慊只爲汝
奈何(いかん)せん
天下に人何ぞ限りあらん
慊慊たるは只だ汝の為のみ
訳:
ああ、どうしよう。この世に人は数限りもなくいるというのに、こんなに物足らぬのは、ほかでもない、ただあなたがいないためなのです。
岩波の中国名詩選(中)より引用
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