兜率天≦四王天
――上杉視点―→
下弦の月がようよう天頂に上りきり、燦々と煌めく星が最も輝いて見える時刻。
部屋の前で――正確には少し距離があるだろうが――音がした。
こんな夜更けに自身の部屋を訪れるのは、自らの忍を除くとたった一人しかいない。この城での自分はあくまで捕虜でしかなく、用向きのある者などいないのだから。
何にしろ確かめなければと体を起こし、すぐに床を出る。
消えかけた灯りを掲げ、静かに襖を開き、音のした方を窺えば。
『…だいすけ…!』
多少離れた柱の所に、寄りかかるようにして座り込んだ人影がある。城の内側の廊下は闇同然ではあるが、それが大輔であると気付くのに時はかからず、慌ててそちらに駆け寄った。
「…景虎」
どうしたのかと問おうかと思ったが、止める。傍に寄っただけでわかる程酒精が強いのだ。
要は、大輔は酔っているのである。
回りすぎて、ついにここで歩けなくなったのだろう。
「お前の方で出てきてしまうとはな」
驚かすつもりだったのだと言う。会いに来てくれようとしていたのを知れば、自然と鼓動が速まってしまう。
何処かには、この高鳴りを抑える術があるというのだろうか。
『…とにかく、なかへおはいりなさい』
努めて平常を保ち、なんとか言葉を紡ぎ出した。そしてゆっくりと立ち上がった大輔の体を、倒れないよう横から支える。
しかし、頭一つ分以上上背のある大輔はその分重く、あまり意味を為さないことだったのかも知れないが。
『そなたが これほどにすごされるとはめずらしい…』
先程までいた布団に誘導すれば、ごろりと其処に横になる。僅かに潤んだ半眼が向けられて、知らず胸が波立った。
吐く息までが熱を帯びているようで、自身までもが酔いかねない気さえする。
「今日は酒宴があったからな」
『しゅえん?』
頷く。それも滅多にない無礼講だったのだと。
「主上は酒を召されん。だからその分、隣の俺が受けたのだ」
…まさかあの信長公が下戸だとは思いもよらなかったが。
なんとも意外な事を聞いた気がする。
『もしや…だされるままに うけたのですか?』
「無論。主上に不快をさせられるか」
フンと余所を向いてしまう。大輔の意地を張ったような顔など初めて見た。まるで子どものような仕草だと思う。
そんな顔もするのだと知り、純粋に嬉しく感じた。
「…景虎は酒が好きだったな」
目線が戻され、同時にゆるりと手が伸びてくる。
取れば、同じように軽く掴まれた。
「お前ほど飲めたら、もっと主上のお役に立てるんだが…」
への字に曲がる口が可愛らしいと喜ぶ反面、そこまで想われる信長公が憎らしい。
捨て去れたと思った情の色は、思いのほか濃くこの身に染み付いているようだ。
「…眉」
『え…?』
「眉間、しわよってる」
独特な、あの見透かすようなわらい顔。
「軍神がそんな顔をするようになるとはな」
楽しそうに笑い、とられた指先に口を寄せられる。たったそれだけの仕草に動揺するなど、かつての自分では有り得なかったのに。
だが、大輔がそうしたのだろう、とただその一言が喉につかえて声にならない。
「その方が、俺好みだ…」
手を引かれ、抱え込まれれば胸がなる。
ドキリとしたがそれでも大輔は最早睡魔に抗えないのか、言ったきり瞼が下がってしまって。
すぐに微かな寝息が聞こえはじめた。
普段よりも高い体温を間近に感じながら、囲うこの腕に、安堵しているの自分に気付く。
なんと逃れがたい。
魔に魅入られるとは、こういうことかと思い知る。
- 106 -
[*前] | [次#]
ページ:
目次へ
topへ