尾張休憩2
「よるなっ!!」
これは上杉の忍。
目を覚ました第一声がこれだ。
「ここはどこだ!?何故きさまがここにいる!!」
主に向かってきさま呼ばわりとは。主に言われていなければすぐにでも制裁を与えているところだが。
傍についていた上杉本人を庇うようにしてみせたところで今更よ。どうせ自身の怪我一つまともに治せていないくせに。
「落ち着け。危害を加えるつもりはない」
「黙れ!侵略者がなにを言う!」
隣に立つ主から、小さく息を洩らすような音がする。
…捕虜の身でなんと愚かな。まして一瞬でも頭を悩ますとはなんたる不敬。主の気まぐれに感謝こそすれ、威嚇するなど到底許し難い。
『丸二日も寝こけておいて、よくもそんな台詞を吐けたものだ。貴様らを誰が助けてくださったと思っているのか!』
「なんだと?」
『貴様の腹を塞いで屋敷に保護し、上杉共々長らえさせてくださっているのは他ならぬ我が主、大輔様であるぞ!』
守る力もないくせに口先ばかりは大層な事を言う。
不愉快な女だ。
「…知るか!勝手にしたことだろう…!」
『言わせておけば…』
「綾杉」
『…、申し訳ありません』
出過ぎた事を諫められ、口を噤む。仰ぎ見た主の目が細められていたから、あぁこれでもう終わるのだ、と思った。
「お前がそう思うなら、それを望んだ景虎は報われないな」
「なに…?」
忍の気勢がやや削げる。
だがそんな些細なことはどうでも構わないのだ。どうせすぐにも完全に大人しくなってしまうだろうから。
「謙信さまが…?そんな…」
「そうでなけりゃ誰が殺しかけを助けるかよ」
そうして話をする間、主はじっと見据え続ける。それこそが本来の狙いなのだ。
ほら、忍の上杉を窺っている顔が青ざめていく。主から発せられる威圧感に、本能的な恐怖を感じ始めている証拠だ。
「つるぎよ…ぶきをしまいなさい」
「しかし…!」
「たしかに わたくしがだいすけに そなたをたすけてくれるよう、たのんだのです」
こちらも余波を受けてお世辞にも顔色がいいとは言えないが、さすがに毘沙門だけあって忍よりはましなようだ。
「そなたのてに おえるあいてではない。むやみに しを のぞんではなりません」
自らの主君に退くように言われ、再度しっかと我が主を見た忍は、今度こそ誰に言われるまでもなくその頭を垂れた。
遠目にもその体が震えているのがはっきりとわかる。
その重圧に耐えきれなくなった時、人は勝手に屈していく。天眼とは…天上の存在とは元来それだけの力あるものなのだから、端から下天の生き物に抗い得る道理はないのだ。
「手当てをしてやれ」
『は、』
ふっと空気が緩む。
再び主が重圧を隠してしまわれたようだ。面倒そうな気もするが、脆弱な人と暮らすのだから仕方がない。
その証拠に、このほんの僅かな間でさえまともに受けていただけで、目の前の女の傷は開いてしまっている。もし常時解放され続けていたら、とてもじゃないが保たないだろう。
「景虎はこっちだ」
ついてこいと軽く呼ぶ。主は随分とあの男がお気に召されたらしい。暇を見つけては、ああして構っておられる。
上杉の方でもまんざらではないようで、今も小娘よろしく頬を染めて見せるのだから面白いものだ。
連れ立って部屋を出たのを静かに見送る。
…これは下に来て気付いた事なのだが、どうやら人間は主に威圧を受けると、その後ほぼ間違いなく好意を寄せるらしい。憧憬なのか敬意なんだかよくわからないが、とにかく、好く。
「………」
『なんだ』
「…あれはいったい、何者だ?謙信さまはどこへ向かわれたんだ」
包帯を巻きなおしてやりながら、鬱陶しくこちらを睨む女に、半ば呆れて問いかけた。
それなのに我が主をあれ呼ばわりとは、未だに立場が理解出来ていないようだな。
「いっ…!」
『“あの御方”、もしくは“あの方”だ』
巻いていた包帯の上からきつく押す。
『貴様は戦っただろうが。主は織田の武将。上杉とどこに行かれたかは知らん』
おそらくは主のお部屋か、さもなければ庭か城下町でも連れ歩いておられるのだろう。
わざわざ言ってはやらないが。
「…そうか」
目に見えて気落ちした忍に内心ため息を吐く。
「…その…大輔さま、と、おっしゃるのか…?」
…ほらみろ、さっきまでの敵意はどうしたと聞きたくなるほどの変貌ぶりではないか。
ちらりと見上げてくる顔は眉が落ちてすっかり腑抜けたものである。畏怖だけでは足りないのか。まったく。
『上杉一筋ではなかったのか?』
「なっ!?…もちろん私は謙信さまだけだ!!」
どうだか。大人しいかと思えばそわそわして。忍も他の人間とかわらんな。
「謙信さまだけだが、…謙信さまが意識していらっしゃるようだから……」
尻すぼみな声に説得力などあるものか。
同じ上杉の眼中にあるでも武田相手とは随分態度も違うしな。
『疎まれたくないなら、せいぜい邪魔だけはしないようにしておけ』
主は気性の穏やかな方ではあるが、あれで根は規制を嫌う。先程のようなやり取りが今後も続けば間違いなく遠ざけられるだろう。
『特に、今日は静かにしていろ。また傷が開いてはかなわん』
「…すまん。手間をかけた」
『気にするな。主の御命令だ』
道具を片付け立ち上がる。初めからそうやってしおらしくしていれば良いものを。そうすれば、従う者に主はひたすら優しい。
だが、こんなにも綺麗な顔立ちならば主の目に留まってしまいかねない。
だから絶対に教えてなどやるものか。
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