尾張休憩1
―― 部下(綾杉)視点―→
じじとかすかな音がする。
暗い牢獄へと続く廊下、手にした灯りの燃える音だ。
照らし出される範囲は狭く、頼りないが、この小さな明かりがなければそれすら見えなくなってしまうだろう。
…こんな時、人間の身は不便だと思う。
しかし人の身に転生しても後ろを歩く主のように力があれば、それだけ転生前の能力も残せるのだから、ただ己が未熟なだけなのだが。
まして主の目は天眼。きっと一片の光も差さない暗中でも、全てを御覧になれるに違いない。当然こんな廊下はわけもないはずだ。
無能な己の為に灯りを掲げて歩くことは、全く滑稽としか思えないが仕方がない。先も忍を一人取り逃がして力を借りてしまったばかりで、お役に立てない方が心苦しいというもの。
そう決めつけて先導するが、あまりの不甲斐なさにこっそりと歯噛みしてしまうのは止めようもない。
「綾杉」
『は、どうぞ…此方でございます』
なんとか挽回をと考える間に廊下は終わり、獄の扉が前にある。今日は件の忍を主が検分なさるのだ。
「…また随分と厳重に捕らえたな」
呆れたように主は笑われるが、一度は逃がした程の手練。再び御手をわずらわせるようなことを避けたいと考えるのは当然だろう。
…言いはしないが。
「耳は塞いであるか?」
『目も耳も、ご心配には及びません』
蝋で塞ぎ、布で巻き、香を使って五感の全ては麻痺させてある。傷はつけるなと言われたから、その分きちんと処理をしたのだ。
でなければ、此処でこうして話もできない。
無造作に転がしてある忍はぴくりとも動かないが、きちんと息もしているし意識もある。ただ何一つ感じ取れない処にその意識がやられているだけだ。
「よし。ならこれから俺の言う情報を、しっかり記憶しておけよ」
『は…!』
いよいよ主が天眼を使われる。記憶や情報とは詰まるところ過去の蓄積だ。未来まで全ての事象を見透かすその瞳にとっては、既に起きた事を読み取るなど嚢中の珠を取るも等しい。
しかし、敵方の情報とはいえ文書には残せないから、記憶を文書の代わりとせねばならないのだ。
「…真田の忍か…だが、武田本体の情報も知っているようだ…」
細められた目の奥がこの世ならざる光を放つ。一音も聞き漏らすまいと、更に耳をそばだてた。
…軍備・警護に政、その外細大にかかわらず告げられた話を残らず頭に叩き込み、とりあえず記憶し続けるうちにピタリと主の声が止まる。
「有能な分だけよく知っていたな」
不意ににやりと口角を上げ、満足そうに腕を組む。振り向いた両眼はもはや光を放ってはおらず、穏やかに私を映してくださる。
めぼしい情報は以上らしい。
「こいつはもう用済みだ。甲斐の近くに捨ててこい」
『…殺さなくてよいのですか?』
構わないのだと肯く。
「これを殺すと、武田が降らんのさ」
恐らく、先見をされた結果なのだろう。
となればそれは決定された未来だ。
『しかし、何故わざわざ引き入れる必要が?伐ってしまった方が良いのでは?』
「いや…武田には残ってもらう」
はっきりと言い切る主に首を傾げれば、
「主上がお戻りになった後、武田がいなければ徳川の一人勝ち。対抗馬がいなくては主上が天上から御覧になる暇つぶしがなくなってしまうだろうが」
さも当然という風に告げてくる。
たいした時間も稼げないだろうが、ないよりはマシ…ということらしい。
「あの方が退屈されているのを見るのは、とてもじゃないが忍びないからな」
そう言われてしまえば納得だ。比べることもおこがましいが、私のような者でさえ、もし主が不満そうであれば何かして差し上げたいと考える。
まして主は天魔様に忠誠を盟っておられるのだから当然だ。
『では、上田城付近に置いてまいります』
「頼む」
そう言い残し、主は暗い廊下を真っ直ぐに引き返して行く。
その姿を見送ってから、漸く自分の仕事に取りかかった。
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