01


 あれは、そう。
 城の茶室近くの庭に植えた一本の桜の木が、所々蕾を付けた頃。

 当初は桜ではなく梅を植えたいと提案したが、桜が好きな彼女は、桜を植えたいと譲らず、この私が譲歩した。滅多に欲を言わぬ彼女に物珍しく思ったのもあった。
 支配国の一つにあった、その国で秀逸であるという名所の桜の木々の一本を拝借し、特別に庭に植わらせる。桜を植えた時は大層喜んだ彼女も、どういった経緯でこの桜が植わったか聞けば、途端にその表情が曇ってしまうだろうと危惧し、話さなかった。
 周辺国や自国の民からも恐れられる私の妻だというに、彼女の魂は元来より純粋であり、なおかつ優しすぎる。あまりにも不安定で、不釣り合いな二人だと自嘲した。
 そんな、開花の近い桜の蕾が穏やか春風で揺れる、麗らかな気候の中。
 庭に出たいと懇願する彼女を抱き上げ、城の庭に足を踏み入れる。体重は甚だしく落ち、ふっくらとしていた手足は今では細く痩せ、一人で歩くのも困難になっていた。
 普段は彼女付きの侍女に身の回りのことをさせているが、本日だけ特別に私が傍に居る。それも、欲の無い彼女からの頼みであった。
 長閑な春の日差しを浴びながら、彼女は血色の悪い荒れた唇を開いた。
「久秀様」
 鼓膜を響かせるのは、力が出ないのか弱々しく私を呼ぶ声色。蚊が鳴くような声に返答をすると、緩慢な仕草で顔に笑みを浮かべる。
「また、お逢いできますでしょうか」
 また、逢えるか。
 彼女はそんなことを気にしていたのか。彼女とて、当に確信しているだろうに。
「瑣末なことを。確認を取ることもないだろう。私と君は、いずれまた出逢う」
 確かめようもない未来。だが、私と彼女には確かめられなくても、必ず出逢えるという自信があった。
 彼女は安心したように微笑み、私の胸板に顔を擦り寄せてくる。その姿は過日の私に甘えてきた時のようであるが、どことなく哀愁が漂っているのは、気のせいではないだろう。
 価値ある物ほど壊れるのも早く、己の手に残り続けることは少ない。彼女もまた、価値ある物の一つだったと言えよう。自身の目利きはやはり優れていると証明できた。
 彼女の白い頬を撫でると、途端に先ほどまで浮かべていた微笑みとは打って変わり、情けない笑みが浮かぶ。出会ったばかりの時、この笑みはあまり好ましいとは思えなかったが、慣れると存外悪いものではなかった。
「久秀様」

 私を、必ず見つけてくださいね。
 待っていますから。

 気付いた時には、彼女の白く細い手は力を無くし、振り子のように揺れていた。脱力した彼女の身体を抱き直し、頭上の桜を見上げる。
「やれやれ、随分酷なことをこの私に命じる」
 嘆息を吐き、額に唇を落とす。彼女は、額を吸われるのが好きだった。
「生憎、価値のある物には執着するたちでね。いくら君が嫌がっても、私は執拗に追い求めるとしよう」
 小さな弱い風が吹き、桜の枝を揺らす。

 蕾は、まだ開かない。

***

 また、桜の季節がやってきた。

 彼は昔から桜よりも梅を好んでいた。故に、桜が開花しようとも周り程喜ぶこともなく、むしろ宴会だなんだと何かにつけて飲酒に繋げられることを苦に思っている。
 そういうこともあり、雅を重んじている彼にとって、桜はあまり好ましいものではない物であることは明白。だがしかし、毎年この季節になるとニュース番組が報じる桜の開花予測に注視してしまう。
 それは外出先でも同じで、桜が目に入ると意図せず立ち止まっては思い馳せてしまう。桜という存在は、それくらい彼の中で大きかった。
 さほど好んでいない桜に、ここまで固執してしまう理由は、ただ季節だから、という曖昧な理由では片付けられる程単純ではない。

 彼が、前世の記憶を保有していることが一つの要因だ。

 保有している記憶。時代はなんと、かの戦国乱世であり、彼自身が一国の城主を務めている、というなんとも信じ難いものだ。
 記憶自体は物心付いた時から認識していたが、以前の記憶を保有しているという物語のようなことに、妄想かなにかだと推測していた。しかし、年を重ねるごとに記憶は鮮明に色を付け、事細かに思い出せる風景や物が増えてきた。
 例えば、彼が治めていた国の風景、風土、好んだ茶器の色や形、重さ、そして大層気に入っていた、茶釜など。実在され、不明確な予測のみ文献に記されている、由来が不明なその茶釜の名を彼が詳しく把握しているほど、鮮明に。
 それら以外は、どこぞの一族を滅ぼしただとか、民を焼き殺しただとか、目も当てられないなんとも悪逆非道な行いもあるのだが、彼にとっては取るに足らない記憶。さして気にとめる必要もないどうでもいい記憶だった。
 そんな玉石混交の記憶の中に、極めて一つだけ、長年気がかりにしている記憶がある。

 私を、必ず見つけてくださいね。
 待っていますから。

 耳について離れない、憂いを帯びた弱々しい声色。
 それはかつて、彼の妻であった女からの最期の懇願だった。
 幼少時は病気ひとつしなかった彼女であったが、彼の元に嫁いでしばらくした後、病に侵され痩せ細っていき衰弱して亡くなった。彼とは真逆に心優しくたおやかな彼女らしい、穏やかな最期だった。
 彼女は彼が支配した国の人質であり、当初は娶る予定もなかったが、彼の気まぐれによって側室でもない、愛人のような存在で迎え入れられる。勿論、いくら支配されているとはいえ、彼女の扱いに支配国の人々は黙っていなかったが、それも彼の悪辣な手口で黙らせた。
 それが、全ての始まり。
 彼女は織田の妹のように、特別な美しさはない。だが、まるで水が浸透していくかのように彼は彼女と接するたび、彼女の優しさや魅力にゆっくりと絆されていった。
 自身の性質とは真逆な存在が物珍しかったのかもしれない。初めはそう考えたが、何年経とうとも彼女を手放す気は起きず、彼女が没しようとも気持ちは変わらなかった。
 病に侵されてもなお美しく魅力的な彼女に価値を見出し、彼は未来を彼女に誓う。
 絶対に見つけ出し、再び共になることを。
 しかし、現世に生を成して早云十年。自分の肉体は衰える一方で、彼女を見つけ出すことは未だ叶っていない。
 違う土地に生を成したか、はたまたお互いに生まれる時代を間違えたのか。前者であるならばまだ希望はあるが、後者となるとなす術がなく、諦めるしかない。元来、彼の性格上そのような不確定な記憶など捨て置く主義であるが、どうしてもそれができなかった。

 出来ることなら、再び春の陽だまりのような笑みをこの目で見たい。
 絹のように滑らかな頬に触れ、その温もりを感じたい。
 出逢うだけでは足りない。
 会話し、触れて、彼女を、彼女の存在を五感全てで感じたい。

 その為なら、どんな手を使っても構わない。かつて、自分が犯した行いをすることを厭わないと思えるほどに。
 そう思ってしまうくらい、彼女の存在は彼が思っている以上に絶大であり、唯一無二と呼んでも過言ではなかった。

 彼は、ただただ彼女に出逢いたかった。

 * * *

 慣れない土地の土を踏みながら、彼はまだ蕾が多い桜を見上げる。彼女が好きだと言った、桜。
 よく低い位置に伸びた桜の枝から短く細い茎を一房手折り、彼女の黒く艶やかな髪にあてがうと、優しく笑みを湛えて喜んだ。その笑顔が酷く眩しくて、よく目を細めたものだと顔を綻ばせる。
 新しく教師として赴任した先の学園高校には、桜の木が植わっていた。特に校舎裏に植わっている桜はなんとも見事であり、校舎裏によく足を運んでは見上げている。
 偶然なのか、はたまた必然なのか。この学園には前世の記憶に縁のある者ばかりが集まっており、なんの因果だと思わず苦笑いを漏らした。
 しかし、前世の記憶に関係ある者ばかりとはいえ、記憶の有無はまた別の話。実際、彼は何人もの前世と関係のある人物たちと出会い、中には会話を交わした者もいるが、大半は覚えている素振りを見せることはなかった。
 相手が記憶を保有していないことに対して、彼はなんとも感じなかった。むしろ、前世の因縁を付けられては面倒だと思っていた節があった為、結構だと思っている。
「松永先生!」
 彼−−松永久秀は、不意に名を呼ばれた方を視線をやる。視線の先には、顔も名前も前世のままで記憶と一寸違わない、かつてその首を掴んだ青年−−徳川家康だった。
 皺一つ無い紺のスーツに身を包み、笑みを浮かべ駆け寄る彼は、前世の記憶を保有していないらしい。その証拠に、再開当初から平然と話しかけてきている。
 ちなみに、徳川は松永が赴任してきた先の現代文を担当している、教師歴二年目のまだまだ新任の教諭である。
「探しましたよ。そろそろ会議が始まるので、職員室に来てください」
「そうか、わざわざすまないね。では、あと少ししたら向かうとしよう」
 そう言って再び桜を見上げてしまった松永に、徳川は「困った」と頭を乱雑に掻く。以前にもこのようなことがあり、本人が満足するまで動かないことを徳川は分かっているので、大人しく引き下がる。
「では、ワシは先に行ってますので、後から必ず来てくださいよ!」
 来た時と同じように、駆けてその場を後にした徳川を見ることなく、桜に目をやり続ける。頬を撫でる緩やかな風が心地いい。
 こうして桜を見ていると、たまに想起するのだ。暖かく麗らかな気候の中、彼女が彼の隣にいて、共に桜を見上げている過日を。
 目を合わせることもなく、会話もなく、二人でただ桜を見る。
 ただ、それだけ。
 ただそれだけであるが、また隣に彼女がいるという事実を味わいたいものだと、自らの妄想に自嘲した。
 ふと黒を基調としたパテック・フィリップの腕時計を見ると、会議の時間が差し迫っていた。議題は一週間後に控えている入学式の打ち合わせだと言うので、通常は急いで行かねばならぬのだろうが、その必要もないだろうと踏んだ。
 なぜなら、この学園の理事長は足利義輝という男であり、彼もまた前世の記憶を保有しているうちの一人で、松永の性格を熟知しているからだ。おそらく、さっき松永を迎えに来た徳川からとっくに説明を聞いていて、会議には遅れて参加することは知れているだろう、と予測した。
 他の職員から垂れる不平不満に対し、足利なら笑って受け流すだろうと、確証もない事柄に期待し甘える。いや、それ以前に松永が時間通り会議に参加しないことなんぞ見越しているだろう、足利とはそういう男だ。
 この学園に赴任してきた理由も、足利の引き抜きによるもの。足利と再開した時は互いに変わらぬ姿に驚いたが、それは中身も同様であり、再開直後学園へスカウトした。
 有能な人物は手元に置きたがるこの男らしいと松永は快諾し、そうしてこの春、学園に赴任することになった。ちなみに、松永は担当科目は日本史であり、二年生を受け持つことが決まっている。
 桜を思う存分堪能した松永は、そろそろ会議に赴こうと踵を返す。もうとっくに会議は始まっているのだが、一応勤めを果たそうと気は向かないが向かうことにした。
 校舎裏は午後になると日が差す位置にあるため、校舎に沿って花壇が並んでいる。花壇にはパンジーなどの春の花が植わっており、どれも手入れが行き届いているようで、色とりどりの花を咲かせていた。
 それらを鑑賞しつつ、ゆったりと歩みを進める。土が色濃く、花弁が濡れていることから、つい先ほど誰か水をやったのが分かった。
 本日は休日であるから、松永は水をやったのは園芸部の生徒であるだろうと考える。それ以外の理由で、学園まで花のためにわざわざ足を運んでまで水をやる生徒はいないと思ったから。
 不意に人の気配を感じ、視線を花壇から前方に移す。花壇の側で、水をやっている一人の女生徒がいた。
 彼女の姿を瞳に映した途端、松永は愁眉を開く。
 春の暖かな日差しを浴びるその黒髪は、艶やかに輝いていた。
 ジョウロを持つ手は白く、細くて。
 そして、その横顔は、あの時と一寸違わぬ、求めて止まない穏やかなそれ。
 
 私を、必ず見つけてくださいね。
 待っていますから。
 
 彼女の声が、聞こえた。
 
 −−見つけた。
 
 ついに、ようやく。
 安直な言葉しか出ないほど、今の彼は高揚している。胸元で沸き立つこの気持ちをどう鎮めようか、考えられない。
 口角が自然と持ち上がるのが分かっていながら、松永は彼女に近寄る。
「やあ、御機嫌よう」
 自嘲してしまうくらい優しい声色で挨拶をすると、花壇を見ていた彼女は顔を上げた。目を丸くし、キョトンとした顔をしている姿は、まさしく求めていた彼女その物。
 ようやく出逢えたのだ、彼女に恨み言という冗談の一つや二つ述べてしまおうか。そう思って口を開きかけた時。
「−−あ、こんにちは。新任の先生ですか?」
 二人の間に流れるのは、沈黙。
 返答が無いことに戸惑う様子の彼女を見つつ、松永は一度目を伏せた。瞼の裏に見えるのは馴染み深い笑顔だが、瞼を上げた先にあるのは、初めて己を見たという、顔。
 もちろん、徳川のように前世の記憶が無い可能性も視野に入れていた。しかし、心のどこかで期待をしていたのも確かで。
 瞼を開くと、目の前には戸惑いを見せる彼女の顔がある。松永は一つ、息を吐いて口を開いた。
「ああ。今年から赴任することになった者だよ」
 ようやく返答があったことに安心した彼女は、朗らかな笑顔が浮かぶ。花咲くような笑顔に、変わらないのは容姿のみではないようだと、再確認した。
「そうなんですか。私は今年から二年生になる、萩原美里って言います」
 よろしくお願いします、と続けて言う彼女−−美里に、松永は目を細めた。名のニュアンスはいささか変わってしまったようだが、音は変わらず柔らかに紡いでいる。
美里の名を心中で反芻している中、美里が二年生ということに笑む。松永が受け持つ学年であるから、必然的に美里のクラスを受け持ち、頻繁に会うことになるだろう。
「私は松永久秀。日本史を主に担当している。二学年を受け持つことが決まっているから、君とはまた会うことになるな」
 なんとなしに言うと、美里は声を弾ませた。
「そうなんですか、楽しみにしています。……こう言ってはおかしいと思われてしまいますでしょうが、なんだか、松永先生とは初めて会った気がしないんです」
美里にとって、今言った言葉は彼がなんとなしに言った言葉と変わりないだろう。だがしかし、その言葉は、松永の背筋に甘い何かを這わせるのには、至極十分な言葉だった。
 甘く、痺れるようで、酷く癖になるようなそれ。
 感に堪えないそれを彼女に気付かれないよう、息を吐く。滅多に感情を露わにしない彼が、これ程まで感情を表に出させるのは、おそらく彼女だけであろう。
「君は、随分愉快なことを言う」
「はい。でも、本当にそう思ったんです」
 一瞬、照れくさそうに頬を染める美里と、過去の美里が折り重なる。優しく、温かだった彼女。
 胸元に湧き上がる彼女の様に温かな感情に、松永は満足そうに笑った。
「あ、私そろそろ行かなきゃ」
 美里の一言に松永は自身の腕時計を見ると、時間は大幅に過ぎていた。ここまで時間が過ぎたのならさして慌てる必要もないが、彼女がこの場を立ち去るならと、自らも向かうことにする。
「私も、もうそろそろ行くとしよう。邪魔をしたね」
「いえ、そんなことありません! お話できてよかったです。では、また。授業で!」
 ジョウロを手に、美里は満面の笑みを浮かべて逞しくこの場を走り去った。細く弱り、歩くこともままらなかった過日がなんとも懐かしい。
 小さくなっていく背を見届けたのち、松永も踵を返す。甘い痺れは、まだ背を這っていた。
「さて」
 元来、彼は温和な性格ではない。欲しい物は強奪し、作らせ、必要とあらば人を殺めるのも厭わない、悪逆非道と呼んでも過言ではない性格。
 そんな彼の前に、魂が覚えているほどの宝が最高の結果としてではなかったが、再び現れた。これを手に入れんとして、なんになる。
 松永は、自らの胸の内にわだかまる黒いモノに嘲笑いながら、歩んで行った。


(160206→160218 大幅加筆修正及び書き直し)

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