「もう疲れた」


彼はそう呟いて、水面を蹴りあげた。
舞い上がる水滴が一瞬煌めいて、また一瞬でパシャンと儚く消えて水面に融けた。


「何が」


尋ねると、ムスッとした表情で此方を睨み、何事も無かったようにまた浅瀬へ歩みを進めた。

深さは脹ら脛まである。
スラックスを捲ってはいても、身動きをする度に揺れる波に触れて、きっと濡れてしまっていることだろう。


「あまり向こう行くなよ、コラァ」

「平気だ」

「あぁ?平気じゃねぇよ」


バシャバシャと強引に進み、軈て波は腿までを飲み込んだ。
それでもなお、進もうとする彼は此方に背中を向けたまま見向きもしない。

そこで、やっと馬鹿な真似をしているのだと気づいた。
気づいてから、オレも大概馬鹿なのだと死にたくなった。


「戻ってこい、バカ」

「嫌だ。とりあえず沈む」

「はぁ?それがバカっつってんだよ。いいから戻れ」

「馬鹿でいい。僕は馬鹿だ。一度溺れる」

「…チッ…バカが」


歩みを止めない彼は、もう胸の辺りまで浸かってしまっている。
細身であまり身長の豊かではない彼は今にも波に浚われてしまいそうだ。

オレは靴を放り投げて、慌てて砂浜を駆け出した。
寄せては返す白波を踏んで、浅瀬に足を踏み入れた。
冷たい、と思ったがそれも一瞬で、すぐに視線を彼に戻す。

相変わらず此方には見向きもしない、振り返らない、ずっと向こうの水平線を眺めて歩いている。


「戻ってこい」

「…僕たちは何のために生きてる?」

「は?」

「毎日、訓練して、学んで、戦争して、血まみれになって、苦しくて、死んでもマザーが治してくれて、また毎日を繰り返す」


ばしゃん。
細い両腕が水面を叩いた。
水飛沫が上がって彼はびしょ濡れになる。


「もう嫌だ。疲れた」


彼らしくない。
いつも冷静で透かしたように平然としてて、弱音を言わない。
なのに、目と鼻の先にいる彼は弱音のオンパレードだ。


「諦めんのかよ」


沈みそうになる小柄な体を漸くの思いで引き寄せて、確かめる。
少しだけ眉を寄せてムッとした彼はオレを見上げた。
それに気づかない振りをして、岸へ戻ろうと腕で波間を掻いた。


「お前は諦めんのか」

「痛ェのも、辛ェのも、見ないフリすんのか」

「そんなの違ぇだろ」


何がわかるんだよ!と半狂乱になって叫びながら暴れる素振りを見せた彼の腕を波を、掻いていた腕で握って見せると、酷く憔悴したような顔でオレを見上げた。
今度は反らさない。
真っ直ぐ、オレの目と彼の目は遮られることなく交差する。


「ナメんなよ。オレだってお前とやってきてんだ」


…お前が死にてェって思ってるときは、オレだって死にてェって思うんだ。

生きる希望さえ絶望に変えてしまう、それぐらいこの世界は残酷だ。
夢がない。
幸せも平和も平気で壊して、連れていってしまう。
だから、この世界はキライだ。
彼が追い詰められて、死なれてしまったら、オレは一体どうすればいい。

これこそ死活問題というやつだった。


「お前と一緒だろ、オレらは」


痛みも苦しみも、全て知っている。
幸せを、命を奪う感覚を、オレたちは知っている。
同じようにして、奪っては、後悔を背負う。
後悔を後悔として背負っていては前に進めないから、オレ達は無理にでも見ないフリをしなきゃならなかった。
それは今も昔も変わらない。

彼は泣き出した。
嗚咽から始まったそれは声を上げて涙を溢した。
同じ塩味のある波に落ちて分からなくなってしまうけれど、確かに彼は涙を流して、怖い、とだけ叫んだ。


「怖い、怖いよ…生きるのも死ぬのも」


生きるためには戦って命を奪わなくてはいけなくて。
逆に命を奪われて死んでしまったら冷たい孤独と痛みに苦しまなくてはいけなくて。
どうせなら消えてしまいたかった。
彼は拙い言葉を連ね、岸についた頃にはただ涙を流して静かに泣いているだけになった。


「怖ェけど、オレは怖くねェよ」


お前や、皆がいっから。
割り切ってしまえばいい。

彼は、そんなのはエゴだと言った。
僕や皆がいなきゃいけないなんて、僕らは自由に死ぬこともできないのかと。

エゴでもなんでもいいではないか、生きていれば、連れていかれた平和や幸せをもう一度手に入れられるのだから。
お前が失って苦しいモノを、もう一度掴めばいいじゃないか。
その為に生きろ。

半ば怒鳴るように叫んだ後、彼はまた沢山の涙を流した。

また、手にはいるかな、と。


「お前が諦めなけりゃあいいんじゃねーの」







    fatalism








end
12/05/14



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