S
突然あいつは来た。
ヘラヘラといつものように、口元には張り付けたような笑みがあって弧を描いている。
俺は慌てて、今にも眼から零れそうなそれを制服の裾で無理矢理拭った。
「ナギ、どうしたの〜?」
何処か痛い?
何もかも見透かされてしまいそうな、純真無垢な子供のそれ。
どうしたの?なんて白々しい、きっと彼には気づかれている。
淡い光を放つビー玉みたいなピジョンブルーの瞳は潤み、膜を貼ったようにユラユラと揺れている。
…いや、これは自分の視界が濡れているからそう見えているのだろうか?
だとしたら滑稽だ。
笑えない。
「どうもねぇよ…」
吐き捨てるように呟いて、そういえば長い前髪を上げているせいで表情なんてものは相手にまる分かりなのだと気づいた。
思わず舌を打ちそうになる。
同時に、自分の女々しさにも気がついてしまって、穴があったら入りたい、もとい埋まってしまいたかった。
相変わらず、ジャックはニコニコと口許だけの笑みを浮かべているが、その目は全く笑っていない。
怒りだとか苦渋だとか、そんな責めるようなものではない。
一見すれば、笑い泣きの一歩手前。
泣いてはいないから、困ったような笑いに見えなくもない。
「…隠してるつもり?」
「……は?」
「目、真っ赤だよ。」
わかっている、そんなことは。
だからさっさと放置でもして、何処かへ行ってくれ!
本当なら自分から逃げてしまえばいいのだけれど、こんな情けない泣き顔を公然に曝したくはないし、結局は逃げ場なんて無い。
後にも先にも、要領が悪すぎてまた泣けてきたので、見られる前に脱ぐって隠してしまおうと、袖を持ち上げた。
「ダメだよー!泣いてるときの目は、優しくしなきゃ…」
「…!」
咄嗟に伸ばされた腕に、それを阻止されて、呆気にとられた。
その間に、拭われることの無かった涙は溢れてしまって、ポロポロと落ちてはシミを作る。
先程とは売って変わった責めるような危惧するような色を浮かべた目に覗き込まれて、パッと顔を反らして俯かせた。
見るな。
見るなよ。
こんなの、俺じゃない。
今までだって、ずっと耐えてきたじゃないか。
そう思うのに、溢れてしまった洪水は止まらないし、もう何がなんだか分からなくなってきた。
「ナギ、あんまり泣いたことないでしょ。だから分からないんだよ」
こういう時は優しくしなきゃ、痛くてしょうがないんだよ。
彼にしては珍しい歪みのある表情で囁くと、懐から取り出した淡い橙色のハンカチを、俺の頬に当てがった。
まるで割れ物を相手にしているかのように、その手は優しくて、焦れったかった。
そんなことは女の子にやってやれ、泣いてるやつなんて山ほどいるだろう。
軽口な台詞は用意に浮かぶのに、言葉にはならなかった。
代わりに、喉の奥がくっとひきつる。
「強いんだね、ナギは」
「強くなんか、ねぇよ…」
強くなんか、あるはず無い。
俺は弱い人間だ。
辛いことや苦しいことから逃げるために、わざわざもう一人の自分をつくって、逃げ道を探している。
浮かべたくもない笑顔を貼りつけて、さも楽しいですよ〜、なんて雰囲気を造り出す。
だけど、どうにもわからなくなっちまうんだ。
逃げたくて笑っているのに、辛くて、苦しくて仕方がない。
意味がない。
いつか、人を殺す時ですら笑顔を浮かべてしまうくらい依存して、それが普通になってしまいそうで。
そんな自分になんの価値も見いだせない。
命令だから、殺して。
俺の意思じゃない、分かってるけど、殺してるのは誰でもない俺の手で、俺自身だ。
ああ、嫌になる、逃げたい。
消えてしまいたい。
普段は、いかにもポジティブです〜、嫌み言われたって傷付いてないです、そんなふりをしてるだけ。
本来の俺って、結構ネガティブだったりする。
実は。
手を止めたジャックは、またユラユラとした瞳を隠すことなく、笑みを浮かべて、隣に腰を降ろした。
「やっぱ、ナギって似てるとこあるなぁって思うんだ。」
細くて白い癖に、細かい傷だらけの指先で丁寧にハンカチを畳んで、再び懐にしまった。
その手、お前の方が壊れてしまいそうじゃないか。
綺麗に透き通った硝子に、細かい傷がついて、堪えられなくなって、いつか割れてしまう。
簡単な比喩だけど強ち間違っちゃあいないと思う。
ジャックは伝説だの幻だのと言われて持ち上げられた0組、朱の魔神と呼ばれる一人。
だが、本質は人間で、心がない訳じゃない。
感じて、見て、聞いて、傷つく、一人の人間に違いはなくて、そのなかでもジャックは人一倍、人の感情や気持ちに敏感だと思う。
彼が、似ているところがある、と抽象的に表したのも、俺がそれに気づいていることを薄々勘づいていたからかもしれない。
なんだか悔しい気がする。
「はぁーあ…お前に言われると、何か腹立つな…」
「同族嫌悪ってやつ?」
「誰が、いつ同族になったんだよ!」
「あははは!まぁまぁ、怒らない怒らない〜」
茶化すように笑う彼は嫌いじゃない。
いつも笑っていて、気味が悪いと影口のように囁いてはそそくさと逃げていく奴等も少なくない。
けれど、俺は不思議な奴だな、と思ったくらいで大きな嫌悪感とか不信感は無かった。
寧ろ、興味深いと思ったくらいだ。
変な意味じゃない。
少しぐらい嫌な顔をするんじゃないかというような陰口も、表情を一切崩さずに平然と、何事もなかったかのように笑顔を浮かべる。
「お前さ、今の、素?」
「ん?」
「顔」
「なんか変な顔してた〜?」
「違う。そういうんじゃなくてだな…」
何でこういうのには疎いんだ、お前は、と悪態をつきたくなったが、仕方なく口を接ぐんだ。
先程、一瞬だけ浮かべた今まで見たこと無いような柔らかい笑み。
いつも浮かべているような冷たい笑みじゃなく、目元も一緒にふんわりとしたような感じの。
だからか、拍子抜けしてしまって、余計に脱力した。
「僕ね、ナギ好きだよ」
「…はい?」
「やだなぁ、変な意味じゃないよ」
「“変な意味”の意味を聞こうか?」
「いじわるー」
「冗談だっつの」
「だからね、ちゃんと聞いてよ〜」
「はいはい、何ですか。」
「うん、あのね。僕、ナギは皆とおんなじ位好き。」
「…0組のやつらと?」
「そう。泣いてたり苦しんでたりすると心配だし、楽しそうにしてたら僕は嬉しいし。…んー、よくわかんないけど、そんな感じ。」
「…へー」
「軽っ!ちょ、今、僕イイコト言ったよね!?ねぇ!?」
「お前、空気読め。照れてんだ、バカ」
「あ、そなの?えへへ〜」
調子が狂う、とはこの事だ。
他人に足を引っ張られてペースが狂うのとでは意味が違う。
俺が言いたいのは、いつもガチガチに固めてきた表の仮面を取った素面の状態で、付き合っていられる、という意味。
訳もなく、サラッと凄いことをいってのける彼には自覚なんて無いだろう先程の笑顔は、兄弟と同じ位好き、という気持ちから来ているのだろう。
少し前までの俺だったなら、他人との距離に敏感で、近づきすぎた間柄を酷く恐れた。
人付き合い関しては適度な距離を保って関わって来たし、それ以上を求めることもなかった。
だが、ジャックからのその言葉は、人付き合いをする上の何かを崩された気がした。
悪い意味ではなく、良い意味で。
気づけば一緒に笑っていたのは、ジャックの成せる業だったのだろう。
やっぱり、ほんの少し悔しかったが、半面救われた気がした。
smile,smile
end.
12/04/19
[栞]