(帝光)


廊下の真ん中で、紫原は鼻をぴくりと動かす。

感じるままに振り返ると、ちょうど見知った人物が歩いてくるところだった。


「あ、紫原くんだ」


紫原は自分より小さい年上を見下ろすと、強くなった匂いに再度鼻を動かす。

花のような甘さではなく、舌を、味覚を刺激する甘い匂い。


「アラ?遥ちんから美味しそうな匂いがする…」

「調理実習でフォンダンショコラ作ったからかな?」


フォンダンショコラ、と繰り返すと、紫原はじっと遥を見下ろした。

眠たそうなその瞳を見つめ返し、遥は言い淀む。


「えっと…」

「…ないの?」

「人数分しかなかったから」


紫原は一見興味の無さそうな返事を返しながら、遥の片手を取り、その手の感触を確かめるかのように弄び始めた。

怠そうに首を傾けた彼の長めの髪が揺れる。


「ふーん。でも作り方覚えてるでしょ?」

「覚えてるけど…」

「じゃあ作って。……ください」


付け足された"ください"は、物理的な意味なのかそうではないのか。

遥は紫原に遊ばれている手はそのままに黙り込んでしまう。


「お腹いっぱいになるか、飽きるまで食べるから」


紫原からのもう一押し。

彼の性格から考えて、どちらかと言えば後者の方が可能性は高そうではあるが、どっちにしろ遥は更に悩まされることとなった。


「…カロリー控えめで頑張ってみるね」


漸く返ってきた了承の返事に、紫原は首をゆっくりと縦に振る。


「カロリーとかそこらへんはどーでもいーけど、美味しいのがいい」

「努力はするよ」

「ありがと〜。遥ちん大好きー」

「私じゃなくて、お菓子でしょ?」

「えー、違うし。や、違くもないけど…違うし」


不満げに口を尖らせる紫原。

彼が無類のお菓子好きということは、遥は勿論周知の事実である。


「お菓子は好きだけどー、遥ちんも好き。だから遥ちんが作ったお菓子も好きだし、お菓子作れなくても遥ちんは好きだよ」


遥は照れ臭そうに微笑んだ。

例え普段口煩い先輩だと思われていたとしても、例え料理が出来なかったとしても、後輩がなんだかんだ自分を気に入ってくれているとなれば、やはり嬉しいものである。


「こーゆーときどー言えばいいんだっけ………あ、思い出した」


視線をぼんやりと宙に彷徨わせていた紫原はふと腰を屈め、今まで散々遊んでいた遥の手へ顔を寄せた。

持ち上げたその掌に口付けると満足したのか、あっさり解放する。


「これからもずっとオレにお菓子を作ってください」

「え?」


とある状況での常套句と酷似したその言い回しに、遥は困惑した様子で彼を見上げたが、対する紫原はいつもと変わらぬ様子で彼女を見下ろしていた。




掌に懇願のキス


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