「ハルカ」
優しい響きを持つその声に手を止め、遥は振り返った。
柔らかく細められた瞳が、まっすぐ彼女を見つめている。
「どうしたの?」
木製の椅子に逆向きに腰掛け、背凭れの上に組んだ腕を乗せた状態で遥を瞳に映していた氷室は、口元に僅かに笑みを見せた。
柔和な雰囲気の中、穏やかに微笑んでいる彼に答える気はないらしい。
引き寄せられるように、遥は彼へ歩み寄った。
氷室の方が背は高いが、椅子に腰掛けているため、いつもとは反対に遥が彼を見下ろしている。
「別に用事があったわけじゃないんだ」
そう言うと、氷室は遥に向かって利き腕を伸ばした。
遥は頭に疑問符を浮かべたまま、細身ではあるがしっかりと鍛えられている腕を目で追う。
「ただ…少し寂しくて」
氷室は遥の手を掬い取ると、そうするのが当然といった様子で、無防備なその甲へと唇を寄せた。
「……!?」
押し当てられた熱はすぐに離れたが、遥の手に残る感触はそう簡単に消えてくれそうにない。
目を白黒させる遥を見て、氷室は楽しそうに笑いを漏らす。
「ハルカといると楽しいよ。飽きないでいい」
「………もしかして馬鹿にしてる?」
拗ねたように訝しげな眼差しを送る遥。
未だ遥の手を意味もなく弄びつつ、氷室は声を忍ばせて笑った。
「それは誤解だよ。馬鹿にするどころか…むしろその逆」
不満そうな遥を宥めるように再度手の甲に口付けてから、氷室は静かに諭す。
「だからオレに背中向けるのは禁止。分かった?」
島国である日本を取り囲む海を思わせるような彼の意図は全く理解出来ていなかったが、遥は戸惑いながらも小さく首肯した。
文化の異なる国で育ったせいなのか、氷室の言動は時折難解で、遥が首を捻ることも少なくない。
「本当に可愛いね、ハルカは」
遥は困惑を露に吃った。
綺麗に微笑んだまま"可愛い"と言われればやはり嬉しいと感じるものだが、こう余裕たっぷりに言われてしまっては、素直に受け取るのが躊躇われてしまう。
「…からかってない、よね?」
「からかってないよ。そんなにオレの言うことが信じられない?」
柔らかい弧を描いていた瞳に悲しげな色が差す。
それに気付いた遥は慌てて謝罪しようとするが、どうやらそれすらも氷室の謀だったらしい。
「冗談。…でも、信じすぎるのはやめた方がいいかな。何が起きるか分からない」
「辰也くん…!」
咄嗟に退こうとした遥との距離をより一層縮めながら、氷室は狡猾そうな笑みを浮かべた。
手の甲に尊敬のキス
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