「一歩千金、歩のない将棋は負け将棋…か」
赤司はそう言うと、遥が打った歩を2マス前方へ進める。
そして駒を裏返した。
歩兵は"と金"へと成り、反則ではなくなる。
遥は一連の動作を静かに眺めていた。
遥が何となく打った歩兵を、2回分自陣に攻め込ませて成らせたというだけではあるのだが、それを行ったのがあの赤司なため何か意味があるように思えて仕方ない。
歩兵の成り駒である"と金"1つに攻め込まれたぐらいで、完封で既に投了しているこの対局が動くことはないのだが。
「…七瀬先輩」
赤司はゆっくりと顔を上げた。
何を考えているのか読めない赤い双眸が、まっすぐ遥に向けられている。
いつも通りに名を呼ばれただけにも関わらず、遥は引き寄せられるように彼の元へ向かった。
「…赤司くん」
遥の手を引き、赤司は立ち上がる。
そして持ち上げた彼女の指先へ唇を落とした。
触れるか触れないかの距離で唇は滑り、指先から手の甲、そして腕へと移っていく。
遥は動くことが出来なかった。
まともに呼吸が出来ないぐらいの緊張。
喉が細く苦しげに音を立てる。
頭では後退ろうとしても、足は言うことを聞かず、その場に根を張ってしまっているようだった。
腕も木の棒のように硬直してしまい、妙に冷静な脳すらも活動をやめようとしている。
寒いのか暑いのか、それすらも感じられなくなった遥の首筋にほんの数秒の口付けをしてから、赤司は彼女を解放した。
「………っ」
神聖な儀式や誓いとはまた異なる雰囲気からの解放に、遥は膝から崩れ落ちる。
糸が切れた操り人形のような彼女を数秒見下ろしてから、赤司は片膝をついた。
「七瀬先輩」
自分を呼ぶ整った顔を見つめ、遥は気が抜けた様子ではにかむ。
胸に手を当てるまでもなく、心臓が激しく脈打っているのが分かった。
「ごめんね、何かびっくりしちゃって…」
赤司は僅かに口元を緩めるだけで黙っている。
和らいでいるように見える赤い瞳に映るのは、すっかり弛緩してしまっている遥の姿。
湧き上がる言いようのない切なさに、遥は思わず手を伸ばした。
Arm und Nacken die Begierde
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