緑間の機嫌は頗るよくなかった。
朝目が覚めたそのときから、次から次へと立て続けに厄介事が舞い込んできたのだ。
ただでさえ心身共に疲れていた緑間だったが、極めつけはその日最後の授業で起きた。
常日頃から人事を尽くしている彼ではあるが、授業中ふと一瞬思考が勉学からその他に逸れた瞬間を教師に注意され、クラスで笑いのネタにされ、挙げ句音楽室に眠っているアップライトピアノの清掃とあわよくば調律もするよう言い渡されたのである。
そもそもピアノの調律など素人にさせるものではないが、どうやらその教師は、緑間がある程度知識と技量のある素人と判断したらしい。
今日のおは朝星座占いでかに座は最下位であったし、ラッキーアイテムの隈取りの物を手に入れるのに痛く苦労したわけだが、さすがおは朝とでも言えばいいのかそれは見事な最下位っぷりである。
そして放課後、部活に遅れるのは避けたい緑間の前───いや、音楽室にいた先客が、そもそもの発端、彼の思考を勉学から一時的に切り離した張本人、七瀬遥。
緑間は眉間にいくつも線を刻みながら項垂れた。
「あ、緑間くんだ。先生ならいないよ?職員会議で」
「……知っています」
バスケ部の先輩でもある彼女が何故此処にいるのかと訊ねたい気持ちはあったが、余計なことを口走ればまた最下位っぷりを発揮しかねないと緑間は口を噤み黙々と歩みを進める。
彼が清掃しなければならないピアノは、この音楽室の奥の楽器室に眠っているのだ。
「……!?」
躊躇いもなく楽器室へ続く扉のノブを捻るも、がちゃりという音を立てただけでそれが開くことはない。
ピアノの清掃をしろと言っておきながらしっかり施術されているとは───緑間の眉間の皺が数を増したとき、後ろから細い腕が伸びてきた。
「さっき掃除終わったから締めちゃったんだけど、こっちに用事だったんだね」
意図も容易く扉を開いた彼女の腕はどこか儚く頼りなく、それでいてたった1年とはいえ"年上"を感じさせる何かが秘められているようである。
途端にフラッシュバックしてくる先程見た光景を頭から振り払うと、緑間は短く礼を告げてからピアノの前へ進んだ。
掃除を終えたばかりという遥の発言を裏付けるように埃を被っていない廃れてしまったピアノは、そこに静かに鎮座していた。
「あれ、ピアノってこんな音だっけ?」
「古いアップライトは大抵こんな音ですが」
数個鍵盤を押下すると、独特な音が響く。
やはり古さは感じるものの、素人が調律だのと変に手を加える程ではないだろう。
緑間は溜め息を吐くと、清掃のためにいそいそとピアノを触り始めた。
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