ハッと意識を取り戻した時、まず感じたのは異常なまでの鈍痛だ。
私自身を隠すように被せられた薄手の毛布の下で腹部全体に鈍く広がる痛みが、意識を失う直前の出来事が現実だと告げている。
曲がり角で出会した女に一発殴られたのだ。
それも、それは見覚えのある女に。

痛みを訴える腹部を庇いながら上半身を起こすと、此処が小さな車の後部座席だと分かる。
窓ガラス越しの景色は薄暗いが、もしかすると外が暗いのではなく中が見えないよう何か細工されているだけかもしれない。
此処はただの駐車場、周りはごく普通の住宅街か。

さてどうしようと考えを巡らせていると、スーツ姿の男性に窓をノックされた。
かと思うと、あっさり鍵を開け扉が開かれる。


「斎藤絵里衣さんですね」


此方を覗き込んできた男性は、懐から縦開きの手帳を取り出してみせた。
顔写真と役職、名前が記された私もよく知る特別な手帳である。


「警視庁…」
「はい。降谷さんの───正しくは、貴女のお父様から指示を受けた降谷さんの指示で迎えにきました、警視庁公安部の風見です」


生真面目そうに表情を変えぬまま、淡々と、それでいて丁寧に名乗ってくれたのは、簡単に言えば零さんの部下にあたる人物だった。
一見強面だけど、きっとこの人はお人好しタイプだ。
でなければこんな言い回し出来ない。


「風見さん、ですか。初めましてで早速恐縮なのですが…気絶させられてから今までの展開に全くついていけていなくて」
「ええ、きっとそうだろうから、家に連れて行くまでに疑問が尽きるまで、洗いざらい説明するようにと言われています」


成人男性が座るには少々窮屈に見える運転席に腰を下ろしながら、風見さんはそう言った。
何もかもあの2人の手のひらの上らしい。
最初から勝てるわけがないと分かっているし、2人が打ち合わせ済みなら心配するだけ無駄だと思うので、やはり大人しく車に揺られるのが吉だろう。


「この車は母が用意した、で合ってますか?」
「少なくとも私はそう聞いています」


左ハンドルを物ともせず、風見さんは手慣れた様子で車を発進させた。
私が運転出来ないから、わざわざ運転手として寄越されたわけね。
お忙しいだろうにすみません。

にしても、やはり母もこの件に噛んでいるようである。
私の腹に手厚い一発を入れ、痛みを感じる暇もなく意識を刈り取ってみせたあの狼は本物だったのだ。
つまり、事件に巻き込まれないようターゲットである娘の対処を母が、事件側の対処を父が担ったということである。
音信不通が常となっているある意味有名人が、揃いも揃ってちゃっかり日本にいて、タイミングまで完璧に現れるとは───本当に恐ろしい。
色々な意味で。


「薄々察していらっしゃるかもしれませんが、貴女を気絶させ、この車に隠したのは貴女のお母様です」
「記憶違いではなかったようですね」


通りの角を曲がったら自分そっくりの人物に腹を殴られ気絶させられたなんて、一見嘘のような話だが本当である。
そして意識を失った私を用意していたこの車の後部座席に押し込め、ちゃっかり自分が斎藤絵里衣として奴らと対峙したに違いない。
そこに父が乗り込めば完璧だ。
まぁ、相手がどれだけの規模で来ているか知らないけど。

私でも先が読める展開を話してみれば、風見さんは心底驚いたように感心してくれた。
やはり正解のようだ。


「驚きました…さすがは鷲と狼の子ですね」
「いえ、大したことでは…ところで零さんは今何処に?」
「例の組織の方の根回しをしています。鷲と狼の娘を狩ろうとしたら、まさかその両親が揃って登場するとは奴らも想定外だったでしょうから」


3つの顔を持つ彼は組織でしてやられた演技と裏付けに走っていて、部下である風見さんが私のお守りに呼ばれ…であれば、あの埠頭の倉庫での対峙と処理は父がほぼ任されていると思って差し支えないか。
実際物理的に動いていたのは母だろうけど、他国の母は深く関われないはずだし。
後は父絡みで主に公安が駆り出されているだろうから、私は菓子折りでも持って行くべきかもしれない。


「はぁ……」


大きく溜め息を吐き、シートに凭れかかる。
お洒落な内装に目をやる余裕もなく、腹がじくじく痛み始めた。
他に集中している間は何ともないのに、意識を此方に戻した途端これだ。


「このまま帰宅予定でしたが、病院に寄りましょうか」


顰めっ面で呻いてしまったからか、風見さんが提案してくれる。
普通の腹痛ならこれで病院を受診して…となるはずだが、生憎色々と普通ではないので首を横に振った。


「いえ、大丈夫です…ありがとうございます」
「ですが…」
「ちょうど風見さんが来るタイミングで意識が戻る力加減だったみたいですし、ある意味尊敬に値する痛さですね」


ミラー越しに苦々しい笑みが返ってくる。
見えない力のせいですよね、ごめんなさい。








左ハンドルで運転し辛いだろうに、それを感じさせない風見さんはそれは安全運転で家まで送り届けてくれた。
彼は寡黙というわけでもないらしく、零さんと行動を共にした時の話をしてくれたり、この短い時間で少し打ち解けられた気がする。
母が用意した車は私の物となるようなので、地下駐車場の私の部屋───つまり父の部屋とセットになっている駐車エリアに停めてもらった。
左ハンドルの時点で薄々気付いていたが、この車はイタリア直輸入のアルファロメオMiToという車で、日本女性からも人気のある車種なのだそうだ。
値段もまぁ手頃で、私が所持していて何らおかしい点はないとか。
車好きからすれば一目見て車種が分かるのは普通かもしれないけど、私は勿論さっぱりだし、入局のためだけに免許を取得したほぼペーパーが乗るには十分敷居の高い車だと思う。
多分この駐車場から動かすことはないだろう。


「わざわざ此処までありがとうございました」
「いえ、少しでもお役に立てたのならいいんです」


マンションから少し離れたところで仲間達と合流予定だという風見さんを見送り、私は踵を返した。
到着まで少々時間を要するエレベーターでぐんぐん上へ向かい、カバンから引っ張り出したカードキーで開錠する。
異変にはすぐ気付いた。
玄関に靴があるのだ。
丁寧に揃えられた、大きな靴が。
廊下の先、突き当たりのリビングからは明かりが漏れている。


「………何で此処にいるんですか」


エプロンをつけ我が物顔でキッチンに立つ姿に向かって言えば、彼は此方を一瞥してからお玉に口を付けた。
人の家の鍋で何を作ってるんだ。


「此処に行けと言われたんでな」
「は?誰に?」
「レベッカと言ったか…お前の母親にだ」


最後にお玉でぐるりと鍋をかき混ぜ火を止めてから、沖矢さんは此方を振り返る。
何で母と繋がっているのかとかどうやって入ったのかとか色々訊きたいことが多すぎて、私はこめかみを押さえながらソファーに腰掛けた。
本当に意味が分からない。
私が知らないところで何が起きてる?


「今朝の行動から、お前が何かを伝えようとしているのは分かった。が、そのために一時的に監視を外すべきか否か、FBIとしては判断し倦ねていた」


ご丁寧にマグカップを2つ持った彼が、向かいのソファーに腰を下ろした。
私に差し出されたそれの中身はココアのようだ。


「距離を置いて監視は継続、ただし更に離れた位置での待機は増員と決定した時、お前は車で湾岸線を移動し始めた」
「その時、既に私は私ではありませんでした」
「そして今回の舞台に上がるとすぐに───」
「父を筆頭に日本警察が横槍を入れ、母が猫の皮を剥いだ、と」
「その後何故か俺の携帯に狼から連絡が来た。絵里衣の帰りを家で待つように、とな」


その母からの電話で私と入れ替わっていると把握した沖矢さんは、そのまま言われた通りこのマンションまでやって来て、管理人さんを説き伏せて部屋で待つついでにシチューを作っていたらしい。
おかしい。
色々おかしい。


「じゃあ母と知り合いというわけではないんですね」
「ああ。向こうが何故此方の連絡先を把握しているのかは不明だが、そこは彼女が上手だったということなんだろう」


それはいいとして…いや沖矢さんか赤井さんの連絡先が知られている時点で良くはないけど、その後どうやって管理人さんを言いくるめて、どうしてシチューを作っているのか。


「今回現場にいたのは替え玉のイタリアンオオカミと、もう1つの母国に舞い戻ったアメリカンイーグル…事件は全て日本警察の手中にあるが、何か話は聞いているのか?」
「いえ、お恥ずかしい話ですが入れ替わってから父の指示を受けた日本警察が来るまで、私はずっと意識を失っていたので。母があの男と対峙してひと暴れしたところで、父が横槍を入れたとしか」
「お前に化けた狼は、自らのこめかみを撃ち抜こうとしたらしい」


そしてそれは、奴らからすれば必ず阻止しなければならない行動だった───そう付け足された先にあるのは、『私』の存在価値である。


「つまり奴らが欲しいのは私の脳───記憶?」
「そう考えるのが妥当だろう。だからお前自身は、何故追われているのか分からない」
「私が大したことないと思っている記憶の中にあるというわけですか…」
「知らないのではなく覚えていない───だがそうであっても脳を探れば出てくるかもしれん」
「知らないわけでも覚えていないわけでもなく、意識していないだけかもしれない…」


余計にややこしくなってきた。
私の脳が必要ならば、組織の奴らは脳さえ守れば後はどうなってもいいと考えているはず。
例え心臓が止まっていても、脳が生きていれば問題はないと言うだろう。
そして私は私でその奴らが求めるものが、記憶のどれに当てはまるのかが分からないのだ。
たった一言の単語なのだとしても、無意識のうちに軽々と口にするかもしれないし、逆に永遠に口にすることはないかもしれない。
今のままでは、隠していなければならないことを、あっさりバラしてしまう可能性を孕んでいる。
勿論、その逆もしかり。


「……私、日本を離れようと思います」
「何…?」


沖矢さんの声音が鋭くなった。


「今回の件もありますし、アメリカに戻る方がいいでしょう。FBIとして堂々と何でも出来ますし、拳銃だって自由に使えます」


彼の機嫌を損ねようが、私は間違ったことは言っていないつもりだ。
『お姫様』絡みで日本で奴らと相見えれば、今回のように日本警察が主体となり、私のことまで見透かす鷲のような存在が必要になる。
狼のような獰猛なまでの戦闘力を持つ人材も。
平和な国で次も上手くやり過ごせるかと訊かれれば、否だろう。


「お前の小さな友人達は悲しむだろうな」
「貴方まであの子達を使いますか…」
「ホー、つまり今回は小さな友人達を出しにされ、1人で埠頭に向かったということか」


愚かなのは分かっている。
FBIが大きく出れないこの国で、あれだけ人任せなことをしておいて自分は場外で眠っていたのだから。


「親しくなった民間人を巻き込みたくないためだろうが───承認は出来ん」
「貴方の承認は必要ないはずですが」
「ああ、そうだろう。だが俺にはお前を守り抜く義務がある」


スッと開かれた翡翠。
それは間違いなくFBI捜査官・赤井秀一のものだ。


「私を守り抜く…義務?」
「日本警察がお前を守るように、俺も個人的な理由でお前を守り抜く必要がある」
「まさか母から何か…?」


赤井さんからは肯定も否定も返ってこない。
私の推測は間違いではないのだろう。


「自分が奴ら組織壊滅のために必要な『お姫様』というだけではないということを、肝に銘じておけ」
「では他に何が?日本で私にどうしろと?」


マグカップのコーヒーを呷った赤井さんは、それは苦く甘い難題を突きつけてくれた。


「俺の目の届く範囲で愛らしく囀り、美しい羽根を広げ自由に飛び回ってさえいればいいさ」


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