引っ越しはそれはスムーズに完了した。
元々荷物はほとんどなかったので、沖矢さんの手を借りる必要もなかったぐらいだ。
真下の部屋の住人は留守だったらしく挨拶は出来なかったけど、騒がしくするつもりもないし問題ないだろう。

数少ない衣服と日用品をキャリーバッグに詰め、大きめのハンドバッグと楽器ケースを持って移動した先は、先日安室さんから紹介された父のセーフハウス。
ほとんど使った形跡のないそこには、私好みのシンプルだけど細かい細工が花を添える家具が既に運び込まれている。
まるで生活感のないモデルルームだ。

この引っ越しに、哀ちゃんは最後までいい顔をしなかった。
阿笠博士も渋りはしたものの、哀ちゃんの危険度も考えれば首を縦に振るしかない。
それでも何かあればすぐに力になると申し出てくれたし、本当に心優しく頼りになる協力者だと思う。
ちなみに哀ちゃんからは住所を教えることと、たまには遊びに行くことと、定期的に連絡を取ることと、定期的に遊びに来ることを約束させられた。
自らを危険に晒す可能性があることは、賢い彼女のことだから十分分かっているだろう。

仮初めの姿でなければ出会えなかった人達は、私にとってそれは大きな財産だ。
大きな組織の小さな鳥籠から飛び出してみれば、思いも寄らない世界と、そしていくつもの掛け替えのない出会いがあった。
だからこそ、それらのために、自分自身のために、私の存在価値を暴き出し───奴らを壊滅させなければならない。


「ふう…」


ほとんど必要のない荷解きをしながらも、頭に巡るのはベルモットのことだ。
女優としてのネット上での顔しか知らないが、セクシーで蠱惑的な美女である。
彼女は組織のボスと強い繋がりのある幹部格と聞くし、変装も得意らしいから常に周囲は警戒しておくべきだろう。
いっそ警察庁の息もかかっている、この家を使って1つ───いや、それはさすがに難しいかな。
分が悪すぎる。


「…管理人さんか」


ピンポン、と軽快にインターフォンが響いたので、手元の洋服から壁掛けのモニターに目をやった。
セキュリティー面はお墨付きなだけあって、モニター付きインターフォンなのだ。
だがそこに写っているのは管理人ではなく、スーツ姿の男性。
1階のオートロック前でスッと背筋を伸ばして佇むその姿に見覚えはあった、けど。


「…はい」
『引っ越しのお忙しい中失礼いたします。紅葉お嬢様の遣いで参りました、伊織と申します』
「その…お久しぶりです。とりあえず中へどうぞ」
『ありがとうございます』


来訪者は意外すぎる人物、先日知り合ったばかりの伊織さんだった。
遠路はるばる、連絡をくれればそれなりにおもてなし出来たのに───って、引っ越したの今日だし、何で此処が分かったの?
当然引っ越すことも引っ越し先も、一部の人にしか話していない。
口止めしていないとは言え、普段この辺りにいない伊織さんが此処を知っているのはおかしくない?


「高校生皐月杯争奪戦?」
「はい。今度紅葉お嬢様が出場なさる大会です」
「それに私を?」
「是非ご覧いただきたいと仰っておられます」


引っ越し祝いまで持参してくれた伊織さんの口から飛び出したのは、聞き慣れない大会名だった。
皐月会という競技かるたの団体が開催している大会で、その名の通り出場者は皆高校生。
紅葉さんは前大会のチャンピオンなのだそうだ。
今回は連覇のかかった大切な回であり、その観覧の招待のために、伊織さんがわざわざこうして京都から出向いたらしい。
そう言えば伊織さんと初めて会った時、彼は事件解決の糸口となる百人一首を詠んでみせたし、その後ネットで彼の主である『大岡紅葉』を検索してみれば、競技かるたの未来のクイーンと称されていると書かれてあった。
もっとちゃんと記事を読んでおくべきだったか。


「要件は分かりましたが…会ったこともない私が行っていいのでしょうか」
「勿論でございます。お嬢様も自分が一番打ち込んでいるものを見ていただき、今までの足りない時間分、最短距離で理解してもらえるよう望んでおります」
「でも、何で私なんでしょう。直接話したこともないし、失礼ですけど正直全く存じ上げていなくて…」


透き通った山吹色をした宇治茶の入った湯呑みから、特徴的な清々しい香りが漂ってくる。
口に含んだ瞬間は渋みを感じるが、上品な深みと甘みが後を引かず飲みやすいのは、さすが日本三大茶と言われるだけのことはある美味しさだ。
引っ越してきたばかりの我が家にそんな高級茶葉が置いてあるはずもなく、いただいたばかりの引っ越し祝いを見様見真似で淹れただけなので、飲み慣れているであろう伊織さんには物足りないかもしれないけど。
湯呑みなどの食器類を用意してくれていた父には感謝である。


「それはお嬢様も承知しております。未来の義姉に挨拶するのは当然であり、出来るなら早めにすべきとのお考えからですので」
「───はい?」


え、いやちょっと何の話ですか?


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