「夏子って…確かジョディが助けたっていう日本人の?」
『そう!貴女に会えない間に日本語を教えてくれたり、英語教師として潜入捜査する時も力を貸してくれた彼女よ』
「その夏子さんと今夜飲む…ゲホッゴホッ」
『ええ。同じ歳だし、こんな時じゃなければエリーも一緒にどうって言えたのにって言いたかったんだけど───どっちみちタイミングが悪かったみたいね。大丈夫?』
「大丈…ゲホ…夫じゃないみたいね。すっかり拗らせてるわ」


電話の向こうから、ヤケに心配そうなジョディの声が聞こえてくる。
嫌な頭痛も相俟って上手く頭は回らないけど、どうやらジョディは今他の捜査官と一緒にいるらしい。
親友である夏子さんと飲みに行くと言う近況報告と、FBIとしての簡単な情報共有の連絡を受けたのはいいものの、生憎私の体調は着実に最悪への階段を上っていた。


「様子を見て、場合によっては病院にでも行ってくるわ」
『そうね…好ましくはないけれど…ってごめんなさい、エリー。携帯電池切れみたい…お大事にね!』


マスク越しに乾いた咳を一頻り吐き出してから返事をすれば、ジョディから急ぎ足の返答があった後、すぐに通話は終了となる。
久しぶりの同僚とのやり取りは精神的には癒やしだが、この体調では苦痛も増えるので正直有り難い。
呼吸するだけでも喉に負荷がかかるらしく、痛いし重いし咳き込むしで何も良いことがないのだ。
ここ最近の睡眠不足のせいで免疫力が落ちて風邪、というパターンだろうけど、いい大人がここまでがっつり風邪とは如何なものだろう。

───と言うことがあったのが昨晩。
見事に発熱しだした体を持て余していた私のもとに、今度は小さな名探偵から着信があった。
こんな時間に彼からわざわざ電話とは…嫌な予感しかしない。


「はい…」
『もしもし、絵里衣さん?突然ごめんね…今から新一兄ちゃんの家に来れたりしない?』
「緊急事態みたいだね」


切羽詰まった彼の声音から察するに、やはり何かあったのだろう。
げほげほと咳き込みながら体を起こせば、ぐらりと世界が揺れる。


『絵里衣さん大丈夫?風邪?』
「ええ、ちょっと…」
『あ、待って…………昴さんが大人しく寝てろだって。絶対外に出るなって言ってるよ』
「コナン君、もう工藤邸にいるのね…」


ズキズキと痛む頭が思考を奪っていく一方だけど、とにかくコナン君が何か焦っていて、工藤邸で沖矢さんと一緒にいて、私にも話を聞かせようとしているのは分かった。
けど、今そちらに向かったところでウイルスを撒き散らすことしか出来ないという自信がある。
沖矢さんと相談する内容かつ、私の耳にも入れておく方が好ましい内容かつ、私が知らなくても缶詰めにしておけば収まるであろう内容って…何?


『多分絵里衣さんには何もないと思うけど、落ち着くまで家から出ないでね』
「…理由を聞いても?」


電話口のコナン君が、ひゅ、と息を飲んだ。


『気付かれたかもしれないんだ』


…気付かれた?


『バーボン───安室さんに、来葉峠の真実を』


白か黒か、表か裏か、正か悪か。
とうとう答え合わせの時が来たようだ。


『だから絵里衣さんは、体調不良のまま博士の家から出ない方がいいと思う。仕掛けてくるとしたら、昴さんに会うために新一兄ちゃんの家に乗り込んでくるはずだから』
「……そうみたいね」
『それに多分…敵じゃないと思うんだ。今はまだ多分だけど』


まさかコナン君、『安室透に良く似た彼』のことまで調べがついてる?
だとすれば、余計に今私が出しゃばるわけにはいかない。
彼は私を知る人物だ。
本当に沖矢さんの絡繰りを解き明かしたのなら、私のことも利用しかねないだろう。
これで足手纏いになんてなろうものなら、今度こそ優秀な捜査官を幾人も失うことになる。
では、どうすればいい?
体調不良を利用して此処に引きこもった後、どうすれば───


「…っ」
『絵里衣さん!?大丈夫!?』
「大丈夫、頭痛がしただけ…今流行りのただの風邪だから」
『…………お大事にね』
「ありがとう」


歯を食いしばり頭痛の波に耐えたのはいいが、次に湧き上がってくるのは苛立ちである。
大事な時に役に立たず、重要な時に何も出来ないこの歯がゆさは勿論、何故こうなっているのかという自分の運命とやらにだ。
まさか彼が阿笠邸に乗り込んでくるとは思えないから、私は此処でウイルスと戦っているだけでいいだなんて───馬鹿馬鹿しくて涙が出てくるわ。








ふと目を覚ますと、小さな振動音が耳につく。
辺りは静まり返っており、太陽が少し顔を出し始めた時刻らしい。
体のダルさに逆らうことなくゆっくり体を起こした私は、次の瞬間自分の考えの甘さに冷水を浴びせられたかの如く固まることとなった。


「うそ…」


小さな振動音は、枕元に置きっぱなしであった愛用のスマートフォンからのものではない。
その先、足元に置いた楽器ケースの中から聞こえるのだ。
この中に入っているもので定期的な振動音を発することが出来るものなど、1つしかない。


「………非通知か」


友人達にも見せることのない、もう1つの連絡ツールであるフィーチャーフォンだ。
年季の入ったディスプレイには『非通知』の文字。
この携帯に連絡することが出来るのは、すっかり音信不通の父親と、私を庇った後も以前行方を眩ませ続けている母親のみ。

嫌な汗が背中を伝うのを感じながら、ベッドを抜け出し、起きている人の気配がないことを確かめてから、そっと玄関を出る。
早朝のお陰で家の前に人通りもないし、誰かに聞かれる可能性は少ないだろう。
意を決して、未だ鳴り止まないバイブレーションを通話ボタンで遮る。
すると電話口から聞こえたのは、想像を超えた人物の声だった。


『おはようございます、朝早くにすみません。ですが出ていただけて良かったです』
「安室さん…!」


今最も注意すべき人物である、私立探偵・安室透。
沖矢さんの正体に気付いたであろう凄まじい洞察力を持つ彼は、私のこの家族しか知り得ないプライベート携帯の番号まで調べ上げたというのか。
いや、そんなこと出来るはずが───


『早速なのですが、今から少々付き合っていただきたいところがあるんです。持ち物はこの携帯だけでいいので』
「………私、今起きたばかりですし。女性に身支度を整える時間もいただけないのですか?」
『すみません、ただのデートとは勝手が違いまして。それに僕は、絵里衣さんが化粧をしていなくてもパジャマ姿でも、一向に構いませんから』


辺りに人の気配はないみたいだし、そもそも工藤邸が隣にあるこの場所に今近付くメリットはないだろうけど…監視されてる?


「………分かりました」
『ありがとうございます。貴女ならそう言って下さると思っていました』


静かに礼が返ってくると、次いで告げられたのは此処から少し先の交差点だ。
工藤邸から逆方向に2ブロック越えた先の住宅街の一角で、特にこれと言って目立つものはないはず。
更に言うなら、恐らくそこまでで誰かと擦れ違う可能性も非常に低い、極々穏やかな住宅街なのである。
つまり私がこの部屋着姿で彷徨こうと、誰の目にも入ることがないかもしれない。
要するに、例の組織が人を拉致をするには甘すぎる環境と言うわけだ。
確かに人目に付きにくくはあるが、国際的に目を付けられる程の組織の人間の手口にしては穴がある。
沖矢さんへのSOSは不要───いや、そもそもさせてはくれないか。
いっそこの携帯を此処に残していくのもアリかとも思ったけど、これは我が家族を繋ぐことの出来る唯一のツールだ。
置いていく方が惜しいし、沖矢さんやコナン君なら置き手紙がなくても全てを察するだろう。
この2人は、私より遥かに上を行っているからね。


「……あ」


そうだ、すっかり失念していたけど、安室透が何者であれ、私が殺される可能性は限りなく低いではないか。
考えようによっては、いや、使いようによっては此方が手綱を握ることも出来るかもしれない。
思考を鈍らせることなく、かつ、彼を上回る『取引』が必要ではあるけれど。
まだ返せる。
きっと。


「ゲホッ…」
「絵里衣さん…!?」


約束の場所には、いつも通りの爽やかな笑顔を貼り付けた安室さんがいた。
が、私がそんなに酷い外見だったのか、すぐさまその顔を強ばらせ駆け寄ってくる。
私の額に手を当てるや否や、着ていた上着を脱ぎ肩にかけてくれたし、どうやら思ったより体調は良くないようだ。


「すみません、まさかこんなに体調が悪いとは想定外でした。辛いでしょうが先に移動させて下さい。病院へはそれから行きましょう」


そのまま安室さんに誘導されて、いつぞやにも乗ったことのある車の助手席に座らされた。
空調を調整してくれたり飲み物を飲ませてくれたりと、やはり彼の言動は『敵』とは思えない不可解なものばかりである。


「…差し詰め私は人質ってところですか?」


この自嘲を笑いで返してくれたなら、私はどれだけ心が楽になっただろうか。


「貴女が人質?…まさか」


真っ直ぐ前を見据えたまま、安室さんは迷いなくハンドルを切る。


「お姫様ですよ。とても大切な…ね」


世の中には沢山の姫がいるけれど、私程愚かな姫はいないでしょう?

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