いくら目を凝らしても、目の前に広がるのは何処まで続いているか分からない闇だった。
恐怖に近い感情を抱いたまま、息を潜め、塗り潰された黒に向かって手を伸ばす。
ゆっくりと、恐る恐る伸ばした指先に触れたのは、壁のような面だった。
冷たいそれに掌をつければ、途端に熱が奪われていく。
手も足も先からじわじわと冷えていくのを感じながら、震えそうになる歯を食いしばり、そっと力を込めた。
物音1つ立てず、それは動く。
だが、その先に広がっていたのは───


「…さん…………絵里衣!」
「!」


ドクドクと嫌な音と共に、血液が全身を巡るのが分かった。
そんな私の前で、沖矢さん───口調だけはすっかり赤井さんに戻っている沖矢さんが、不満げに眉根を寄せている。
そうだ、此処は工藤邸で、例の如く沖矢さんに呼び出された私は、彼とアフタヌーンティーを飲んでいて…。


「ヤケに静かだと思えば…どうした?」


ソファーに座る私と目線を合わせるためか、片膝をついてしゃがんだ彼の利き手が伸びてくる。
反射的に払いのけたはずなのに、その骨張った手に強く手首を掴まれた。
痛みに顔を顰め、押しても引いてもビクともしないと分かっていながら抗う私を、彼は容易く捻り上げてソファーへと押し倒す。


「随分と動揺しているようだが、何かあったのか?」
「…この状況で動揺しない女はいないと思います」
「冗談を聞く気はない」


夢か現か、未来か過去か。
黒の中にただ1人でいる夢を見たと説明して、彼は納得してくれるのだろうか。
説明しなければそれはそれで、一発ぐらい殴られるかもしれないけど。
そう思えるぐらい、私を見下ろす沖矢さんは、『制圧』にかかっている。
殺す気はないにしろ、尋問拷問ぐらいはされるかな。
これで個人的に探っているアレから話題を逸らすことが出来るならそれもアリかも、だなんて考えられる程、私も漸く夢から覚めたらしい。


「……夢見が悪かったんです。真っ暗な夢だったので」
「本当にそれだけか?」
「すみません、紅茶を飲んでぼーっとしてたら思い出して」


嘘は言っていないと判断したのだろう、沖矢さんは向かいのソファーへと戻っていった。
圧力から解放され、やっと息を吐き出す。
過保護と疑り深いは紙一重か。
今日呼び出された理由だって、本職の情報交換と、先日のキッドとの対面話をするためだし。
そもそも後者に至っては、「貴方の妹が貴方の生存を疑い始めて、ついでにキッドに身包み剥がされて変装された」としか言いようがない。


「…え?」


どうしようかと溜め息を吐いたその時、広い工藤邸に来客を告げるインターフォンが鳴り響いた。
この家を訪ねてくる人なんて、極々僅かな人数に限られている。
『沖矢昴』としての知人なら、隣家の阿笠博士か少年探偵団、海外にいらっしゃる工藤夫妻と、絡繰りを知る小さな名探偵。
それから、蘭ちゃんと園子ちゃんも、工藤夫妻のご子息の幼馴染みで時々来ているはず。
この辺りからもう少し輪が広がるとしても、今日このタイミングでの来訪は想定外だ。


「今日は宅配便の受け取りも頼まれていないのですが…」


口調も戻した沖矢さんが応対に向かうのを横目に、私はすっかり冷えてしまった紅茶を喉奥へと押し込んだ。
有希子さんのセンスと思われる紅茶はそれは香りも味も上品で美味しかったが、一度濃いコーヒーで目を覚ます方がいいかもしれない。


「あぁ、思い出しました、ケーキですね?本人は隣の部屋で手が離せない作業をしているので、私が受け取りましょう…」


不意に聞こえてきた声に、私は思わず目を瞠って振り返った。
前言撤回が早すぎる。
手のひらを返した発言に心中でツッコミを入れたものの───もしかしなくても訳アリか。
訝しげな私の横で、沖矢さんは手のひらサイズの手頃な箱を引っ張り出してくると、愛用のスマートフォンを中に入れて手早く封をし始めた。
その横に置かれた、受け取ったばかりの少々大きな箱には、ケーキと書かれた配達伝票が貼られている。


「あのボウヤの事だ、これでどうにかするだろう…が」
「ボウヤって…コナン君?」


さっさと自身のスマートフォンを宅配業者に預けてきたらしい沖矢さんが、阿笠博士宛であるはずの配達伝票を見せてくれた。
先程のケーキの箱に貼られていたものだが、小細工とでも言えばいいのか、さすがcool kidである。
これを見て事情を察した沖矢さんが、さり気なく連絡手段を渡したのは分かった。
がしかし、我らがFBI捜査官は、私に説明をしながらも警戒を解くことなく外の気配を窺っている。
確かに最大のツールである携帯電話はコナン君の手に渡ったはずだけど、まだ子供達は危険と隣り合わせ。
つまり、彼が絶えず警護している哀ちゃんも危険に瀕しているというわけだ。


「私、家に戻るフリでもしてきましょうか?」
「…いや」


不意に腕を引かれ、そのまま2階へと連れて行かれる。
足を縺れさせながら窓際まで引っ張られたかと思うと、今度は壁を背に後ろから抱き締められて、挙げ句大きな手で口を塞がれた。
彼が警戒する先、窓から横目で外を見下ろせば、狭い道路に宅配業者のトラックと、それから車間距離を取って停まっている白い車が見える。
その両車両の間にいるのは、宅配業者の格好をした男2人と───安室透だ。


「…大人しくしていろ。見付かっては厄介だ」


私が息を飲んだのが分かったのだろう、体に回された腕の力が強くなった。
視界の中では、宅配業者に扮した奴らを鮮やかに伸した安室透が少年探偵団と話している。
これが私立探偵の安室透?
例の組織の探り屋バーボン?
それとも───?
沖矢さんに背を預け動きを封じられた私は所謂捕らわれの身なわけで、今この状況から考えれば、彼の方が余程悪人に見えるではないか。


「彼とは以前会った事があるんだったな」
「道端でぶつかった時と、ベルツリー急行で、ですけど」
「それ以前は?」


何を言っているんだ、この人は。
疑問露わに振り返れば、彼は動じる事なく私を見下ろし、返事を待っている。
常に人を観察し疑ってきた私に、そんな質問をするなんて…。


「記憶にはありません」
「そうか」
「寧ろ、彼に会った事があるのは沖矢さんなのでは?」


コンマの間の後、スッと私を解放し、沖矢さんはさっさと階下に向かい始める。


「『私』は会った事がありませんよ」


彼が沖矢昴の皮を被ったと言うことは、関係者でかつ部外者である私に説明する気はないということだろう。
ベルツリー急行で仕掛けたとは聞いているし、組織潜入時代、2人はかなり親しい間柄だったのかもしれない。
であれば、余計に今の私の脳内を悟られるわけにはいかないのよね。
敵であれ味方であれ、慎重にかつ計画的に攻めいる必要がある。
何せ彼は、私を『斎藤絵里衣』だと知る、数少ない人物なのだから。


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