朝、目を覚ましたら何故か笑顔の沖矢さんに見下ろされていた。
慌てて体を起こそうとするも、大きな手で制止をかけられるのと想像以上の体の怠さを感じるのとがほぼ同時で、結局彼が口を開くのを待つはめになる。

確か昨日、工藤邸に呼び出された私は、ご機嫌な様子の彼にひたすらバーボンウィスキーを飲まされたはずだ。
しかもロックで。
そして案の定眠くなり、若干定位置になりつつある客室を借りた───と言う記憶で合っているはずだけど、何故私は彼に寝顔を晒すことになったのだろうか。


「俺は少し外に出るが、お前はまだ寝ていて構わない」
「工藤邸が空になるなら私も出ますけど…すぐ出掛けられますか?」
「ああ。早くスキー場に向かわねばならんのでな」
「…………スキー場?」


赤井さん…いや、沖矢さんがスキー場?
スキー場と言えば、今日博士が少年探偵団を連れて行った場所だけど…。


「2人で忘れ物を取りに戻ったらしいんだが、電車では時間がかかるから車で送ってほしいと頼まれたんだ」


コナン君と哀ちゃんに頼まれれば、沖矢さんに断るなんて選択肢はないだろう。
この小学生に見えない2人は、協力者ならびに保護対象なわけだし。
何だかよく分からないけど、哀ちゃんが沖矢さんへの警戒を緩めたのはいい傾向だ。


「すみません。すぐに支度は出来そうにないので…」
「ああ。帰る前にまた連絡する」
「はい。行ってらっしゃい」
「………行ってきます、絵里衣さん。暫く傍にいることが出来ないので、くれぐれもいい子にしていて下さいね」
「今は私の方が年上なんですけど───」


見た目や声は最初から沖矢さんのものだったけど、口調や仕草までも赤井さんから仮初めの姿へ切り替えた彼は、私の頭を一撫でしてからサイドボードに鍵を置き、さっさと部屋から出て行った。
静まり返ってしまった家は、私1人には広すぎる。
例え沖矢さんといても広すぎる立派な豪邸であることに違いはないが、どうやらすっかり日本での温かい生活に慣れてしまったようだ。
アメリカではこんなこと良くあるのに、今、此処にいると、何だか泣きたくなってくる。
肩書きもプライドも全て投げ捨てて、自分だけを抱き締めて、小さく蹲ったのは現か幻か。

それは良く出来たビジョンを掻き消して、漸く私は起き上がった。
小さく軋むベッドを降りれば、色付いた景色がリアルだけを構築する。
今日は博士も哀ちゃんもいないし、たった今沖矢さんもいなくなった。
鍵は私が預かっているから、彼が帰ってくるまで公園にでも行こうか。
外の冷たい空気を全身に取り込めば、少しは冷静に現実と向き合えるかもしれない。


「Have you got time?」


しっかりと施錠した工藤邸から一歩外に出た途端、声をかけられる。
イギリス英語か───と思いながら流暢な英語を話した主を見やれば、出来れば接触を避けた方がいい人物が真っ直ぐ此方を見ていた。
『貴女』からの誘いを、『私』が断れるわけないでしょう?


「Sure. I can't say no to you.」
「Now you're talking!」








楽器ケースを背負って、もう何度か訪れている公園に繰り出した。
寒さは感じるが、肌を撫でる冬らしい澄んだ空気が心地好い。
───隣に彼女がいるせいで、終始緊張状態ではあるが。


「絵里衣さんはいつも此処で練習してるのか?」
「いつもってわけじゃないよ。わりといるけど」


バイクを押しながらついてくる真純ちゃんの誘いに乗って一緒に此処まで来たわけだけど、ここからどうやって彼女を躱せばいいのか一向に答えは見えてこない。
私を探る真意も見えていないし、ゴールの見えないレースは勘弁してほしいところだ。
今日も動きやすいボーイッシュな格好をしている彼女は、探偵として知識も豊富だろうから、下手をすれば平次君の時のように看破され更に奥まで問い質されるのがオチだろう。
広大な土地面積を誇るこの公園は、逃げ場も多い分他人にも気付かれにくいポイントも多々あるはずだけど…相手が相手だしね。

だが、私の予想に反して彼女が足を止めたのは、すぐ向こうに車の通りもある道が見える、外周側の一角だった。
逆に考えれば、公園内を散歩している人に見つかりにくく、外にいる人の興味も引きにくい位置になる。


「なぁ絵里衣さん、アンタ何者なんだ?」


唐突に切り出されたのは、恐らく核心部。
単刀直入に中に入ろうとしたってことは、証拠まで揃えてきているのだろう。


「何者って言われても…」
「バイオリン奏者なんて嘘はやめてくれよ?海外の公演にも参加しているぐらいなら、ネットで名前ぐらい引っかかるはずなのに、出てくるのは同姓同名の別人ばかりだって知ってるんだからさ」
「楽団に所属してなくて、小さなバーなどでの演奏が主だから…とは思わなかった?」
「勿論その筋も考えたよ。音大を出ていない可能性も含めてね。そしたら今度は、不自然な程情報が出てこなかったんだ。まるでその人が最初から存在していなかったように…ね!」


何の前触れもなく飛び出してきた手を払いのけ、同時に踏み込んできた足を躱すために後退する。
型に嵌まらない今の技が何なのかは分からないけど、当たれば一溜まりもないダメージを受けるだろう。
こんなところで身動きが取れなくなるなんて危険すぎる。


「ほら、今のこの動きもそうだ…パンケーキ店でやってみせた犯人から拳銃を奪うなんて芸当も、ただのバイオリン奏者が出来る動きじゃない」


やっぱりそこか。
ここを突っ込まれると、正直収拾がつかない。
決定的な弱点であり綻びでもあるから、私が空白の人間であるとバレている時点で潔く負けを認めるのが吉、って言うのは自覚しているつもりだ。


「close combat…こう言うの白兵戦って言うんだっけ?CQBやCQCと言った近接戦闘・近接格闘の知識と経験のある軍人じゃあるまいし…ごく普通の演奏家が何処で身に付けたんだ?」


赤井さんに良く似た双眸が、鋭く私を捉えた。
また何か仕掛けるつもりなのか、構えている彼女から放たれるプレッシャーは、兄の物には劣るものの、そう簡単に獲物を逃がすつもりはないと告げている。
真正面から太刀打ち出来るかと訊かれれば、答えはNoだ。


「答えてくれよ。場合によっては連れてこいって言われてるんだからさ!」


連れてこい───ですって?
誰に?
何のために?
真純ちゃんは普通の高校生で、例の組織には無関係じゃないの?


「───!!」


私が一瞬判断を遅らせ、真純ちゃんが次の一手を繰り出そうとしたその時、劈くような嫌な金切り音と衝突音が空気を裂く。
音源を見れば、グレーの車が異常なまでにガードレールに車体を擦りつけながら立ち去るところだった。
どうやら、すぐそこの交差点で轢き逃げが発生したらしい。
車の運転席に座る男はしきりに左右をきょろきょろと見渡していて、運転初心者のような辿々しさを感じさせる。
───まるで、私を見ているようではないか。


「クソッ」


短く吐き捨てた真純ちゃんが、バイクの元へ駆け出した。
まさか追う気!?


「真純ちゃん待って!」
「早くしないと逃げられる!」
「逃げたってすぐ捕まるわ!」
「でも…!」
「相手の車はグレーで、最近沖野ヨーコがCMをしてる車に良く似た形。運転手は恐らく最近まで左ハンドルが主流の国にいた男。そもそもあれだけガードレールに擦ってたんだから、日本警察ならすぐ犯人を割り出せるって探偵なら想像つくでしょ?」


事件が起きたのは公園横の小さな交差点。
車の逃走方向や被害者の倒れている位置から、互いがどちらに進みどうぶつかったかは推測可能だ。
それから考えれば、明らかに車の経路がおかしいし、そもそも轢き逃げ犯が証拠を残すかのように何mもガードレールに車体をぶつけるのも不自然だと気付く。
動揺もあったのかもしれないけど、運転初心者かの如く周囲を見渡した点も加味するなら、左ハンドル・右側通行の国にいた癖で起きてしまった事故と考えると辻褄が合うのだ。
何せ左ハンドル・右側通行のアメリカで免許を取得した私が、最も危惧している事故のシチュエーションだからね。
まぁこんなことをわざわざ推理しなくても、ガードレール付近に車体の痕跡がたっぷり残っているだろうから、優秀な日本警察が犯人を特定するのは時間の問題だろう。


「本当にただの事故ならいいけど、もし犯人が最近まで日本にいなかったのなら、最悪拳銃を携帯してる可能性だってある。貴女が危険に飛び込む必要はないわ」
「…へぇ、一瞬でその判断が出来るなんて、海外経験があるってのは本当みたいだね。バイオリン奏者とは思えない知識と判断力だけど」


今のはそう切り込まれて当然よね。
自分の身はいろんな意味で大事だけど、さすがに先輩の妹を危険に晒すわけにはいかないのよ。
私も怒られたくないし。


「さっき真純ちゃん、軍人じゃあるまいしって言ってたけど…軍人の他にもいるよね。近接戦闘や近接格闘を訓練で学ぶ組織が」
「───警察!?」
「Federal Bureau of Investigation…改めまして、連邦捜査局人事部の斎藤絵里衣です。貴女のお兄さんにはお世話になりました」


実際には現在進行形でお世話になってるんだけど、彼女はそれを知らないはずだ。
だって私が、他の誰でもない私自身が、彼のデータを更新したのだから。


「絵里衣さんがFBI…!?この間FBIに会った時に、この可能性に気付くべきだったのか…!」


え?
この子、ジョディ達捜査官にまで接触してたの?
私、そんな話聞いてないんだけど。


「そうか、秀兄の…何だ、そうだったんだ…」


張り詰めていたらしい何かから解放された彼女は、それは可愛らしい笑みを見せてくれた。
これが本来の世良真純と言うわけか。
バッジも見せてないし、たったこれだけで警戒を解くのは些か軽率な気もしないでもないけれど…彼女は一体何を恐れていたのだろう。


「なぁ絵里衣さん、秀兄の話聞かせてくれよ!」
「所属が違うから、そんなに親しくなくて…」
「でも世話になったってことは、一緒に仕事したことはあるんだろ?」
「まぁ、一応は」
「もしかして会話0だったとか?」
「ううん、寧ろ饒舌に喋ってくれた方だと思うけど…」
「秀兄が!?絵里衣さん、まさか彼女…」
「それは違うわ」


怒濤の攻めに終わりが見えない。
真純ちゃんブラコンなんだね…嘘をつくわけにいかないけど本当のことを言うわけにもいかないし、何て答えるのが正解になるかしら。

それからも、彼に似た瞳をきらきら輝かせた真純ちゃんからの、質問と疑問とツッコミは続いた。
その間に沖矢さんから『事件に遭遇したので、帰るのが遅くなります』『今から戻りますが、一緒に夕食は如何ですか?』『出掛けられているなら迎えに行きます。何処にいますか?』と言った怒涛のメール攻めがあったんだけど、当然返事が出来るわけもなく。

その後恐ろしい数の着信を受けた携帯を私が見たのは、真純ちゃんと別れてすぐ何処からともなく現れた沖矢さんに笑顔で見下ろされた時だった。


「沖矢さ…」
「何度も連絡したのですが…貴女は本当に心配させるのが得意なようですね」
「音信不通だった件に関しては謝りますが、此方にも訳が…」
「では、その訳をゆっくり聞かせてもらうことにしましょうか」
「言っておきますけど、貴方のせいでもありますからね?」
「おや、それは光栄ですね。絵里衣さんの親しい関係者として名を連ねることが出来たわけですから…」
「……………。」


この兄妹、倒せそうにないわ。


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