名字名前が体育の授業中に怪我をしたというニュースは、学年を超えて瞬く間に広がった。
それは、休み時間にひっそりと買ったばかりの文庫に目を通していた黒子の耳にもしっかり届いたため、彼の脳内は瞬時に、今日の部活は1年がマネージャーの分の仕事をしなければならないということと、部活後にでも見舞いに行こうかという考えに切り替わったものだ。
しかし、そんな黒子の思案を裏切るように、放課後体育館で彼ら1年を出迎えたのは、渦中の人である名字名前その人だった。
「何でいるんだよ!?ですか」
「怪我したって聞きましたけど…」
「うん、体育の授業中にちょっとね。でも全然大丈夫だよ」
そういつも通り笑ってみせる名前ではあったが、洞察力に長けた黒子の目にはあまり大丈夫そうには映っていない。
歩く姿は重心が傾いていて、手首も少し固そうに見えるということは、特異な瞳を持つカントクにはお見通しだろうし、付き合いの長い木吉や同じクラスで事情を知っているはずの伊月も言わずもがなだろう。
そのメンバーにマネージャー業を止められていないのなら、本当にそこまで大きな怪我ではないのだろうが、それでも心配なものは心配だ。
名前に心配の声をかける火神の横を静かにすり抜けた黒子は、ボードを用意しているカントクの隣に音を立てずに立った。
「すみません、カントク。今日名前先輩のフォローに回らせてもらえないでしょうか」
「!?」
例の如くビクッと飛び跳ねたカントクは、知らぬ間に現れた黒子に驚きはしたものの、その言葉の真意を察し呆れたように溜め息を吐く。
「元々明日休みだし、今日は練習来なくていいって言ったんだけどね…皆を見ていたいからって残ったのよ。名前ったらホント真面目なんだから」
「普段ボク達を見ている名前先輩のフォローに回れば、また違った角度から皆を見ることが出来るかもしれません。だから…」
「プレーに活かすためってことね。いいわよ。その考えは強ち間違いでもないし、名前にも大人しくしておいてほしいから」
暫し考えを巡らせる素振りを見せたカントクだったが、怪我人である名前の強い意志を尊重して渋々部活参加を許可していたらしく、チームのプラスになるならと黒子の付き添いにも許可を出した。
こうして黒子は、金魚の糞の如く名前に張り付く権利を得たのである。
*
「よし、一旦休憩!次メンバー入れ替えてやるからな!」
「「はい!」」
「名前先輩、どうぞ」
「ありがとう…でもテツヤ、ここまでしなくて大丈夫だよ?」
「いいえ、そう言う訳にはいきません」
休憩の合図に反応し動きだそうとした名前を制したのは、隣に控えていた黒子である。
彼が差し出したドリンクを受け取り、困ったように眉を下げた名前の様子を横目で見ながら、部員達───主に2年生は静かに奥歯を噛み締めた。
今日、カントクの指示により、部員達に自分のことは自分で行ってもらうことで、マネージャーの仕事をなくしたのは理解出来る。
マネージャーの仕事をなくせば、強制的に名前の仕事もなくなるからだ。
しかし、だからと言って、何故黒子が名前にドリンクを手渡し甲斐甲斐しく世話をしているのかが理解出来ない。
いや、怪我をした先輩を甲斐甲斐しく世話する後輩と言うよりは、寧ろ───
「アイツは何だ?ケンカ売ってんのか?」
「黒子が名字ちゃんのフォローについてるのは分かってるけど…何か…何て言うの?これ」
「健気な年下の恋人?」
「甘やかしてる…?いや、いい意味で」
周りに花が咲いた恋人達のような雰囲気を纏う2人は、部員達アウト・オブ・眼中で見つめ合っている。
むせかえるような熱気に包まれた体育館とは思えない程、淡くまろやかでそれでいて密度の高い光景だ。
現実から切り離された一枚の写真のような閉鎖空間は、マジックミラーの如く全てを反射し、同時に全てを受け入れている。
「ボクはいつも名前先輩にお世話になっています。だから今日みたいなときは力になりたいと思うんです。…迷惑でしたか?」
「ううん、迷惑なんて有り得ないよ。でも、凄く嬉しいんだけど、私が本来の仕事をしないでテツヤにしてもらってばかりっていうのが、ちょっとな…って」
「ボクがしたいからしてるんです。これかもずっと、例え先輩が卒業しても、ずっと…バスケをする姿を見ていてほしいんです」
黒子の両手が、名前の痛めているであろう片手を優しく包み込んだ。
バスケをするには小柄で細身な黒子ではあるが、毎日毎日ボールに触れているその手は大きく逞しい。
掌からじわりと伝わってくる温もりは、そのままぐんぐん伸びて名前の中へと入っていく。
嬉しいような、悔しいような。
不甲斐ないような、有り難いような。
喜びと切なさの入り混じった複雑な塊が、少しずつ溶かされ解かされていった。
「そっか…またテツヤを残して卒業しちゃうもんね」
「はい。中学の頃は、もう1年早く生まれていれば、と思ったこともありました。でも、今はそうは思いません」
「…どうして?」
未だ名前に触れたままの黒子の手に、きゅっと力が入る。
何かまずいことを訊いてしまったのかと不安を抱いた名前だったが、彼が話しやすいように静かに返答を待った。
開かれていた扉や窓から入り込む風が、2人の間をゆっくりと抜けていく。
ドリンクを脇に置き、自由な片手を伸ばして、乱れた薄い色の髪を整えれば、黒子は僅かに目を瞠った。
そしてすぐに嬉しそうに表情を綻ばせると、漸く柔らかい声音で話し始める。
「………ナイショです。後輩じゃないと、出来ないこともありますから」
「あ、それズルい」
「そう言えば、新しいゼッケンに交換するんですよね。ちょっと行ってきます」
「テツヤ待って、私も行きたい」
「お姫様抱っこがいいですか?」
「…テツヤが意地悪」
仲良さげに手を繋いだまま寄り添い体育館を出て行った2人の背を目で追いながら、残された部員達はギリギリと自身のタオルを噛み締めた。
プロポーズ紛いの発言、しっかり聞こえてたからな───と。
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