「名字」


名を呼ばれると同時に、ちょいちょい、と指で近くに寄るよう示される。

先輩命令に逆らうつもりもない名前は、一歩彼の方へと踏み出した。


「ごくろーさん。疲れたろ」

「これが学校じゃなかったら、もっと疲れてたと思います」


伸ばされた腕の先、いつもボールに夢中な掌があやすように優しく頭に触れる。

口は冷静に動くものの、大人しくされるがままである名前の胸中は、けして穏やかではなかった。


「ま、来週も頑張ってくれよ。1年部員もヘルプ出すし」

「マネージャーとして出来る限り頑張ります」


今年の陽泉の合宿は、学校で一回、山で一回の二段構えなのである。

通い慣れた学校での練習でもへたばる部員がいるぐらいなのだから、来週決行される山合宿はもっと過酷になるに違いない。

勿論マネージャーの負担も増すだろう。


「福井先輩」

「ん?」

「勝ちましょうね」

「ウチには期待のデカすぎるルーキーもいるし、負ける気はねぇよ」


陽泉は強豪と呼ばれるに相応しい高校であると、名前も頭では理解していた。

だがやはりマネージャーとして試合を見ていることしか出来ない身としては、色々もどかしいこともあるのである。


「なんつーツラしてんだよ。そんな不安か?」

「バカにしてます?」


幼子をあやすかのように伸ばされていた腕を振り払い、名前はそっぽを向くと同時に唇を尖らせた。

こんな態度しかとれない自分自身すらじれったくなり、自然と視界が滲んでいく。


「泣くなって」

「泣いてません」

「いや泣いてるだろ」

「泣いてません」


名前の視界の外で、福井が大きな溜め息を吐いた。


「…………名前」


動揺を露に、ぴくりと肩が揺れる。


「部活中です、副主将」

「今は休憩中だろ。それに、こっち側来んのオレ以外にお前しかいねぇよ」

「そうですけど…」

「今なら抱き締めてやんねぇこともねぇけど」


瞳を大きく瞬かせた名前は、微かに頬を朱に染めながらも向き直った。


「何ですかその言い方」

「だってお前素直じゃねぇし。まぁ汗臭くてもいいならだけどな」

「なっ…」

「どうすんだよ、名前」


主将いじりのときと同じように口角を上げ、福井は軽く両手を広げてみせる。

お言葉に甘え、何よりも温かく居心地の良いこの腕の中に飛び込むのも1つだが、今は───


「後5分で休憩終わりなんで、やめときます」

「…は?」

「5分じゃ足りません。じゃあ失礼します」


口早に言い捨てると、名前は俯き加減にそそくさとその場を後にした。

呆気にとられ取り残された福井は、あっと言う間に立ち去った───逃げ出した恋人の背を追いながらぼやく。


「マジ覚えてろよ…」


誰の耳にも届かなかった、ある意味で耳に毒なセリフは、燦々と太陽の日差しが照りつける虚空へと消えていった。


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