8.5(1/1)


いつもより早く家を出た伊月は、先に荷物を部室前に置いてから、約束より少しだけ早く指定された場所へとやってきた。

校舎の陰になっている此処は、ひっそりと待ち合わせするのに最適な場所だ。

伊月はチラリと時計に目をやった。

もうすぐ時間だ。


「……伊月君……!」


慌てた様子で制服姿の女子生徒が駆け寄ってくる。


「ごめんね、こんな朝早くに」

「部活もあるし、平気だよ」


伊月が優しくフォローすると、彼女は困ったように笑いながら礼を言った。


「ありがと。どうしても今日言っておきたいことがあって…」


時間ぴったりに現れた待ち合わせの相手は、伊月の隣のクラスの生徒である。

彼のクラスでも時たま名前が出ることのある彼女は、学校内でも指折りの人気者だった。

可憐な容姿は勿論だが、明るい性格で交友関係も広く、勉強も運動もそれなりにこなしてしまうらしい。

つまり彼女は非常にモテる───がしかし、特定の相手はいないというのだ。

伊月の友人が、まだ自分にも望みがあると色めき立っていたのも記憶に新しい。

その人気の高い彼女に朝っぱらからこんなところに呼び出された理由に気付かぬ程、伊月は鈍感ではなかった。


「もう分かってると思うんだけど、私伊月君のことずっと好きで…その、もし良かったら付き合ってくれないかなって」


頬を真っ赤に染めながら絞り出された言葉は、掠れることなく伊月の胸へ届いた。


「ありがとう。でも…ごめん。今俺の中で一番はバスケだから」


もう何度口にしたか分からない定型文を返せば、彼女からはもう何度聞いたか分からない定型文が返ってくる。


「そうなんだ…って、そうだよね。じゃあ好きな子とかもいないんだ?」


そのとき、伊月は一瞬返答を躊躇った。

そしてその一瞬の間に、彼の目に予想だにしていなかった姿が飛び込んできた。


「───名字…!」


思わず叫ぶも、名前らしき影は慌ただしく駆けていってしまう。

目の前の彼女も伊月の目線を追ったが、もうそこはもぬけの殻だ。


「誰かいたの?」

「部活の後輩がいたみたいで…まあ後輩って言ってもマネージャーの方だけど」

「やっぱり女の子だったんだ」


やっぱり───?

伊月は目を瞠った。

対照的に、彼女の瞳は切なげに伏せられる。


「何か必死みたいだったし、そうかなって」


そう言って笑ってみせた彼女は、酷く脆く自嘲的だった。


「伊月君、その子のこと好きなんだよね」

「え…?」


好きか嫌いかで言うならば、間違いなく好きの部類には入る。

しかし、彼女の言う意味で好きかと訊かれればどうだろうか。

頭が真っ白になった後、様々な思いが鉄砲水の如く押し寄せてくる。


「……多分、好きなんだと思う」

「多分?」

「分からないんだ。俺の中の一番がバスケってのもホントだし、でもアイツのことが好きなのかって、付き合いたいかって言われたら……分からない」


息を吐いた彼女の双眸がゆらりと揺れた。


「その人に自分を見てほしいって思ったり、自分がその人ばっかり見ちゃって胸が苦しくなったら、もう十分好きなんだと思うよ」


目尻から溢れた雫が輝きながら頬を伝い落ちていく。

伊月がハンカチを手渡そうとするも、彼女は自身の手でそれを拭いながら首を振った。


「やっぱり伊月君好きだなぁ…」

「ごめん……ありがとう」

「ううん。私もごめん、ありがとう。部活前だよね?遅刻しちゃマズいし、もう行って」


涙を拭ったばかりの頼りない手が、今度は別れを示して揺れる。


「私は伊月君が好きだから、伊月君の恋が上手くいくように応援してるね」


そう言った彼女の笑顔を背に、伊月は駆け出した。

部活開始まで、まだ随分時間はある。

だが今はとにかく早く体育館へ行きたかった。


「好き、か…」


いつもの練習に比べて遥かに短い距離を走りきると、中学からの友人と後輩が視界に入った。

息切れはしていないものの全速力で走ってきたせいか、鼓動は速く強く脈打っている。

胸は酷く痛むというのに、頭の中は清々しい程穏やかだった。


「日向、名字、おはよ」


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