ノイトラは男子トイレの個室で聞き耳を立てていた。
「ノイトラさん、なまえちゃんと付き合ってるらしいぜ」
「マジ?俺別れたって聞いたけど」
「え、どっちも初耳なんだけど」
今朝、抜き打ちの持ち物検査が行われるという噂が流れた。ノイトラは検査に引っかかりそうな漫画類を急いで鞄から取り出し、ビニール袋に包み、大急ぎでトイレの個室の扉の内側にガムテープで貼り付けた。当然、仲間であるグリムジョーの分も一緒に包んである。おかげで彼等は漫画の没収を免れた。(鞄の中身が空っぽなのはまあまあ怒られた)
検査後、個室を閉め切ってそれを回収していると、同学年の男たちがノイトラとなまえの噂を話し始めたのだ。
出るに出られなくなり、個室に閉じこもっているのであった。
本当は出て行っても良いのだけれど、どんな下らない噂が流れてるのか一度聞いてみたかったのだ。
ちなみに、ノイトラは同学年からノイトラさんと呼ばれるポジションに居る。
「でもノイトラさんには勝てなくね?」
「それ」
「なまえちゃん、話しやすそうだけどさあ…いつも後ろにノイトラさん居るから、普通に話しかけらんない。怖すぎて無理」
「分かる」
ここまではノイトラもウンウン頷いて聞いていられた。
「ていうかノイトラさん、一個年上って噂本当かな」
「あー、あの見た目だしな」
「高校受験で浪人したんだっけ?」
「いや、なんか女の子妊娠させたとか」
「うわー、有り得る」
ノイトラはクツクツ笑いながら全て聞いていた。全部嘘だぜ、ソレ。
別に噂なんて好きに流してれば良いだろうと敢えて訂正しない。雑魚がいくら喚いても、痛くも痒くもねえって話だ。
「てか、なんでこの高校に入ったんだろうな。ノイトラさん、他の高校のが合ってそう」
「うち普通の高校だもんな。もっとハイローみたいな方が…」
「仲間みたいなのって、グリムジョーさんだけだしな」
これは答えたくないが、ノイトラは本当は別な高校に入る予定だった。もう少しランクを落とした高校で好きにやるつもりだったのだが…。
ノイトラには、怖いお母さんが居た。
とても怖いお母さんだ。
その母親が、高校くらいは良いところに入りなさいとうるさかった。無理矢理塾に入れられ、今だけでも良いからと勉強をさせられ、仕方なしに机にかじりついていたら、この高校に受かったのだ。
校風からしても、絶対浮くだろうなとは思っていた。しかしグリムジョーというほぼ同じ境遇の男がいたから、こうして楽しく馬鹿をやっている訳で。
グリムジョーが居なかったらノイトラの学校生活は、まあ悲惨であっただろう。
受験期の事を思い出している間に、噂をしていた男子たちは廊下へと出て行った。ノイトラは包みを持って個室から出ると、見知った水色の髪の毛を見つけた。グリムジョーだ。
「よお。回収したぜ」
「サンキュ」
グリムジョーはノイトラの機嫌を伺うように、顔を少し顰めながら「大丈夫なのかよ」と聞いた。
「何が」
「噂だよ、噂」
「ああ、あのくらい」
「あのくらい?…お前、バイト先で麻薬売ってるって噂流れてたけど」
「マジかよ」
ソレは知らなかった。
麻薬?そんな訳ない。変な噂が流れるモンだとノイトラは鼻で笑った。
「好きに言わせとけよ」
「それはそうだがよ、なまえ達の耳に入る前に、なんかした方が良いんじゃねェの?」
「…それもそうだな」
「既にこの噂知ってたらお終いだがな」
「ハハ、まァさか」
ノイトラは呑気に笑っていた。
本当に呑気に笑っていても良いのだろうか。
噂とは、意外に早く伝わるものである。
「えっ、ノイトラくんに年上の彼女が居るって本当?」
「なんか中学の時の先輩らしいよ」
こちらはこちらで、また別な噂が流れていた。なまえと仲良しのお友達同士の会話である。
「昔の話じゃなくて?」
「でも居るらしい…って」
「彼女いるのに、なまえにあんな風にするかな?」
「そもそも彼女作るタイプなのかな…」
「まず本人に聞いた方が良さそうじゃない?」
どうする?と他の3人はなまえに聞いた。もうこのグループ内で、なまえがノイトラを好きなのはとっくにバレている。というか、学年の全員が知っているかもしれない事実だった。
「もし、ノイトラくんに彼女居たらヤダな…」
なまえは顔を青くして俯いた。そりゃそうだ。あれだけアピールされて、彼女が居ましたなんて言われたら泣くだけでは済まない。いっそ訴訟である。
「そうだ、グリムジョーくんに聞いてみない?」
「ああ、それ良いかも!」
「ちゃんと教えてくれそうだもんね」
なまえは青い顔のまま、出来ればお願いしたいな、と細い声で言った。
ノイトラくんの事は好き。でも、自分で彼女が居るかすら聞けないのに、私はノイトラくんを好きで居て良いのだろうか。
なまえは急に不安な気持ちになって、そっと席を立った。
ノイトラくん、もしも彼女が居たらどうしよう。
中庭を見下ろす渡り廊下で、なまえはぼうっとしていた。たたが噂。されど噂。高校生にとって噂話は週刊誌よりも身近で、新聞くらい信憑性のあるモノだった。
「…なまえか?」
「あっ、ウルキオラくん」
「中庭でも見て、何かあるのか?」
「ううん、何も…」
「野良犬か?」
「居ないよ…」
特進クラスのウルキオラくん。この間の勉強会で少し話したくらいだけれど、真面目そうな雰囲気に、落ち着いた口調。こんな時、つい相談を持ちかけたくなった。
でも、いきなり恋の悩みなんてされたら迷惑だよね、と躊躇った。
「この間、途中で抜けただろう」
この間。勉強会の時のことだ。
なまえだけ途中で抜けて、ノイトラとグリムジョーの居る席に合流したのだ。
「あの時は…その、ごめんね」
「謝る事はない。ノイトラとは仲が良いのか?」
「うん、まあ…」
「そうか。俺はアレに連れられて、この間学校帰りに焼肉に行ったんだ」
「うん…?」
なまえは何の話が始まったのか理解できないまま、相槌を打った。
焼肉。いいなあ。ノイトラくんと焼肉、楽しそう。
「その店には、ここの学校の男子と女子のバレー部も来ていたんだ」
「うん…」
「ノイトラはその中に居た女子に声を掛けられたがな、黙って手を振って、そのまま俺たちの席に戻ってきた」
「そうなんだ…」
少し安堵してしまう自分が悔しかった。
こうして周りの話を聞くだけ聞いて、不安になったり、安心したり。
もう少し、しっかりノイトラくんと話せたら、裏でコソコソしなくて済むのに。
「…そこで思ったんだが、お前とノイトラは付き合っているのか?」
「えっ!いや、その、まだ…」
「まだ…これから予定があるのか?」
「違、あの、…私はね、ノイトラくんと付き合えたら、良いなと思ってるだけ、なの」
なまえはやっと本音を話せた。
ウルキオラは静かに頷いた。
「そうか。頑張れよ」
「そ、そうだよね!頑張る!」
ウルキオラはそれだけ言って、じゃあ…と渡り廊下を後にした。言う事は言った、みたいな満足した顔をして、ウルキオラは少し振り向いて手を振った。なまえも真似して少し手を振った。
掴みどころが無いけれど、良い事を教えて貰った気がする。
ちょっとだけ、なまえは自信を持てた。
「なあ、今日なまえ借りて良いか?」
「どーぞー」
なまえと帰り道が同じのあの子は、二つ返事でなまえをむぎゅ!とノイトラに押し付けた。放課後のチャイムが鳴る、ホールムール後の教室での事だった。
なまえは噂騒動で大忙しだった一日を終えて疲れ果てていた。今日は大人しく家に帰ろう。そして明日から頑張ろうと決めていたのに。
ノイトラくんは「ちっとツラ貸せよ」と隣で笑っている。
これって…。これって…。
頑張るしかないでしょ!
今日一緒に帰れなくなったあの子に、小さくごめんねと手で合図する。しかし彼女はそんなの気にする事なく、笑顔だけ返してくれて、軽やかな足取りで教室を出て行った。
「悪いな。今日バイトあっから少ししか話せねえけど」
「も、もちろん…!」
「なんだ、今日やけに元気だな」
ノイトラはまるで妹でも可愛がるような気軽さだったけれど、なまえからしたら、好きな人からのお誘いだもの、これは決戦である。
夢主にとって、桶狭間よりも、関ヶ原よりも、長篠の戦いよりもアツい恋の一番勝負が始まろうとしていた。
今までは、ノイトラくんに憧れてるだけで良いの、なんて可愛らしい気持ちだったけれど、もう違う。もしノイトラくんが他の女の子と付き合ってたら、すごく嫌。
もう、これは頑張るしかない…!
ノイトラは学校近くのドーナツ屋さんに入った。トングを取ると、カチカチ鳴らしてくるりとなまえの方を振り向いた。
「これ、好きそうだよな」
生クリームの挟まったドーナツだ。なまえの大好きなやつをノイトラは当然のように把握している。
「あたり」
「だと思ったぜ」
ノイトラはベーコンポテトパイを取って、アイスティを2つ注文した。
奥の方、隅の席にノイトラとなまえは腰掛ける。
「手短に話すぜ」
「うん」
2人の間に緊張が走る。なんの話だろう。つい夢見心地でノイトラについてきてしまったけれど、ここで実は最近彼女が出来ました…なんて宣言なんてされたら、目も当てられない。
なまえは、ドキドキしながら次の言葉を待つ。
「俺、ダブってねえし、バイト先でも服しか売ってねえから!」
「え?あ、うん…?」
何の話だろう。今日2回目に感じる違和感だった。なまえの頭上に明らかに「?」マークが付きそうな困惑した表情を浮かべた。
ノイトラは少し安心したようにアイスティーを飲んだ。
「なんか俺の変な噂流れてるらしくてよ」
「そうなんだぁ…」
ちょっと拍子抜けした。つい安心してドーナツを口に入れた瞬間、噂のアレを確かめなきゃとハッとした。
「あの、あのね」
「なんだよ」
「…ノイトラくん、か、彼女って…い、い、」
「居ねえ」
ノイトラはそう言い切って、勝ち誇ったように笑った。大方、ソッチの方でも変な噂が流れていたんだろう。
そうなんだあと言って、ふにゃふにゃ笑うなまえの腑抜けた笑顔といったら、この上なく可愛い。
「そんなに嬉しいかよ」
「うん…」
これって、もう告白と同じだった。
なまえはどうしよう、とノイトラの顔色を伺った。今更だけど、この好意は迷惑じゃないだろうか。ノイトラくんにとって、私は仲良しの女友達だったらどうしよう。
でも目が合うと、もう何も言えなくなってしまう。
ノイトラくんは、ズルいくらいカッコいい。
ノイトラは、なまえの小さい手を上から覆うようにして握った。
もう、色々と我慢ならなかった。
「なあ、俺達どうする?俺ァなまえの事、スゲェ好きだけど」
ノイトラは、彼女の細い指をするすると絡め取った。
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