※ホラー風の怪文書
※夢小説かどうかは分からない括り
北鎌倉駅から建長寺に向かう途中の道を左に逸れ、急な勾配の坂道を登った先に、その店はあった。
一見普通の古民家にも見えるが、軒先に垂らされた暖簾には『普照堂』と屋号が記されている。ここが青年の目指していた骨董店だ。
坂の上まで登り切ると、他に民家らしい民家も無く、辺りは鬱蒼とした木々に覆われている。
引き戸の玄関を開ければ、白檀が淡く香った。
玄関から続く長い廊下を進むと、左手に和室があり、そこには骨董品が所狭しと並べられていた。大小様々な皿から屏風、掛軸、陶器、籠。棚や箪笥、文机も並べられている。
どれも年代を経た物だが、使い古されたような埃臭い翳りは無かった。どれも次の持ち主を待つ間、ひっそりと眠っているようだ。
しかし此処に青年の求めた品は無い。他にも部屋があるのだろうかと思い、廊下に出ると、不意に水が跳ねるような音がした。
音のする方は、廊下の突き当たりだ。
そこには竹で組まれた柵があり、向こう側には神社やお寺で見る手水のような物があった。
また、水が跳ねる音がした。
青年は不思議に思って、柵に近付いた。柵は低く、向こう側を覗き込もうとすれば、身を低く屈めることになる。
床に膝をついてよく見れば、それは井戸のようだった。格子状に組まれた竹で蓋がしてあるが、竹同士の隙間は大きく空いて、井戸の中の暗がりがよく見えた。ここに鍵でも落としたら、一大事になりそうだ。
鶴瓶もポンプも無いし、屋内に造られているが、どうにも此れは井戸としか思えなかった。
白檀の香りに隠れていたが、僅かに水場特有の、湿り気のある香りが漂っている。
吸い込まれるよう覗き込めば、井戸の奥底には、闇を溶かしたような水が沸いていた。
水面に何かの影が映る。自分の姿が反射しているのかと、目を凝らした瞬間だった。
「何か、お探しですか」
低く、厳かな声色であった。
驚いた青年が顔を上げると、背の高い、物静かそうな男性が立っていた。こちらを見下ろす瞳の奥は、静かに沈んでいる。
青年が言葉に詰まると、男は見間違いかと思う程、僅かに微笑んでこう言った。
「申し遅れましたが、私はこの店の店主、シャウロン・クーファンと申します」
◯
青年は認知症を患い始めた祖母が、しきりに「鏡台が欲しい」と騒ぐので、致し方なく祖母が求める物を探していた。祖母のこだわりは激しく、どこに行っても祖母の満足する鏡台は発見できなかった。
祖母の癇癪は増した。家族はすっかり疲弊し、青年が鏡台を探していると叔母に漏らすと、「それなら、北鎌倉の普照堂さんだわ」と、ハッキリ言った。
こうして彼は北鎌倉の骨董店へ辿り着いたのだった。
店主を名乗ったシャウロンは和服に身を包んでいる。青年が鏡台を探していると伝えると、彼は短く「ああ」と言って青年を誘導した。足音を立てず歩く姿は幽鬼の類ではないかと思うほど、彼の姿に生気を見出せなかった。
件の廊下は井戸を突き当たりにすると、横にまた別な廊下が伸びていた。そこは奇妙に曲がりながら、離れに繋がっていた。
離れの板の間に置かれた鏡台の前に青年を案内し、状態を確認させた。祖母が求めていた理想に近い鏡台である。これにすると青年が決めると、シャウロンは隣の部屋に青年を案内した。
そこは狭くて暗い、少し不気味な客間であった。
◯
青年が魚でも居るのですかと問うと、店主は知らぬと答えた。では、あの水を使うのですかと問えば、知らぬと答えた。
「知らないんですか」
「ああ、知らない」
廊下の突き当たり。あの井戸の事である。
青年が客間で料金を支払ったり、鏡台の配送用の送付状に住所を書いている間、井戸の方から水音が聞こえた。
魚が跳ねるような音がしたからだ。
しかし、店主は知らぬ存ぜぬを通した。
不気味ではあるが、深追いする程でも無いか、と青年はぼんやりとテーブルの端に置かれた水盆を眺めた。
黒い盆の上には薄く水が張られ、花の生首を千切ったような形の小さな花が浮いている。妙な生け方だと眺めていると、水盆に映る景色の影が崩れた。
おかしいと目を凝らすと、水盆の中に写った見知らぬ女と、ぱちりと目が合った。
その瞳はこちらを真っ直ぐと見据えて、何か言いたげに眉を曇らせている。
青年は思わず席を立った。
心臓が大きな音を立てて鳴る。冷や汗が額に滲む。
「見えたのか?」
店主のシャウロンは静かに訊ねた。
何も答えられずに居ると、シャウロンは溜息をついた。
視界の端で、風もなく水面が揺れるのが見えた。女の影が消えたのだと青年は悟った。
「あの、あの女の人は幽霊ですか?」
「知らん」
突っぱねるような声色だった。
シャウロンは青年に「明日の午前には家に届くだろう」と言って、送り状の控えを手渡した。
翌日、鏡台が届いてから青年の祖母は俄かに興奮したものの、半刻もすれば落ち着きを取り戻した。
青年は何度か鏡を覗いてみたが、あの日見かけた女の人は映らなかった。
あれ程恐怖したというのに、青年はあの女の顔が忘れられなかった。
気付けば、鏡や水面を覗き込む時間が増えていた。
◯
「井戸はもう塞いだか?」
イールフォルトは裏庭の方に車を乗り付けて、普照堂へと顔を出した。風の強い春の夜だった。月も翳り、花の香りだけが漂っている。
シャウロンはこの上なく嫌そうな表情を浮かべて、帳簿から顔を上げる。
「馬鹿な事を」
「なんだ。そうだ、また手入れでも手伝ってやろうか?曰く付きの日本人形はどこだ?」
「あるものか」
イールフォルトは、かつて此処のアルバイト要員だった。大学生の頃に、怖い噂を聞いて、面白半分で応募したバイト先だった。
結局、化け物の姿も、夜な夜な動き出す日本人形も、手招きする幽霊の掛軸だって、何一つ見なかったのだけれど。
ただ、店主のシャウロンは明らかに何かを隠していた。それが井戸にまつわる事だとは、知っていた。
その先のことは、いくら聞いても決して知らされる事は無かった。
ただ。昔聞いた噂によれば、井戸から女の声がすると、そう聞かされたのだった。
「座れ」
「言われなくとも」
「図々しいな」
シャウロンは鼻で笑ってイールフォルトを迎え、対面に座らせた。近くの棚から取り出した缶コーヒーを差し出され、「これ、賞味期限は大丈夫なのか?」と口から滑り出てしまった。折角のおもてなしにケチを付けてしまった。
「じゃあ飲むな」
こうケチを付けられても、シャウロンは静かに返すだけだった。怒りもしない。呆れもしない。淡々と机の上を片付けるのみ。帳簿もペンも、走り書きのメモも、電卓も脇の棚の上へ乱雑に置かれた。
片付いた机の上には、水の張られた小さな皿だけが残された。
「じゃあ、例の井戸水でも貰うか」
「腹を下すぞ」
「弟に診させる」
「そう死に急ぐな」
「おい」
ちゃっかり賞味期限を確認すると、イールフォルトは缶を開けた。
「一度井戸水を飲んでみたいのだがな」
「他を当たれ」
井戸の話をすれば、シャウロンの語気に感情が滲む。表情に生気が戻る。
やはり、井戸に何かあるのだ。
普段は客を通さない、この事務所のような部屋は、仕入れたばかりの骨董が並んでいる。壺から掛軸、金糸銀糸で織られた帯、金箔の散りばめられた漆器。螺鈿細工の屏風。金剛石の嵌められた古い指輪。堆朱の香合。
闇の中に、朦朧と浮かび上がるそれらは鈍く光る。その光沢には、骨董側が人を品定めするような、鋭い沈黙が含まれている。
土のような匂いのする、ひやりとした風が通り抜ける。
「相変わらず埃臭いな」
「それが売りだからな。何か買っていくか?」
「趣味じゃない」
「随分だな」
イールフォルトは、自分に向けられた重たい視線がある気がした。
部屋をぐるりと見回しても、視線の元となるような目鼻の付いたものは無い。
それでも、肩に、頬に、首筋に、女の長い髪が絡むような不気味さを感じた。
こんなに陰鬱な部屋だっただろうかと、イールフォルトは思い返した。
約2年前の事だ。夏場を迎える前に、古道具の整理をするのがアルバイト達の仕事だった。
古民家は湿気が酷い。放っておけば壁にカビが生える。売り物の箪笥も、文机も、屏風も、何位もかもがカビまみれになる。
それを防ぐ為、道具の手入れやら、除湿器を働かせたり、除湿剤を忍ばせたり、その他にも七面倒な作業が必要で、泊まり込みながらもイールフォルトは非日常的な雰囲気の店に奉仕を重ねた。
当時だってこの家が怖いとは思ったものの、今ほど本能に響く程では無かった。
同時期にアルバイトとして雇われたディ・ロイという男だって、怖い怖いと騒いだ5分後には、イビキまでかいて寝ていた。
此処はその程度の場所だったのだ。
かつては。
「今日は曰く付きの骨董でも混ざっているんじゃないのか?」
気を紛らわすよう軽口を叩いてみるが、シャウロンは一向に返事をしなかった。
「なあ」
シャウロンは、「ああ」と気の抜けた返事をした。だが、その視線は机に唯一残された皿に注がれていた。
その形相は幽鬼そのものだ。
「何か居るのか?」
水の中に、何かが潜んでいると思った。
イールフォルトは恐ろしさに、思わず身を引いた。井戸。女の声。水の張られた皿。
座敷には不自然に水音が響く。
皿に注がれているのは、井戸の水ではあるまいか。
「それ、井戸の水だろ」
声が微かに震えた。イールフォルトがそう言うと、シャウロンは緩やかに顔を上げ、掠れた声を上げた。
嘆きを堪える痛みが走る。
「お前、見たのか?」
向けられたのは、羨望と戦慄が綯い交ぜとなった眼差しだった。
「何をだ」
イールフォルトが鋭く問えば、諦めたような表情でシャウロンは俯き、そのまま訥々と語った。
◯
それは、夢で何度も逢っている女なのだと言う。
この古民家で店を開いてから、幾度も同じ夢を見たらしい。
夢の中で、シャウロンは何度もこの家の中で女の影を見る。追いかけた先に女は居らず、ただずぶ濡れになった部屋や廊下があるばかり。呆然としていると耳元で女の蠱惑的な笑い声が響く。
声に向かって誰だと問えば、もう知っているでしょうと返される。知らぬと言えば、私は貴方を知っていると返される。
ふと足元を見れば、シャウロンは井戸に堕ちていた。慌てて動けば水面は揺れる。揺れているのに、飛沫も上がるのに、水面にはクッキリと女の美しい横顔が映されている。
声の主はこの女だったのかと合点すると、目が覚めるという。
荒唐無稽な夢だというのに、起きた時には家の中にその女が居て、シャウロンの目覚めを待っているような気がしてならないのだと。
その心地は不気味ではなく、むしろ自分の心の欠けた部分が埋まるような、満ち足りた心地がしてならないのだと。
「それで、ある日、夢の中でこれは夢だと気付いたのだ。どうしたら会えるかと聞いたら、井戸の水に私は映るからと、声は答えたのだ」
自嘲気味に笑って、シャウロンは水面をチラリと見る。
「まだ、私は会えていないがな」
それから井戸の水を汲んでは家中に置いては覗き込み、また会えないかと待っているらしい。
イールフォルトは試しに女の名を知っているかと聞いた。
シャウロンは虚な瞳を不自然に輝かせて、イールフォルトを見据えた。
「知っている」
濃い花の香りが漂う夜だった。
部屋には時折、ひやりとした冷気が差し込んだ。それはまるで、小さな冷たい手で、首筋を撫でられたような冷たさであった。
闇から伸びる白い手が、イールフォルトの首筋に、手に、頬に触れる気がした。驚いて振くと、目の前は螺鈿細工の屏風だ。
濡れ光るような漆に、螺鈿細工の百合が咲いている。
「名前は、最近やっと知った」
屏風の中の花が風に揺れ、はらりと花弁を散らした。イールフォルトは自身の目を疑ったが、確かに花が揺れている。蝶が舞い、鳥が囀る。
「なまえだ」
遠くで、雷鳴が轟いた。
◯
蓮が咲いていた。
普照堂の入り口には大きな蓮の鉢が一対ずつ置かれて、その中にはメダカが泳いでいる。酷暑だというのに、鉢の中だけは別世界のように涼やかだ。
ディ・ロイは垂れる汗を腕で拭いながら、普照堂の暖簾を潜った。
夏の陽射しが照り映え、玄関の壁や天井には水の反射した揺れる影が映る。
廊下から座敷まで見渡せば、家の中のあらゆる場所に花が活けられた水盆が置かれている。よく見れば盆の中には小さな金魚が泳いでいたり、数匹のメダカが必ず入っていた。
アルバイト時代にこんな物は無かった。夏らしさの演出だろうかと思いながら、ディ・ロイは廊下を抜け、井戸の突き当たりを曲がった。
奥の座敷には、よく見知った男が置物のように座っていた。
「元気そうじゃん」
ディ・ロイはイールフォルトの友達であり、普照堂の元アルバイトだ。
春先にシャウロンの様子がおかしいとイールフォルトから聞いたから来てみたものの、シャウロンは当時と変わらず元気そうだった。
「今度はお前か」
夏だというのに、シャウロンはいつもと変わらぬ和服に身を包んでいた。座敷には涼しげな魚を放つ癖に、服の季節は知らないのかと言いたくなる。
ディ・ロイは薄手のTシャツをパタパタとさせて仰ぐ。いくら涼しい室内でも、まだ汗がどっと噴き出るのだ。
「なー、手入れ手伝うからアイスとか出してくんね?」
「断る」
「は?岸辺露伴かよ」
「誰だソイツは」
「あ、シャウロンジョジョ読んでねえのか」
「また漫画の話か」
「それ以外話す事無くね?」
「お前はな。私は違う」
相変わらずの仏頂面に、素っ気ない会話だ。
表情と言葉は迷惑ぶっても、シャウロンは座敷を離れた。冷たい飲み物でも取りに行ったのだろう。奴はいつもそうなのだ。
本当は慕われて嬉しい気持ちが丸見えだ。
やけにイールフォルトが電話口で騒ぐから、うるさくて適当にハイハイと返事をしてしまったが、シャウロンの様子は、さして深刻では無さそうだ。
本当なら電話を貰った翌週にでも行こうかと思ったのだが、延び延びにするうち、春が過ぎ、梅雨を迎え、初夏を越し、ついに夏の最盛期だ。
外から蝉の声が聞こえてくる。窓の外をぼんやり眺めていると、シャウロンは音もなく座敷に戻ってきた。
「アイスは無い」
「うわ、カルピス俺好きなんだよな。サンキュー」
切子のグラスには、キンキンに冷えたカルピスが注がれていた。ディ・ロイは大喜びでグラスに口を付ける。
「私の様子でも見に来たのか?」
「や、湘南の海に呼ばれたワケ」
正直、ギクリとした。図星だったからだ。
しかし。夏といえば、湘南。海で遊ぶついでに、シャウロンの顔を見に来たのも本当だった。むしろ夏の海に用事がなければ、来訪は秋まで延びていたかも知れない。
結果として、心配無用。シャウロンは至って元気そうだった。なんなら、お花と魚に囲まれて楽しそうにしているではないか。
「海がお前なんかを呼ぶものか」
「ひっでえ」
毒舌も上々。
ディ・ロイとシャウロンが笑うと、重なって誰かの声が混ざる気がした。
辺りを見回しても、ディ・ロイとシャウロンの他に誰も居ない。玄関には他の来客を告げる靴も無かった。
強いて言えば、2人の座る机の近くには、金魚鉢がひとつ置かれていた。
花びらのような鰭を持つ金魚が優雅に泳ぎ、水草まで浮かべてある。金魚は時折水面に口を寄せている。玄関から廊下、至る部屋にまで並べられた鉢のや盆の中で、魚が泳いでいる。
「つーか、この家魚多くね?夏だから?」
「ああ。夏だからな」
「へー。世話してんの?」
「するに決まってるだろう」
「ま、世話しなきゃ死ぬよな」
「当たり前のことを聞くな」
下らん、と吐き捨てながらも、シャウロンは少しだけ笑っていた。少し感じていた緊張も解れて、ディ・ロイは重ねて饒舌になる。
「なあ、そろそろ曰く付きの日本人形とか仕入れた?」
「馬鹿者が。またそれか」
「え、まさかイールもこの話した?」
「した」
「マジかよ」
「つまらん話題ばかり振るな」
机に肘をかけて、ディ・ロイはシャウロンに少し近寄る。シャウロンは猫のように少し身を引いた。
それも構わずにディ・ロイは机を指でトントン叩いて、「これ聞かなきゃ始まんねえだろ」とボヤく。
「で、ホントは日本人形を仕入れて…?」
「仕入れたらお前の家に着払いで送ってやる」
「うっわクソ迷惑だわ」
「見たいんだろうに」
「欲しくは無えんだよ。見てえだけなんだよ、俺は」
「随分と我が儘な小童だ」
「え?コワッパって何?」
「知らんのか。お前のようなクソガキの事だ」
「はァ?インテリぶりやがって…」
思いっきり顔を歪めたディ・ロイを見て、シャウロンはくしゃりと顔を歪めて笑った。笑われたと思うと悔しいが、相手を笑わせてやったと思うと誇らしい。
静かな座敷に、男の笑い声がふたつ。ゲラゲラ笑う声には、外の蝉の声が重なった。
「シャウロン、まじで嫌味ったらしいよなァ」
「言われる方に問題があるのだ」
「うわ、出た。俺それよく言われンだけど」
「だろうな」
「おい」
座敷はまた笑いに包まれる。確かに昔もそうだった。ディ・ロイはよくシャウロンを笑わせていた。昔はここに、イールフォルトの野次と高笑いが混ざっていた。
「なー、カルピスのおかわりはァ?」
「台所にある」
「え、貰って良いのか?」
「好きにしろ」
ディ・ロイは勝手知ったる何とやらで、台所に直行した。冷蔵庫からカルピスを拝借し、ミネラルウォーターで薄める。
ウキウキで座敷に戻る間、ディ・ロイはふと違和感を感じた。
シャウロンの低い声と、女の細い声が座敷から聞こえた。2人は問答でもするよう、低い声で終始話しているようだった。電話だろうか。電話にしては、女の声が大きい気がする。
深く気にせず座敷に戻れば、シャウロンは先ほどと同じよう、黙って座っていた。
そういえば、イールフォルトは女がどうだとか、言っていたような。
「シャウロンさあ」
「お前はずっと私を呼び捨てだな。どうした」
「この家、他に誰か居る?」
僅かに、シャウロンは息を呑んだ。
「居ない」
一瞬躊躇ったものの、ほとんど即答だった。用意された答えを反射的に答えるよう、シャウロンはピシャリと言い放った。
2人が会話する間も、女の細い声が途切れ途切れに聞こえる。座敷が沈黙しても、どこからか流れるラジオのように女の声がぼそぼそと聞こえる。そうだ。シャウロンと話していたのはこの声だ。
「なんか、ほら、女の声すっけど」
「いや、聞こえんな。熱中症か?」
「え、俺だけ?」
ディ・ロイが立ち上がると、女の声はピタリと止んだ。
座したままのシャウロンと目が合うものの、嫌な空気が流れる。シャウロンから向けられる視線に、ディ・ロイを咎める厳しさが鋭く光る。
時が止まったかのような沈黙が続く。
遠くで鳴る防災警報だけが、座敷に響いた。
「俺、帰る」
ディ・ロイがシャウロンから目を離した一瞬の出来事だった。
金魚鉢の水面に、美しい女の顔が映っているのが見えた。儚いのにひどく華やかで、その一瞬で魂を捧げてしまいそうな程、惹きつけられた。
ただ、その瞳はシャウロンの方にだけ向けられていた。
◯
家の至る所に、水の張られた盆を置いた。
そこに花を添えれば、誰からも訝しがられる事はない。
どこでもなまえの顔が見られるように、シャウロンは井戸の水を汲んでは盆や器に注いだ。夢で教わった通り、いつでも水面が目に入るよう、家の至る所に器を置いた。空の器を水で満たせば、とてつもない多幸感に支配される。胸の内で果実が熟れるような甘ったるさだ。
あれから知った事だが、どうやらなまえは魚の口を借りて声を出すらしい。
だからシャウロンは、家のあらゆる場所に大きな鉢やら水槽を置き、魚を放った。
これも、夢の中で教えて貰った事だ。
夢に意識を沈めずとも、なまえの顔も見れる。声も聞こえる。
脳髄も、臓腑すら溶けそうな至福が芽生えた。
イールフォルトには話していないが、あの夢には続きがあった。
落ちた井戸の底で、水面に映る女の影を見る。愚かにも引き寄せられるよう水底に身体を沈めると、その先は月明かりの差し込む、狭い座敷だ。
彼女はそこで、シャウロンと秘密の遊戯をする。誰にも話してはいけない、秘密の遊びだ。
彼女は儚くも華やかだった。日陰がよく似合うのに、白い肌が玉のように輝いていた。話す声色は艶やかで、吐息は花より果実より甘い。濡れ光る唇はシャウロンの狂気を掻き立てる。
美しい双眸は、いつも意味ありげに潤んでいる。
誰も知らない、誰も辿り着けない秘密の場所で、深みに堕ちる。空気も光も届かない。湿り気が肌に、粘膜に、纏わり付いて離れない。
夢を繰り返し見た。恐ろしいと思いながらも、シャウロンは井戸に身体を沈める。
例え水底の泥濘が、地獄に繋がっていたとしても。
この古民家を買い付けた時には、あの井戸は既にあった。
不動産業者によれば、あれはもう枯れた井戸だが、井戸封じをする程でもないと言われた。なぜ室内にあるのかと問うても、もう誰も知らないのだと言われた。
いずれ井戸を封じるつもりで、古民家を購入した。諸々の手続きを済ませ、内装を整えた頃、井戸には水が戻った。
不動産業者に連絡すると、水質検査して使えるなら使ったらどうですかと、投げやりな事を言われた。
鶴瓶も無ければ、ポンプも無い。ただ地面に向かってぽっかりと丸い穴が空き、地の底から黒い水がどうどう湧くのみだ。
どうしたものかと思案する間も無く、開店日を迎えてしまった。取り急ぎ井戸に柵と蓋を設けて、そのまま今日に至る。
思い返せば、あの夢を最初に見たのは、水が湧き出てすぐの事だった。
濃い線香の香りが立ち込める。
店の雰囲気に合うよう、この店は常に香を焚くが、仏壇に供えるような香りは使わない。
それなのに、今はまるで墓場にでも居るような香りが、濃く漂っている。
井戸から水音がした。魚の跳ねるような、軽快な音だった。
外は酷い雷雨だった。元から薄暗い店内は更に陰翳を増す。灯された行燈の光が絶え間なく揺れている。目に見えぬ不吉な者達の騒めきが、炎を揺らすようだ。
「なまえか?」
井戸には、女が居る。なまえだ。シャウロンは焦点の暈けた瞳で、井戸の奥の水面を捉える。
井戸は返事でもするよう、水音を立てた。
まだ、この井戸になまえの姿が映った試しは無い。小さな皿に移し替えた水面にだけ、美しい相貌を覗かせた。
水音は続く。
シャウロンは井戸に吸い込まれるよう、蓋を開けて、ぐっと顔を寄せた。
井戸の底で、1匹の魚が泳いでいた。
闇の中に白い鰭が浮かび上がり、滑らかな胴体が青白く光る。細くしなやかな、美しい魚だ。
「なまえ」
シャウロンは井戸の底の魚を、確かにそう呼んだ。考えるまでもなく、それをなまえだと思ったのだ。
魚など紛れ込むはずがない、かつては枯れていた井戸だというのに。光も届かぬ水底で泳ぐ魚は、現に見る夢か、はたまた夢が現に姿を現したのか。
シャウロンは魚に向かって、なまえの名を呼び掛け続けた。井戸に顔を寄せて。
どれ程時間が経っていたのか、誰も知らない。シャウロンの長い手足は血の気を失い、蝋のように白く色を変えていた。
ふと気付けば、魚は緩やかに身体を傾け、腹を見せるような姿を取る。あっと思うと、魚は水面で跳ねた。その飛沫が、シャウロンの頬を濡らす。
咄嗟に顔を逸らした途端、井戸の底の魚など幻のように消えた。
井戸の淵に、這い蹲るシャウロンだけが残された。
呆然として動けずにいると、井戸の奥底から淡い気泡が浮かび上がり、水面で輝いた途端、青く弾けて消えた。
幾度見なおしても、井戸に魚など居ない。
それでもシャウロンは暗い淵に縋る。折角逢えたのにとシャウロンは慟哭した。井戸に、床に、身体を沈めそうな程。苦痛の数だけ骨が軋み、胸を抉られるような喪失感に苛まれる。
あれ程立ち込めていた線香の香りは、とうに消えていた。
こうして地に伏して嘆く姿は、人と呼ぶにはあまりに物悲しく、今にも崩れそうであった。
(おわり)
〜あとがき〜
這う虫の如く
私はこの世に戸籍を持たない男性に狂っているので、シャウロンさんもこのくらい狂ってくれたらいいのになと思いました。
イールフォルトが普照堂に乗り付けた車は品川ナンバーのBMWです。余談ですが、ザエルアポロは品川ナンバーのポルシェに乗ってます。ロイくんは電車で北鎌倉に上陸です。
夢小説よりは怪文書に近いものでした。
怪異は人の姿を借りて現れるか、このようにほんの一瞬だけ何処かに姿を見せます。お気を付けください。
読んでくださった皆さま、本当にありがとうございます。
※ 普照堂の名付け:舞台の鎌倉エリアで11といえば、長谷寺の十一面観音。十一面観音は大光普照観音とも呼ばれているとの事。
11繋がりでお名前拝借いたしました。
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