カーテンの隙間から、淡い光が差し込んでいる。ノイトラは目を覚ましながらも、布団の中で夢の余韻に浸っていた。土曜日の朝は、平日よりもずっと緩やかに時間が流れている気がする。柔らかい毛布の中から出たくないけれど、外の穏やかな空気に包まれたいとも思う。

 毎日が休みだったら良いのにと、ノイトラは毎朝思っている。

 平日はギスギスするので嫌いだ。クライアントからの電話がアレコレ。定期的に株価のチェックをアレコレ。メールのアレコレ、税金関係アレコレ。金と数字、損得の話ばかりで心がすり減ってゆく。
 ノイトラはフリーランスの(悪徳)経営コンサルを生業としている。人に乗せられやすい経営者達にアレしろコレしろと口を出すだけで、顧問料がドカンと入ってくる。

 たまに顧問先の会社からお呼ばれされる以外は、お家でイライラしながらパソコンと睨めっこするだけの、才能と頭脳と度胸が試されるお仕事だ。

 折角の休みだというのに、ついクライアントの顔が脳裏に浮かび上がる。浮かび上がるオッサン共の顔を振り払って時計を見れば、まだ8時を少し過ぎたばかり。

 あと少しだけ、とノイトラが瞳を伏せた瞬間だった。
 朝の静寂を破るよう、窓の外から「ギャンッ」と、犬の吠える声がした。その声は鋭さと勢いを増してゆく。どうやら家の近くで犬2匹が吠えあっているらしい。
 二度寝しようにも、その声の大きさにすっかり目が冴えてしまった。暫くすれば犬の声も聞こえなくなったが、ノイトラの甘い微睡みは完全に消え失せた。

 仕方なくベッドから起き上がれば、隣にはノイトラの大好きな女の子が眠っている。彼女はなまえ。あのノイトラが一途に好いている可愛い可愛い女の子だ。
 こうして2人で枕まで並べて、共に暮らすほどの仲になったのに、ノイトラはまだ片想いをしている気分だった。

 彼女は穏やかな寝息を立てている。伏せられた瞳の中で、どんな夢を見ているのだろうか。ノイトラが彼女にぴたりとくっ付いて眠ったとて、これだけは分からない。
 1人だけ起きてしまうと寂しいもので、彼女に向かって、早く起きろ、と念を送る。それでもなまえはびくともしない。
 無理やり起こそうかと考えたものの、夢の続きを邪魔するなんて野暮だと思い直して、ノイトラはそっと寝室から抜け出した。

 リビングのフローリングは冷えていた。
 裸足には少し堪えるけれど、ノイトラは家の中で履く靴下が嫌いだった。スリッパも、トイレ以外で履くのは大嫌いだ。
 コーヒーを淹れながらスマホを見れば、ニュースサイトの見出しが目に入る。『大物議員の失言「女は出産が必然」国会騒然』。見出しは、絶妙に韻を踏んでいた。
 語呂の良さに少しニヤけつつ、ロクでもねえなと舌打ちをして、ノイトラは熱いコーヒーを啜る。
 適当にニュースサイトや、SNSを流し見する。本当ならテレビを付けても良いのだけれど、なまえが起きたら可哀想なので付けない。

 一瞬手に取ろうと考えたリモコンの隣には、乳白色の細い花瓶が置かれている。
 これはなまえが買ってきたもので、確か本だかドラマだか、何かの歌に影響されて欲しくなったのだと本人が言っていた。
 花瓶には、いつもなまえが選んだ可愛らしい花が活けられている。今飾られているのは、一昨日なまえが買ってきた白い花だ。

 ノイトラは家に花があっても無くても、別にどうでも良かった。

 でも、なまえが嬉しそうに「またお花買っちゃった。見て。可愛いでしょ?」と言う時の表情が、無性に好きだった。一度、試しに「お前の方がな」と返したら、もっと嬉しそうになったので、花があっても良いのかもしれないと、そう思ったのだ。

 コーヒーが飲み終わって、2杯目を飲むか、キッチンに残るスープに手を付けるか悩んでいると、寝室から、ガサゴソと人の動く音がした。ペタペタと可愛らしい足音が近付いてくる。
 ノイトラの待ち侘びたなまえが起きてきたのだ。

 「おはよお。ノイトラ、朝、早くない?」
 「なまえが遅いんじゃね?」

 目を細めたまま「遅くないよ」と言い張るなまえは、子供みたいに笑った。それから「あっ、スープ飲みたいな」と甘えられたので、ノイトラは仕方なくスープを温める事にした。

 あれからなまえがどんな夢を見ていたのか、ノイトラは後で聞いてみようと思った。


 ◯


 「シートベルトしたかよ」
 「したした」

 休日らしく、なまえもノイトラもお出掛け。車高も車幅も大きめの車が細い道をそろそろと抜けてゆく。

 車がビュンビュン駆け抜ける国道に出て、高速に乗っかって、そのまま40分くらい走れば2人の目指す湖に辿り着く。
 あれから起きてきたなまえとノイトラは、残りのスープを分け合い、近所のパン屋さんで買っておいたクロワッサンを食べ、テレビを付けた。映ったのはローカル局の番組で、とある湖畔の観光特集の場面だった。ノイトラもなまえも、その湖畔が家からまあまあ近いと知り、ダラダラと身支度を整えて車に乗り込んだのだ。

 「新しい店って、美味えかマズいか博打だよな」
 「そう?どこのお店も、ある程度は美味しいんじゃない?」
 「ある程度な」
 「うん。ある程度ね」
 
 湖畔には、新しくオープンしたカフェやレストランが軒を連ねているらしい。中には古くからのお店も混ざり、連休には駐車場も足りない程賑わうとテレビで紹介されていた。

 「ノイトラさあ」
 「ああ」
 「お店に行ったら、何食べたい?」

 緩いカーブを曲がりながら、ノイトラは「あー」と低く呟き、ハッキリと言った。
 
 「アレだ、肉」

 なまえは少し間を置いてから、笑った。

 「雑だね」
 「俺の言う肉ってアレだからな」
 「なに?」
 「肉入ってたら何でも良いヤツな」
 「そうなんだ」

 なまえは、「そうなんだ」の瞬間にパッとノイトラの方を見たものの、その後は流れる景色の方へ目を向けた。ノイトラはさっきから、横目でなまえの可愛らしい表情を盗み見ているというのに。

 「肉入ってたら何でも食いてえ気分だわ」

 重ねてノイトラは言った。
 肉が入っていれば、本当に何でも良かった。これから行くお店はカフェだけれど、ランチメニューにハンバーグか、グリル系のものがあるだろうと踏んでいた。
 なまえはそれを聞いて、またくるりとノイトラの方を向いた。

 「それさあ、挽肉が少ししか入ってなくてもお肉にカウントされる?」

 そこまで考えた事は無かった。
 言われてみれば確かに、挽肉が少しでは肉と呼べない。呼ぶわけにいかない。

 「あー、それ割合によるわ」

 そうだよね、となまえは頷いた。

 「チャーハンはお肉?」
 「入ってる肉がデカければ肉だな」
 「角煮がゴロゴロ入ってるやつ、あるもんね」
 「それ」

 さすがなまえである。ノイトラの考えていた肉っぽい炒飯は、まさにソレだ。

 「じゃあ、ラーメンは?」
 「チャーシュー入ってっから肉」
 「え、ラーメンって、チャーシューの割合少なくない?麺の方が多いよね?」
 「や、チャーシューには手間かかってっから」

 チャーシューはラーメンの華だ。アレがなくちゃ始まらない。ノイトラは、たまに自分がラーメンを食べたいのか、チャーシューを食べたいのか、分からなくなる時がある。
 この話に関しては、テスラも「分かります」と頷いていたから、男の大半はこの状態にあると言っても、過言では無い。

 なまえは楽しそうに、ノイトラに質問を続けた。
 
 「なるほどね。餃子は?」
 「余裕で肉」

 ここでノイトラはふと思った。
 これから行くのはカフェだ。狙うはカフェのオシャレなランチプレート。だが、なまえからの質問は、ほとんどが中華系のメニューだ。

 もしかして、なまえは中華が食べたいのだろうか。次に酢豚は?と言われたら、かなり怪しい。

 「じゃあ、酢」
 「や、お前さあ」

 なまえの言葉に被せてしまった。しかしノイトラは引き返さない。

 「え、なに?」
 「もしかして、中華食いてえの?」

 もし中華の気分だったらどうしよう。
 道中の細い道の先に佇むであろう町中華にでも飛び込むか。それか、頑張って今から、美味しいお店を探してあげようか。
 大好きな彼女のご希望とあれば、あのノイトラだって、少し文句を垂れながら従うつもりだった。
 なんなら、今から中華街なんて場所に車を走らせたって良い。なまえがそう言うのなら。

 しかし、なまえはあっさりと否定した。

 「え、べつに」

 あまりの落差に、ノイトラはアクセルを踏み抜きそうになってしまった。

 「は?」
 「え?逆になんで?」

 不思議そうに、なんでと言われても。
 ノイトラは「なんとなく」と口篭って、大きな交差点を通り抜け、側道から高速道路に乗った。

 「高速は快適だよね」
 「クソ渋滞が無けりゃな」
 「確かに」
 「今日は空いてんじゃね」
 「やったね」

 ドライブは、続く。



 
 湖畔には、菜の花が咲いていた。
 駐車場から湖に向かって敷かれた遊歩道がある。その両側には菜の花畑が広がり、湖までずっと続いている。風が吹くたび、菜の花が波のような音を立てて揺れる。
 遠くの湖面は、風に揺られて細波を立てる度にキラキラと輝く。
 人々の楽しげな声は空高く響き、時折吹き抜ける風が春の訪れを告げていた。

 誰もが菜の花に駆け寄り、楽しげに笑っていた。はずなのだけれど。

 「キッツ…」

 久し振りの直射日光に晒されて、ノイトラは萎れかけの花のようにクタッとしていた。運転中もガンガン日光を浴びてしまって、元気やら気力が干涸びてしまったらしい。
 相反してなまえは、菜の花畑や湖に目を奪われて、子供のようにウキウキしていた。勿論、隣でへろへろになっているノイトラに寄り添って、大人しくしているけれど。

 「大丈夫?」
 「酒飲まねえと無理」
 「可哀想に」
 「思ってねーだろ」
 「思ってるよ。ほら、とりあえずお店入ろうよ。日陰だよ」

 ノイトラの大きな手を引いて、なまえはお目当てのカフェへと入る。

 店内はテレビで見た通りオシャレで、あちこちに観葉植物と間接照明が置かれている。アンティーク風のインテリアに囲まれ、落ち着いた雰囲気だ。店内に入るとすぐ正面にある、開放的な窓が印象的だった。

 2人が通されたのは、北側の窓際の席だ。大きな窓の向こうには、湖が一面に広がっている。

 「良い席でよかったね」

 なまえは嬉しそうに笑って、ノイトラにメニュー表を差し出した。いつもなら、これはノイトラの仕事だけれど、出遅れてしまった。
 2人でメニューを覗き込むと、ほとんど同時に「あっ」と声が重なる。

 「俺コレにするわ」
 「私、これにする」

 メニューが決まると、ノイトラはすぐに店員さんを呼んだ。
 セットのドリンクと、デザートを選ぶと、ノイトラは椅子にダラリと背を預けた。
 メニューを決めただけで一仕事を終えたような気分だ。このままビールを飲みたい気分だ。飲まないけど。
 辺りを見渡せば、どこのテーブルも女ばかり。あちこちから聞こえる声は甲高い。カップルも何組か居るけれど、ノイトラのような雰囲気の男は少ない。
 というか、居ない。どの男の人も、このカフェに馴染んでいる。服のデザインがナチュラルな感じで、小綺麗なアースカラーを纏っているではないか。多分、女物の雑貨屋にも堂々と入れるタイプの男達だ。

 ノイトラだけが、なんだかちょっと違う気がした。

 「…メス、多いな」
 「カフェだからね」
 「カフェはメスの縄張りかよ」
 「そうだね」

 うっすらと感じていたけれど、やはりノイトラはこの空間で浮いている。明らかに、浮きまくっている。
 そう自覚した途端、急に居心地が悪くなってしまった。無駄にスマホを見たり、意味もなくソワソワしてしまう。チラチラと周りを見ては、手元に視線を落とす。
 流石になまえもこの様子に気付き、「どうしたの?」と聞いた。懺悔でもするような気持ちで、ノイトラは小声で言った。

 「なんか、俺、浮いてねえ?」
 「…浮いてるね」
 「マジで?」
 「うん。超浮いてるよ」
 「だよなァ…」

 そんな事かと言わんばかりに、なまえは笑った。

 「ちなみに、なんだけどね」
 「あんま怖え事、言うなよ」
 「ノイトラ、今のアパートでも浮いてるからね」
 「マジで?」
 「マジで」

 これは、ノイトラもうっすら自覚していた。
 今、2人が住んでいるのは都心から少し離れた地域だ。大きすぎず、小さすぎないアパート(鉄筋造りなので、正しくはマンションだけれど)の一室を借りている。治安も良く、近所には古くからの商店街もあり、暖かさの残る素敵な街だ。

 ただ、半グレ組織の幹部のような雰囲気を持つノイトラは、明らかにそのアパートから浮いていた。
 なんなら、その地域から浮いていた。駅を降りた瞬間から違和感の塊だ。

 しかし、これには訳があった。
 半年くらい前、2人は都心のど真ん中、新宿のタワーマンションに住んでいた。新宿はノイトラの街と言っても過言ではない程だ。むしろ、新宿がノイトラを産んだと言っても過言ではない。いや、これは言い過ぎだけれど。
 そこでのノイトラは一切浮かなかった。街に溶け込みながらも、周りとは明らかに一線を画して目立っていた。ノイトラはカッコいいので、どこに行っても目立つのは定められた宿命のようなものだ。

 さて、何故2人がその土地を離れたかといえば、2人の住むマンションで、とある事件が起きたからだ。

 それも、立て続けに。

 最初は同じフロアの4軒先の家に警察が入った。痴情の縺れで刃傷沙汰だとか。もちろん現場は同じフロア。
 それはお気の毒にと思っていると、今度はその隣のお宅にも警察が出入りしていた。
 どうやら住人は死体遺棄の犯人らしい。これはちょっとしたニュースにもなった。しかも、遺体の一部をこのマンションに持ち込んでいたとか。

 流石にノイトラも家の前に塩を撒きたくなった。

 嫌な偶然が続くものだと思っていると、更にその隣で不審死があった。どうやら麻薬のオーバードーズらしい。
 これが、ノイトラの2軒隣の話だ。
 まるで目に見えぬ魔物が、一軒ずつ家を巡っては災いを齎らすようだった。しかも、段々と家に向かって凶事が近付いてくる。
 フロアは常にガサガサと嫌な音が響いていた。なまえもノイトラも、ひどく不気味に思っていた。

 此処を区切りに、凶事はしばらく止んだかと思われた。

 平穏な夜が続いたのも束の間。今度は家の真向かいが突然引っ越した。噂によると、家主が交通事故で亡くなってしまったとか。更に負債が発覚して、マンションを売り払わざるを得ないらしい。

 あまりに続けて不幸が起きるので、しばらく住まいを移すかと考えていると、警察が家のチャイムを鳴らした。

 隣の住人が、自殺していたと知らされた。亡くなったのはしばらく前で、発見されたのは最近だと言う。
 ついに家の真向かいと、隣で不幸が起こった。
 次は、ノイトラとなまえの番かも知れない。

 ノイトラとなまえは、逃げるようにマンションを飛び出して、この土地に住まいを落ち着けたのだった。

 「また戻るか?あっちのマンション」
 「…え、戻りたい?」
 「や、まだ無理」
 「私も。今度お祓いして貰ったら戻っても良いかもね」
 「俺あそこなら浮かねえんだけどなァ」
 「それはね。でも、良いじゃん。浮いてるって事は、他の人よりカッコいいって事だよ」
 「お前テキトー抜かすなよ」

 褒められた時、ノイトラは照れてしまう。だからつい、こうやってツンケンと返してしまう。

 「バレた?」

 多分だけど、なまえも同じ気持ちだった。つい普通に褒めてしまって、そしたらノイトラが照れたので、なまえも釣られて照れてしまい、大袈裟にイタズラっぽく笑うのだ。

 「ふざけんなよ」
 「でも、カッコいいってよく言われるでしょ」

 ね?そうでしょ?と、輝く瞳を向けられると、そのまま丸め込まれるような気がして、返事に詰まった。なまえの瞳の奥には、とびきり可愛い魔物が潜んでいる。これに魅入られてはいけない。そうなれば最後で、男は大好きな女の虜だ。
 まあ、既に半分くらい手遅れだけど。

 適当に濁しておくか、と考えていると、なまえはパッとノイトラから瞳を逸らした。
 視線の先には、美味しそうな匂いを漂わせたランチプレートが。

 「お待たせしました。サラミピザのお客様」

 ノイトラは黙って手を挙げた。店員さんは「熱いのでお気をつけ下さい」と言いながらピザの乗った大きなお皿をテーブルに乗せた。
 表面のチーズは湯気を立てながら、ジワジワと油を弾く。サラミの端はカリカリに、薄い生地の耳はパリパリに焼けている。ノイトラは、こういう薄い生地の、焦げる手前くらいの焼き加減のピザが好きだった。

 「美味しそうだね」
 「やべえな」
 
 次に、なまえの頼んだハンバーグセットが届いた。添えられた小さなキッシュや、色鮮やかなサラダが眩しい。
 
 「うわあ、美味しそう」
 「コレで不味かったら傑作だな」
 「逆にね」

 いただきます、と手を合わせて、いざ実食。
 ノイトラの求めていた肉とは、のこカリカリでジューシーなサラミだ。チーズが絡んで、トマトソースとの相性も抜群のコレだ。
 セットドリンクのコーラを流し込めば、またピザが欲しくなる。付け合わせのポテトも、カリカリホクホクで手が止まらない。

 ふとなまえの視線に気付いても、ノイトラは食べる手を止めない。

 「何だよ」
 「そのピザ、お肉の括りなんだね」
 「当たり前だ。サラミ、マジでうめえ」
 「よかったね。ハンバーグもねえ、すっごく美味しいよ」
 「良かったな」
 「うん」

 なまえは、「おいしい」と目を細めた。あまりの可愛らしさに、ノイトラの胸の奥がギュンとした。
 さっきは萎えてしまったけれど、やっぱり遠出は楽しかった。今まで繰り返した遊びとは違うけれど、こういう緩い遊び方も結構好きだった。

 「ねえ、ちょっと先にロープーウェイあるって」

 ロープーウェイ。
 あれって、何のために乗るのか。多分、金儲けのためのアトラクションだろうとノイトラは踏んでいる。木と山しか無い観光地で、観光客からお手軽に搾取できる悪魔の装置だ。
 企業のそういう思惑には、絶対乗りたくなかった。

 「乗らねえぞ」
 「乗ろうよ」
 「乗っても山とか木しか見えねえだろ」
 「良い景色が見えるよ」
 「所詮山と木だろ」
 「でもほら、タワマンの最上階より高いかもよ」
 「じゃスカイツリー行くか?」

 全否定である。なまえは可愛く拗ねた。

 「もお、つまんないなあ」
 「つまんなくねえだろ」

 なまえの提案を全否定したものの、ノイトラはご機嫌だった。
 大好きななまえとお出かけ。楽しくない訳がない。例えこの後、土砂降りに降られようが、帰りの道でとんでもない渋滞に巻き込まれようが、文句を垂れるだろうけど、楽しいはずだ。
 そもそも、ロープーウェイなんか乗らなくても、既にとっても楽しいかった。絶対口にはしないけど。

 なまえはストローでジュースを啜ると、落ち着いた表情を浮かべていた。

 「まあ、それはそうだよね。今も楽しいもんね」

 ギクリと肩が跳ねそうきなる。勝手に心を読まれた気がする。なまえにそんなエスパーみたいな力は無いけれど。

 「まあって何だよ」
 「まあって感じの事だよ」
 「説明になってねえだろうが」
 「ねえ、サラミのピザ、ちょっとちょうだい」
 「なまえ、何でも許されると思うなよ」

 舌打ちをしながら、ノイトラはどっさりとサラミが乗っているピザをなまえに食べさせた。


 デザートまで平らげると、2人は湖畔でのんびりと過ごした。
 ベンチに腰掛けて、テイクアウトの抹茶ラテを飲んでいると、このまま眠りたくなる。毛布の貸し出しがあれば良いのに、と思ったりした。
 でも、よく考えたら、ノイトラは誰かの使った毛布を使い回すなんて気持ち悪くて無理だったので、何も思わなかった事にした。

 湖ではアヒルさんボートが泳いでいた。楽しそうな親子連れや、友達同士、カップルが必死にボートを足で漕ぐ。
 アレに乗ってみたい気もするけれど、絶対乗りたくなかった。男のプライドってヤツが、あの可愛らしい見た目のボートを拒否していた。
 なまえにこんな事を言えば乗ろうと騒ぐのが目に見えているので、黙っていた。沈黙は金なので。

 「…帰るか?」
 「うん。そうしよっか」

 なまえも湖畔を見つめながら、何か考えていたのだろうか。聞くまでもないけれど、少し気になるのも事実だった。
 でも、沈黙は金なので。
 日が傾き始める前に、2人は車に乗り込んだ。




 「なまえ、この干瓢どうすんの?」

 テーブルに広げられたのは、帰りのサービスエリアで買ったものだ。特産品が並んでいて、つい楽しくなってカゴにたくさん食べ物を放り込んでしまった。
 だから、何故か干瓢がある。これは面白半分で買った物だ。

 「ああ。それ、あげる。ベルトにして良いよ」
 「しねえわ」

 確かにベルトに出来そうな長さだった。干した干瓢が折り畳まれて、ビニールに詰められている。これを水で戻さなければ、確かにそういう目的で使えそうだった。

 「うそうそ。おつまみ用のサラダに混ぜようかなーって」
 「あっそ」
 「楽しみそうな顔してるじゃん」
 「してねえわ」
 「素直になりなって」

 なんだかんだ、家が1番落ち着くのだ。ノイトラとなまえはテーブルに向かい合って、さっき買ったヨーグルトを食べる。

 「うま」
 「美味しいね」
 「今日食ってばっかだな」
 「いつもの事じゃん」
 「太りたくねー」
 「もう細いじゃん。ていうか、食べても太らないじゃん」
 「中年になったら一気に来るらしいぜ」
 「それ怖いね」
 「な?」

 多分、ノイトラは一生太らないタイプ。それでも、周りから中年で一気に来ると言われると、流石に一抹の不安を抱えてしまう。
 なまえは、ノイトラが太るのは杞憂だろうと思いながらも、同調しておいた。しかし、そんななまえの心中をノイトラが知る由もない。

 ヨーグルトを食べ終われば、晩御飯の時間だ。なまえは鉄のフライパンで買ってきたベーコンを焼く。
 ノイトラはテーブルの上を拭いて、コーンスープにお湯を入れる。今日は軽めの晩御飯。
 可愛らしいスープカップはなまえの趣味。北欧っぽいデザインは、確かにノイトラも嫌いではない。本当はノイトラは食器なんて、数枚あれば良いレベルなのだけれど。
 なまえが嬉しそうに「このデザイン、可愛いよね」と言うから。その表情が好きだから。こういう無駄に凝ったデザインも、悪くないと思えるようになったのだ。

 スープは簡単に溶けて、ノイトラは毎回軽い違和感を覚える。

 「この粉、昔より溶けやすいよな」

 コーンスープといえば、必ず溶けない部分があった。粉が固まって、スプーンや器の内側に張り付いている。あの厄介な部分が、全く無い。
 昔はコーンスープといえば、あの忌々しい塊が必ず出来たというのに。

 「それ、いつの話してるの?」
 「ガキの頃」
 「大昔だあ」
 「そこそこ最近だろうが」

 小さく笑うなまえの背中が揺れていた。ちょっとツボに入っているらしい。失礼な。

 フライパンからは油の跳ねる音がする。良い香りが漂う。適当に見繕ったお皿をなまえに渡すと、手持ち無沙汰になってしまう。
 ノイトラは、テレビのCMをチラリと見た。



 なまえは焼いたベーコンと一緒に目玉焼きを作っていた。晩御飯を作っているはずなのに、朝ご飯みたいになってしまったけれど、仕方ない。と、モゴモゴ言い訳をしていたけれど、ノイトラはそれよりも大変な事を知ってしまった。(そもそも、飯は作ってもらえるだけで有難いとノイトラは思っている)

 テレビのCMが、素敵な番組を紹介したのだ。
 
 「ヤベェ」

 そう言いながら、ノイトラはなまえの手からお皿を奪うようにして、テーブルに並べた。
 ノイトラは嬉しくても、ムカついても、まずは一言目に「ヤベェ」だった。声のトーンや言い方で変わるけれど、大体がコレ。本人は気付いていない口癖だ。

 「どうしたの?」
 「ヤベェ、特番でオトナ帝国やるってよ」
 「うっそ」

 クレヨンしんちゃんのあの名作、オトナ帝国が放映されるらしい。
 これはノイトラが大好きな映画だ。何回も見たし、何回見てもジーンと来る。なまえも映画は結構好きらしく、瞳を輝かせた。

 「これ見る時、部屋暗くしてさあ、ポップコーンとコーラ飲みたいなあ」
 「アリだな」
 「アリだよね」

 こうなれば夜遅くに買い出しに行くのはノイトラのお仕事。本当はなまえと一緒に出掛けたいけど、万が一の事があったらいけない。メスは家で鍵かけて、キーチェーンまでかけて、大人しく待ってて欲しい。

 「すっごい楽しみになってきた」

 いただきますと手を合わせれば、朝ごはんみたいなディナータイムの始まり。美味しそうな匂いに包まれた食卓は、飾られた花に見守られている。

 「オトナ帝国って、すごい泣けるやつだよね?」
 「なまえは泣くヤツ」
 「いや一緒に泣いてよ」
 「俺が泣いたらキメェだろ」
 「ふふ」
 「笑うな」

 毎日このくらい楽しければ良いのに。仕事なんか知らねえと言いたい。なまえと毎日遊べたら良いのに。

 「あ、ベーコンおいしいね」
 「値段高えだけあるわ」

 特産のブランド豚のベーコンだという。ノイトラもなまえも、美味しそうな物にとっても弱い。即買ってしまったが、大正解。

 「ねー、ご飯食べてる最中だけどさ」
 「クソの話か?」
 「ちょっと!」
 「ちげえのかよ」
 「今ご飯食べてるけど、この後のポップコーンが楽しみって話!」
 「食い意地張りやがって」
 「ノイトラ、サイテー」

 残念ながら男という生き物は、好きな女の子に叱られるのが、結構好きだったりする。
 というか、ちょっと怒った顔が可愛いなまえがいけない。むしろ、悪いのはなまえ。ノイトラはそう思い込む事にしている。

 「楽しみだなあ。映画とポップコーン」
 「まあまあな」
 「まあまあって何よ」

 口ではこう言いながらも、時計の針が進むほどに楽しみが膨れる。

 晩御飯の後、ノイトラは1人で買い出しに出かける。夜の冷たい風に吹かれると、まだ微かに残る冬の匂いが鼻先を掠めた。

 家に戻ればなまえがベーコンの残りの油で、チーズをカリカリになるまで焼いていた。最高の女だ。ノイトラはポップコーンもコーラも手放して、なまえに飛び付いた。

 家に帰った時点で、映画の予告編を超えていたなんて。
 なまえはニヤニヤと笑って「最高でしょ」と言った。その通りだ。

 「映画、もう始まるかな?」
 「まだ。あと6分」
 「よし、フライパン洗っちゃうね」
 「あ?それ俺やるわ」

 なまえからフライパンを奪って、ノイトラはサッサと熱湯で洗う。

 「ありがと」

 しおらしくそう言われると、照れてしまう。黙って頷くと、なまえはテレビの前でポップコーンとチーズとコーラと、その他諸々、お菓子を用意していた。

 「こんなに食う?」
 「いや、食べたくなるかもなって」
 「…確かにな」

 ソファにどっかり腰を掛けて、寝室から持ってきた毛布にくるまって、2人は映画を楽しみに待つ。

 「なんか今日、すっごい楽しくない?」
 「締めの映画まで完璧だよな」
 「毎週こうなら良いのにね」
 「え、俺毎日コレが良い」
 「あー、確かに」
 「な?」

 映画が始まると、ノイトラはなまえにぴたりとくっ付いた。彼女の華奢な肩に腕を回し、さらさらの髪の毛に頬を乗せた。
 なんだかんだ、なまえに引っ付いていると落ち着くのだ。
 ノイトラは服越しに伝わる柔らかい熱に絆されて、映画もそこそこに儚い夢を見た。

 ふとテレビの音に起きると、なまえも隣で寝息を立てて眠っていた。時計の針は深夜を指し示している。映画はとっくに終わってたらしく、深夜の際どいバラエティが映っていた。
 眠るなまえの顔を見ていると、あと少しだけ、と思うけれど、無理矢理起きる事にした。ついでになまえも起こして、夢現のまま、シャワーと歯磨きを済ませる。

 「なんかさあ、夢見てた気がする」

 ベッドに潜りながら、なまえは言った。既に瞳は閉じられている。
 そういえば、朝なまえに夢の内容を聞こうと思っていたのに忘れていた。

 「何の夢だよ」
 「……忘れちゃった」
 「何だそりゃ」

 沈黙の後、穏やかな寝息が寝室を包む。
 真夜中に見る夢は誰も覚えていないけれど、どんな映画や小説より、ずっと素敵なんだとか。起きたくなくなる程だから、この時間に見る夢は忘れてしまうらしい。

 目蓋の裏で、美しい景色が浮かんでは消え、淡い夢が泡のように膨れる。
 明日の朝のアラームが、夢の終わりを告げるまで。


(おわり)

長くなった。
幸せな夢なら醒めず、現実に戻らない。


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