「問5、ノイトラ」
「…」
数学の授業中、ノイトラが当てられた。
授業なんて何一つ聞いていないので、分かるわけがない。
分かるわけがないけれど…。
「オイ、」
「へ、何…」
ノイトラは前の席の男の子に声をかけた。
それから教科書の数字をシャーペンで叩きながら「これをコッチの数字で割ってよォ」と解き方が合っているか確認した。意外にも全て当たっていたので、前の席の男の子はウンウン頷くだけだった。
それから少し計算して、ノイトラは答えを導き出した。
「最大値16」
「正解。次から解き方は先生に確認しても良いぞ」
「うぃーす」
ノイトラが席につくと、前の方からキラキラした視線が投げかけられた。なまえだ。
ノイトラくん、すごい!と言わんばかりの表情だ。相変わらず可愛い奴め。
ニ、と笑うとなまえも同じように笑い返してくれる。
「イチャついてんじゃねーぞ」
「羨ましいか?」
グリムジョーがうんざりした面持ちでノイトラを見やった。羨ましい訳ではない。調子に乗っているノイトラがシンプルにうざったいだけ。
調子乗んな、と奴の足を軽く蹴るけれど、嫉妬は醜いぜと鼻であしらわれてしまった。
こりゃあ重症だな。
グリムジョーは隣の奴を視界に入れないようにして、一応テストに備えて真面目に授業を聞くことにした。テストの結果によっては、怖い怖いお母さんにすごーく怒られてしまうので。
ノイトラは放課後、職員室に提出し忘れていたプリントを出してきた。
その帰りのことだった。
廊下には体育の岡崎先生と、たまに見かけるどっかの部活の外部顧問の図体のデカい男が連れ立って歩いていた。
スゲェ頭してやがる…と横目でその外部顧問を見ながら、すれ違う。
パチ、とその男と目が合ってしまった。
鳥肌が立つような、嫌な予感がした。
「…お前、一年坊主か?」
「なんだテメェ」
ノイトラはその男にガッチリ腕を掴まれてしまった。男に触られるのは頗る不愉快なもので、自然と眉間に皺が寄った。
「俺は剣道部外部顧問の更木剣八だ」
「…そりゃどうも」
「岡崎先生、コイツ借りて良いですか?剣道に向いてそうだ」
剣八は岡崎先生に気安く声をかけた。
同世代のオジサン達はすぐ仲良しになるのだ。
「あー、どうぞどうぞ。お好きに」
「オイッ許可出してンじゃねえよ!クソッ!バケモンか!?この馬鹿力が!」
ノイトラは剣八に掴まれた腕を振り解けない。振り払おうとしても、分厚い手のひらはびくともしない。
今までこんな奴に会ったことが無い。
喧嘩に負けた事がないノイトラだったが、こんなヤバい奴は初めてだった。
「細い割に力があって良いじゃねえか。鍛えてみてえんだよ、お前みたいなのを」
「興味ねェよ!離せよ、オイ!」
「はは、威勢が良いな」
剣八は楽しそうにノイトラをグイグイ引っ張ってゆく。
変なのに気に入られちまった!いくら抵抗しても、とても敵わなかった。
誰でも良い、助けてくれッ!
ノイトラはこんな時、グリムジョーの顔を思い浮かべた。
「あれ?ノイトラくん」
「なまえ!」
「…」
可愛い女の子の声で、剣八はつい手を離した。誰かさんを思い出してしまったんだな。
その隙にノイトラは一目散に逃げた。小さいなまえの後ろに、デカい図体が隠れる。
こんな時は戦略的撤退だァ!
「逃げンぞ!」
「わっ」
ノイトラはなまえを抱っこして逃げ去った。愛の逃避行だろうか。
取り残された剣八と岡崎先生は肩をすくめて笑っている。
「振られましたね」
「ああ。全力でフラれちまったぜ」
剣八は、不思議に暖かい視線をノイトラの背中に注いでいる。
なァんだ、楽しそうにしてるじゃねえか。
そう言いたげな眼差しである。
抱っこされてしまったなまえは降ろして、と頼み込んだものの、必死な形相のノイトラに聞き入れてもらえる訳もないので、途中からジェットコースター感覚を楽しんでいた。
辺りに人がいなくなった所で、ノイトラは息を切らしながらなまえを降ろした。
せっかくコイツを抱けたってのに、何一つ堪能出来なかったのが悔しい。
「…なんか、剣道部に入れられそうになった」
ノイトラは言い訳するように、ポツリと漏らした。
「すごーい!スカウトだよね?ノイトラくん、強そうだもんね」
「そうかァ?」
「だってノイトラくん、運動神経良いし」
すごいすごいと瞳を輝かせるこの子に癒されてしまう。
ノイトラは彼女の髪の毛を梳きながら、優しく聞いた。
「…この後暇か?どっか行かね?」
「あのね、今日テスト勉強しようと思ってて」
一瞬、彼女の髪を梳く手が止まった。
「…あー…ちょーど俺もそんな気分なんだよ。おし、ファミレス行こうぜ」
「ほんとに?ノイトラくん勉強嫌いって言ってたのに?」
「俺もたまには…やる気出るっつーか…」
嘘だぁと笑われてしまう。つい居心地が悪くて小さく「うるせえ」と返すくらいしか出来ない。
「私は真面目にやるからね」
「…俺だって真面目にやるっての」
1時間後。
ノイトラは真面目に勉強出来なかった!
ドリンクバーを全種混ぜたり、YouTube見たり、ソシャゲ進めたり、歴史上の人物に鼻毛とかヒゲを生やしまくっていた。
一方、なまえは綺麗にノートをまとめては問題集を解いて丸付けをしている。
真面目だなあ…。すげえなあ…。
ノイトラはじーっとなまえの柔らかそうな髪の毛や、伏せられた長い睫毛を見つめていた。
「なあに?ノイトラくん」
「…真面目にやってンなって思ってた」
「ふふ。わたし、えらい?」
「クソ偉い」
彼女は一区切り付いたのか、シャーペンを置いてやっと顔を上げた。
「でもノイトラくんさあ」
「んだよ」
「頭良いよね」
「それ、嫌味かァ?」
「違うよ」
なまえは真面目な顔をして、ノイトラにこう語った。
「ノイトラくん、授業中全然話聞いてないのに、当てられたらちょっと考えてすぐ答えるでしょ」
「誰だって考えりゃあ分かンだろ」
「私はそういうの全然だめだから、ノイトラくんはすごいなって思うよ」
「そォかよ」
今度は真正面から褒められちまって居心地が悪い。なまえは最近気安くなったのか、ノイトラの方に少し身を乗り出してきた。
「ねえ、その全部混ぜたやつ美味しいの?」
「…試すか?」
ノイトラは、さっき自分が剣八にされたように、彼女の腕をガッチリと掴む。
身を乗り出してきたのはそっちだもんな。この男が彼女を逃がす訳がない。
「やっ、いや…大丈夫」
「遠慮すんなよ。ホラ、うめェから」
「いっ…」
嫌々と頭を振るなまえの唇にコップ当てる。
そのまま傾け、「飲まねえと制服にシミ作る事になるぜ」と脅せば彼女は意を決して唇を微かに開けた。
すかさずそこへ謎ドリンクを流し込む。
「変な味するうう」
「だろ?」
果たしてあの日の勉強会に意味はあったのか。
ノイトラは何も対策などせず、テストの日の朝を迎えた。
「よお、なまえ」
「ノイトラくんおはよ。勉強した?」
「少しな」
「えっ、勉強したんだ!」
「驚いてんじゃねえよ」
ノイトラがなまえの頭を撫でようとした時、教室の入り口に嫌ァなピンク色の頭が見えた。
「…ザエル、何しに来た」
「やあノイトラ。安心してくれ。君に用事はないよ」
ザエルアポロ・グランツ。
この高校の特進クラスのいけ好かない野郎だ。
合同授業でたまに会うくらいだが、ザエルアポロもノイトラも、何故か席が近くなる事が多かった。そうすると気付けば下らない話を交わすうちに、あ、コイツなんか無理だわと確信し、今では互いを罵り合うような仲になってしまったのだ。
奴はノイトラを嘲笑うようにして目の前を素通りし、なまえに向き合った。
「なまえちゃん、これ君のだろう?昨日間違えて持って帰ってしまったみたいなんだ、ごめんね」
「あ、そうだったんだ。普通に落としたと思ってたの。むしろありがとう!」
ザエルアポロはなまえに蛍光ペンを差し出す。まるで、愛おしいものでも見るように、うっとりとした視線を彼女に注いでいる。
なまえはそんな事にも気付かず、暢気にペンをポケットにしまった。
「…あ?ザエルお前、なんでなまえのペンなんか…」
「おやおや、そんな怖い顔をして…何か問題でも?」
「さっさと答えろ」
「昨日の日曜日、彼女とちょっと勉強会をね」
「ハァ゛!?」
怒りと衝撃で固まるノイトラを横に、ザエルアポロとなまえは仲良さげに昨日の話を始める。
「ザエルアポロくん、ありがとね。ケーキまで奢って貰っちゃって…」
「ああ、そんなの気にしないで。君さえ良ければ、また勉強会でもしようじゃないか」
「ちょっと待て、お前ら、…」
どういう事だ!
ノイトラは絶句した。
隣のグリムジョーは笑いを堪えるので必死だった。こんなに追い詰められたノイトラ、初めて見た。普段ならザエルアポロの胸ぐらでも掴んでブチギレるだろうが、目の前には可愛い可愛いなまえが居るので、手も出せず、不機嫌な顔を最大限に歪めて、力の込められた拳が、唯々震えている。
「あのね、図書館でザエルアポロくんと会って、そのまま勉強教えて貰ったの」
「そうそう。疾しい事など一つもないよ」
ねえ、なまえちゃん。そう言ってザエルアポロは、勝ち誇ったような笑みを浮かべた。
どうにもノイトラって奴は、男の敵を作りやすいらしい。
日曜日、2人はどう過ごしたのだろうか。
図書館の勉強スペースでなまえは勉強していた。家だとついつい怠けてしまうので、勉強道具をトートバッグに入れて、自習スペースの席についた。
1時間ほど経ち、休憩がてら自販機で何を飲もうか悩んでいると、隣に見覚えのある男の子が立っていた。
「…君、ノイトラのクラスの」
彼は少し首を傾げて、なまえを見下ろした。
「あ、特進クラスの、えっと…」
「僕はザエルアポロ。君は…ああ、思い出した。奴がうるさいからね。
確か、なまえちゃんだったかな?」
ザエルアポロは他所行きの顔で、柔らかく微笑んだ。あんまり女の子を警戒させてはいけないのが信条らしい。
「うん。ザエルアポロくんは、ノイトラくんと仲良しなの?」
「まあ…そんなところかな」
いつも罵り合う仲だけれど。多分側から見れば仲良しにも見えるだろうと適当に返事をしてしまった。
「もしかして、テスト勉強かい?」
「うん。明日からだもんね。…そういえば特進クラスだと、テストの内容も違うよね?」
「まあ…でもあまり変わらないさ。良かったら一緒に勉強しないかい?1人だと張り合いがないだろう?」
そう言われると、断る理由もないように思われた。なまえはノイトラくんの仲良しの男の子なら大丈夫だよね、と安心して、一緒に勉強する事にした。
しかしザエルアポロは、彼女にちょっかいをかけてやろうという下心があった。あの男でも出し抜こうかな。この子、結構可愛いし。
恐ろしい魔の手が、彼女に伸ばされようとしていた。
「…その辺は暗記しか無いね。関連付けて覚えると…ああ、この解説が分かりやすいかもしれない」
「わ、すごい分かりやすいね」
ザエルアポロは、意外と普通に彼女に勉強を教えている。
というのも。解き方を耳打ちしてみたら、彼女の反応が素直で可愛らしくて、勉強の飲み込みも良く、もっと教えてあげたいという世話焼きお兄さんスイッチが入ってしまったからだ。下心は引っ込んで、純粋に彼女とのやり取りを楽しんでいた。
「ザエルアポロくん、ありがとう!テストはバッチリだよ」
「そう言われると嬉しいね」
この笑顔の前で、悪事って働けない。
粗方の勉強が済む頃には、日が暮れかけていた。ノートやら参考書を片付けて、一緒に図書館を後にする。
「家は近いの?送って行くよ」
「バスでちょっとだから大丈夫だよ」
「そう?…僕はまだ君と話し足りないって意味なんだけれど」
「えっと…それは…」
なまえはわかりやすく動揺して、赤面した。
「あそこでノイトラの悪口でも言い合わないかい?」
「…ザエルアポロくん、意外と言うよね」
「まさか!あの男はね、悪口を言われる為に生まれてきたようなものだよ」
「あの、本当はノイトラくんと仲、良くない、の…?」
ザエルアポロは意味ありげに笑うだけで、何も答えなかった。
近くの喫茶店に入り、2人は紅茶を頼んだ。
「さて、あの横暴な男の悪口だがね」
「本当に悪口大会やるの?」
「ふふ、冗談だよ。もちろん君が話したいのなら、構わないけれど」
「大丈夫です…」
「ここでアレの話題を出すのも惜しいしね」
ザエルアポロはいつの間にかケーキまでオーダーしていたようで、なまえの前には紅茶とチーズケーキが置かれていた。
「嫌いじゃない?」
やることなす事、気障ったらしい。
それでもあの甘い瞳で微笑まれると、抗える女の子は居ないだろう。
「甘いもの、好き」
「良かった。可愛い子には、可愛いものが似合うね」
「…それ、ノイトラくんにも言われるんだけどね」
「被ったか…。なんだか癪に障るなぁ。それで?」
「そういうのを簡単に言うって、子供扱いされてるんじゃないかって、不安になって」
「へえ。じゃあ君は大人扱いされたいのかな?」
「おとな…」
「そう。大人」
「…どうなんだろう。そう言われればちょっと違うし…」
うーん、と悩んでいる彼女の眉間を指で突いてやりたい衝動を抑える。彼女は可愛らしくて素直で、愛嬌があって、見てきて飽きない。
ノイトラが彼女を気に入るのもよく分かる。ザエルアポロも既に、彼女に対して良い感情しか持ち合わせていない。だからこそ、悪意と邪心と減らず口の塊みたいなノイトラとこの子を遠ざけてやりたいような老婆心さえ生まれる。
勿論、余計なお節介だというのも心得てはいる。しかし…
「つまりノイトラに対等に扱われている気がしないのが嫌…というのが本音じゃないかい?」
「!それだぁ」
「まあ残念ながら、あの男はいつも何故か偉そうにしているからね…中々難しい問題だ」
「まあ…それがノイトラくんだもんね」
「でもノイトラは嘘はついていないと思うよ」
彼女はどう言う事?と首を傾げた。
「君が可愛いのは間違いない。良く言われるんだろう?」
「え!あ、あの…」
「大丈夫。ノイトラが嫌になったら沢山候補は居るのだから。そうだ、僕も立候補しようかな」
「…ザエルアポロくん、おちゃめだね」
「失敬な。大真面目だよ」
ノイトラの愚痴ならたくさん聞くよ。
こうしてザエルアポロは彼女と連絡先を交換した。
ベキ、とシャーペンの芯が何度も折れた。
答案用紙は所々クシャクシャになり、時折引き攣れたように穴が空いたりしている。
テスト終了のチャイムが鳴り、教室は開放感に満たされていた。
その中で、机の地縛霊と化したノイトラだけが、身じろぎもせず顔を伏せていた。
ノイトラは怒りの形相で中間テストを受け切った。
テストが始まる直前、なまえとザエルアポロの仲の良さを見せ付けられて、焦燥と怒り、悔しさと一抹の寂しさがノイトラの身を焦がした。
それは全て怒りとして発露し、答案用紙が犠牲となってしまったのだ。ノイトラは今燃え尽きて、怒りすら通り越して無我の境地に陥った。
ダメだ、なまえを一刻も早く俺のモノにしないと…。
「生きてやがンのか?」
「ギリ」
グリムジョーは流石に不安になって、声をかけた。すると顔だけが不気味にグリンと起き上がり、青白い顔がこちらを向いた。
「帰りどっか寄るか?」
「…行かねえ。つか、なまえは?」
「さっき仲良し達と帰った」
「そォか…」
こんな時、彼女の連絡先を知っていれば、すぐにでも家まで送るだなんだ言って駆けつけられたってのに。
ノイトラは調子に乗りすぎた自分を少しだけ反省した。そう、あの子、倍率高いんだった。しかもザエルアポロも悪くなくモテやがるし、頭も良けりゃ、やり口もまた巧妙で悪質で…。
「ザエルの野郎、確信犯だよな」
「当たり前だろ」
シメるか…。
ノイトラはやっぱりあの化け物から、剣道でも習えば良かったなと思った。そしたらあのピンク頭の脳天でも叩き割れたかも知れない。
ノイトラの放つ舌打ちだけが、虚しく教室に響いた。
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