リビングの窓から、薄いカーテン越しに外が見える。部屋は影に覆われ、水底に沈んだよう、静まり返っている。
窓の向こうの東の空に、白い月が顔を出している。まるで化け物の目玉だけが此方を覗き見ているような、不気味に青白い、大きな月だ。
すっかり熱を吸って、くたくたになったタオルを手に持ち、エス・ノトはソファで仮眠しているなまえの寝顔を見下ろした。回復した体は随分と軽い。
ソファの近くのラグに腰を下ろし、エス・ノトは答え合わせをするよう、過去の記憶を思い起こした。
これは、きっと君が失った記憶だ。
僕は、君をよく知っているつもりだ。
思い出すのは、たった一つの美しい記憶のかけらなのに、それに連なって息苦しい過去も浮かび上がる。全ての記憶は複雑に絡み合って、良いも悪いも、好きも嫌いも、愛も、憎しみすら、全て平等に記憶の水面に顔を出す。
エス・ノトは、今と変わらず大人しい子供であった。
そして物心が付いた頃には、常に体のどこかが悪かった。毎日学校に行けるはずもない体だった。それでも勉強は出来ていたのだから、級友からは気味悪がられ、化物扱いまでされている始末だった。せめて友達に明るく話しかけようにも、息が途切れる。上手く声も出ない。
休み時間には、机に顔を伏せて寝たフリをするのが精一杯。
世界の輪郭が、暈けているようだった。教室の中はまるで止めどなく揺らめく海の中のようで、濁った水の中では前も後ろも、何も見えない。
どれ程縋る先を探したって、ここは掴む物すら無い水の中だ。みんなが吸える空気を、自分だけ吸えていない気がした。
周りと馴染めなくとも、病弱であっても、何故か身長だけは伸びた。元から細かった指は筋張り、肩のラインは少年らしさを失い、骨っぽく角張った。皮膚を突き破る勢いで手足は伸び、可愛らしい瞳は憂鬱そうに落ち窪んだ。
中学に上がると、病に取り憑かれた身体は、限界を迎えるよう崩れ落ちた。
もう記憶は定かではなかった。苦しいと思った瞬間、意識は途切れた。後から聞いた話によれば、家のリビングで突然倒れたらしい。すぐに到着した救急車に乗せられたらしいけれど、エス・ノトは苦しい記憶以外、何も覚えてはいなかった。
意識を取り戻した頃には、病院の中だった。ロクに息も出来なければ、指一本すらも動かせない。
意識のあるうちは、微かに空気を吸って吐く事しか出来ない。酸素マスクがあっても、空気は薄く感じられた。
死ぬまいと必死に呼吸を繰り返して、意識が明瞭になるにつれて、頭の奥がズキズキと痛む。途方も無い吐き気が込み上げてくると、ジワジワと視界が翳る。呼吸をする度に皮膚が針で刺されるような痛みが全身を走る。激痛に意識が遠のく。
そして、また息苦しさでハッと起きる。これの繰り返しだ。
しかし、悪夢のような闘病生活は不意に終わった。
夢現に、全身が真っ黒な男が見舞いに来た。死神だと思った。終わりだと思った。お迎えかと覚悟するも、その男を見てから体調は急激に回復した。
もしかしたら、神の化身だったのではあるまいか。あれが誰だったのか確かめる術は無いけれど、なんとなく、あの人は今の会社の社長に似ているような気がした。自称全知全能の社長ユーハバッハである。
その後は意外にも順調で、受験の頃にはすっかり回復して、晴れて高校にも入学出来た。親戚からは奇跡だと喜ばれ、特上寿司やらうなぎを出前して盛大にお祝いをして貰った。(脂の乗った鰻はエス・ノトにはキツかったのか、お祝いの後、3日ほど胃腸がダメになり絶食する事となっていた。)
エス・ノトは高校に入ると、ある種の開き直りをして、堂々と1人を好んだ。まだ体も弱かったし、大事にするよう言い付けられており、少しでも教室が息苦しければ、よく保健室に逃げ込んでいた。
保健室は静かだ。
クリーム色のカーテンに囲まれて、天井だけを見上げていると、あの入院生活を思い出す。ゾッとする程の経験であったけれど、教室の喧騒に比べればマシだった。
瞳を伏せれば、心地良い微睡みが訪れる。具合が悪いのも半分は本当であったが、サボりたい気持ちが残り半分。耳にかかる髪の毛にイヤホンを隠して、こっそりと音楽を聴いて眠る。
高校に上がっても尚、ロクに授業は受けずとも、エス・ノトの成績は良かった。出席日数についてはギリギリのラインを保ち、医師からの口添えもあったせいか、教師からのお咎めも無かった。
具合が悪いと言えば、ベッドはいつでもエス・ノトだけの物だった。
ベッドに寝転がれば、空に流れる雲のよう、意識はゆっくりと現実から離れてゆく。
ガタンと音を立てて保健室の扉が開かれ、エス・ノトの意識は不意に現実に舞い戻った。
「あの、すみません」
誰か来たらしい。エス・ノトはパッと瞳を開いて、イヤホンを枕の下に隠した。
「誰か居ますか?」
女の子の控えめな声が、続けて聞こえた。どうやら誰も居ないらしい。そういえば、保健室の先生はこの後2時間くらい居ないとエス・ノトに言い伝えて、会議室に向かったのだ。
カーテンを開いて、エス・ノトはそれを女の子に伝えようとした。
きっと体調の悪い女の子が来たのだろう。さぞ心細い事だろう。自分でも意識していないのだろうけれど、病弱な仲間には優しくしようとしていた。
「あ。ねえ、先生居ないのかな?」
「…」
喉が乾燥して、声が出なかった。
仕方がないので、エス・ノトは一つ頷いた。
「そうなんだ。絆創膏の場所は…知らないよね?」
可愛らしい女の子は、困ったようにエス・ノトに訊ねた。
仮病なので、エス・ノトはのっそり布団から這い出て、勝手に棚から絆創膏を出した。保健室といえば、もうエス・ノトの城とも呼べる場所だ。勝手くらい良く知っている。
絆創膏を手渡された女の子は、びっくりしたように固まっている。
「え、いいの?」
やはり声は出ないので、エス・ノトはマスクの前に人差し指を立てて、ナイショのポーズで答える。その女の子は、笑った。
「分かった。ありがとね」
こうして、2人は秘密の共犯者となった。
笑顔の可愛い女の子は、指に絆創膏を巻きながら、「ありがと。ばいばい」と手を振って保健室の扉を閉めた。
残されたエス・ノトは、振り返さなかった手のひらをじっと見てから、天井に向かって手を振った。
その女の子は体調が悪いのか、保健委員なのか、よく保健室に来るようになった。その声を聴くだけで、「あの子だ」とエス・ノトは伏せていた瞳を開く。
エス・ノトがカーテンの仕切りの中にいる間、その女の子は先生と話したり、友達ともよく話していた。
「私も、大人になったらやりたい事あってさ」
その子は言った。
「何?二股とか?不倫とか?」
「今からでも出来るじゃん。やらないけど」
「まあね」
「じゃなくてさ」
勝手に人の会話を盗み聞きして、エス・ノトは焦ったり安心したり。
「仕事帰りにさあ、カフェとか行きたい」
「ドラマじゃん」
「夢だよね、夢」
なるほど。エス・ノトはごろりと寝返りを打つ。あの子は仕事帰りに、カフェに行くのが夢。
いつも楽しそうに晴れやかな声は、エス・ノトの心に一筋の光を齎すようだった。
また別な日は、その子は先生と話していた。
「先生、私ね」
「なあに?」
「少しだけ、悪い事がしたい」
「あら。先生に内緒でするのよ。そういうことは」
「そうなんだけど、そこまで悪い事じゃなくてね」
「ああ、イタズラみたいな?子供ねえ」
「そこまででもなくってえ…」
「まあ、難しいのねえ」
会話を盗み聞きしたエス・ノトは、「少しだけ」がどのくらいなのか、考えた。
落ちていたお金を交番に届けず、拾うとか。これは少しで済むのだろうか。それとも、授業をサボる、とか。これはあまり悪くないだろうとエス・ノトは結論する。万引は悪いし、詐欺も良くないし。ましてや殺人だなんて、とんでもない。
自分の思う、遊び心の無い「悪い事」の羅列にウンザリする頃、その子は言葉の続きを紡いだ。
「例えば、夜の学校でこっそり、何か…する、みたいな」
「何かって、何?」
「あ、お菓子パーティーみたいな」
「あら、良いじゃない」
夜の学校で、こっそりお菓子パーティー。
エス・ノトでは決して思い浮かばない、少し悪いことだ。
甘くて悪い秘密の遊びだ。なんて楽しそうなのだろうか。
「でも、セコムに気を付けてね」
「そっかあ…」
「そうよ。あと警察ね。ほら、不法侵入だから」
「厳しいなあ…」
2人の話はトーンダウンして終わるけれど、エス・ノトはシーツに顔を埋めてクツクツと笑った。先生が頑なに悪事を制さないのが、後から後からツボに入ったのだ。それを神妙に聞いているあの子だって、少しズレていて面白い。
また、別の日はあの子はお友達と話していた。
「チョコケーキって、チョコもう少し足しても良くない?」
如何にも不満そうに、あの子はこう言った。お友達はピンと来ないようで、返事に間が空いた。
「そう?」
「もっと足したいんだよね…チョコ」
「まあ、言われてみれば…」
「でしょ?」
彼女の持つ夢はどれも可愛らしいものだった。
病院と学校しか知らないエス・ノトにとっては、それが素晴らしく輝いて見えるものだった。
自分では辿り着けない楽しい場所を、彼女は知っている。保健室の味気ない風景すら、少し輝いて見えてしまう。
そして、またエス・ノトが1人の時にその子はやってきた。
「先生いますかー?」
すっかり気安い声のトーンである。しかし、先生は例の如く居ないのだ。エス・ノトはカーテンを開けて、もう少ししたら戻るはず、と彼女に伝えようとした。
「あ、前にも居た人だ」
その子は嬉しそうに、いたずらに笑った。エス・ノトも微笑んでみるけれど、マスクの下の微笑みは届かない。
「先生、もう少ししたら戻る?」
まるで先回りするような質問だ。エス・ノトは仕方が無いので頷いた。髪の毛が頬にかかる。
「この間も居たけど、サボり?それとも、本当に具合悪いの?」
彼女が自分に興味を持っている!
エス・ノトは嬉しさと、緊張にニヤリと笑った。その顔を見ると「あ、サボりの顔だ」と、彼女は笑った。
親近感でも覚えたのか、誰にでも平等に親しくなれるのか、彼女は勝手にベッドサイドの椅子に腰掛けた。
エス・ノトはあの子が近くに来るとは思わず、突然の事に呼吸も忘れる程驚いた。
「先生来るまで、ここで待ってて良い?」
頷いた。頷くしか、なかった。
だが、ここで断れば、エス・ノトはこの子と話すチャンスを、失う。
「ありがと!ねえ、アイス好き?」
アイス。
エス・ノトはアイスを食べるたびにお腹を壊した。
だから怖くてしばらく食べていないし、味なんて、すっかり忘れていた。答えあぐねていると、その子はエス・ノトの無視とも思える反応も気に留めず、「私は好きなんだけどさ」と話を続けた。
「普通のアイスにチョコスプレーかけたり、ハチミツかけたらすっごい美味しいと思うんだよね」
エス・ノトは恐る恐る頷いた。
「クッキー砕いたの乗せたりさ」
楽しそうに彼女は語る。
水に太陽の光が差して暖まるよう、エス・ノトの心もほぐれてゆく。
「この間テレビ見てたら、どこかの海沿いのレストランで、そういうアイス出してたんだよね」
彼女は一方的に語った。それも、とびきり楽しそうに。
大人になったら、駄菓子を大人買いしたい事。遊園地に行きたいだとか、水族館も行きたい事。デートっていうより、好きな人と楽しい事したい、だとか。夜中のコンビニに行くとか、誰かに連れられて図書館とか行ってみたい事。
知らない場所に連れてってもらいたい事。
彼女は、そう語った。
「それは楽しそうだ」と言いたかった。エス・ノトはこの子と遊んでみたいと思った。
いつかこの子を連れて、どこか楽しいところ、学校なんかじゃなくて。会社でも、遊園地でも、どこでもない。ただ道を歩くだけでも、きっと楽しい。
この子と2人で行けば、どこだって楽しいんじゃないかと思えた。
瞳がかち合う。楽しそうに輝く、星を散りばめたような瞳だ。
己の深淵のような瞳とは、違う。受けた光を全て闇に飲み込む、ドロリとした瞳に彼女は、眩しすぎる。
それでも、光に照らされるのは、嫌な気分ではなかった。
「なまえさん、どうしたの?」
「あ、先生!」
惚けるのも束の間。戻って来た先生の声で、向かい合っていた2人の瞳はバラバラの方向を向いた。
なまえ。
エス・ノトはあの子の名前をやっと知った。
「またね!」と手を振って、彼女はカーテンの向こう側へ消える。またね、という言葉が胸の奥で温かい光のように広がった。
小さな興奮に波打つエス・ノトの胸の内は、照らされた水面のように輝いては揺れて、美しい波音を立てている。
なまえ。心の中に引き出しがあったなら、きっと一等美しい紙にその名を書いて、とても綺麗な封筒に入れて、引き出しに大切に仕舞おう。その引き出しの中には、とびきり綺麗な花を入れたり、美しいガラス細工や、宝石で埋め尽くそう。
世界にあまり頓着のないエス・ノトは、この日を境に、少しずつ美しいものや、好きなものを探そうと、重い腰を上げた。
しかし、その日を境に彼女はパタリと保健室に来なくなった。
いくら同じ学年のクラスを渡り歩いても、あの子の姿は見つからない。いくら探しても、何故か見つからない。
本当に体調が悪くして学校を休んだり、進路がなんだとしているうちに、やっとあの子を見かけた。
光の溢れる窓際で、楽しそうに笑う彼女は、まるで別世界の人だ。
無垢な可愛らしさは、小鳥にも似ていた彼女は、空を自由に飛び回り、美しい声を持つ小鳥だ。
それに対して、自分といえば。深海の、もっと下の、泥濘に潜む、声すら持たない魚だ。
たまに彼女を見かけても、エス・ノトは遠くから眺めているだけ。
熱が出てしまった日、保健室のベッドに身を沈めて、エス・ノトは夢現になまえを待った。また、あの子の声が聞こえたら、どれほど救われるだろうか。
地の底へ引き摺り込まれそうな、悪夢の始まりそうな気味の悪い睡魔に襲われる中で、なまえの「大丈夫?」という声を探した。
それでも、あの子は来ない。約束もしていない。よく思い起こせば、言葉すら交わしていないのだから。
いくら耳を澄ませても、保健室はしんと静まり返ったまま、冷たい空気だけが流れていた。
エス・ノトはなまえの面影を追いかけるよう、アイスクリームを食べてみた。
君が言うほど美味しくなかったし、すぐにお腹を下したけど、君が言ったように、美味しいと思えるアイスクリームあるんじゃないかと思って、食べ続け、結局お腹を下し続けた。
あの子が連れてって欲しいと言った図書館にも、詳しくなりたくて、よく行くようになった。あの子に、声もかけられない癖に。
しかも、気付けば奇っ怪なホラー小説ばかり嗜むようになってしまった。こんなんじゃいけない。でも、熱にうなされた日に見る悪夢と、ホラー小説の不気味さは同じ温度をしていた。何故かそれが心地良くて。
僕は光の通らない海の底から、抜けられない。
悪い夢を見るたび、エス・ノトはなまえの声を探した。あの日、胸の奥に宿った光をまた求めていたのだろう。まるで街灯に群がる蛾のようで、嫌になる。
それでも、天地が崩れたような、冷や汗も止まらず、不安と恐怖に押しつぶされそうな時。
記憶の中のなまえの楽しそうな声色だけが、エス・ノトの行く先を照らした。
だから、インターホン越しになまえの声を聞いた時は夢かと思った。ついに、都合の良い幻聴を聞いたのだと思った。
エス・ノトは大人になってからも定期的に体調を崩していたのだけれど、今回はとびきり酷いものだった。あの激務の日々が祟ったのかも知れない。
昨晩は気分が悪いと思って早めに毛布にくるまったのだ。それから程なくして、熱が上がった気がする。悪い夢に魘されるうち、何回も鳴るチャイムに起こされた。そうしてなまえに助けられた。
安心感だろうか。エス・ノトはなまえの落ち着いた声と、柔らかい香りを嗅いでから、今度は天上界へ舞い上がるような心地で、夢に膨れた枕に頭を埋めた。
起きてみれば、全ては悪い夢のよう。あの発熱特有の不快感すら跡形も無く消えて、目の前の安らかな現実だけが残った。
カーテンの向こうの空は灰色に曇っている。月は姿を隠し、空は光を失い、部屋の中は薄い鈍色の膜が張られたようであった。
エス・ノトの立てた僅かな音に、なまえは目を覚ました。
「あ、ごめん…寝てた。ノトくん、平気なの?」
エス・ノトは、ヒラヒラと手を振った。
「良かった」
これを聞くと、なまえは少し涙ぐんだ。泣いてるのを隠そうとする、痛々しい笑顔が暗闇に浮かび上がる。
鼻の奥がツンとする。見せたくないけれど、涙がこぼれ落ちそうだった。
「すっごく心配、したんだけど」
「御免、ナサい」
心の形は分からない。水のように形の定まらない物のようで、捉え所は無い。
それでも、もし心がこの体と同じつくりをしていたら。心に皮膚があるとするなら。心が傷付いて、文字通り血を流すとしたなら。
傷口から、誰かの優しさが痛い程に沁みてくるのではないか。どうしようもない痛みが、エス・ノトの胸を貫いた。
一粒の涙が、頬を伝って流れ落ちた。
答え合わせのよう、なまえとエス・ノトは過去をひとつずつ拾い上げた。
「え、じゃあ私はエス・ノトと同じ高校だったの?」
「ソう」
「うっそ」
「本当」
エス・ノトは思い返す。卒業アルバムに載っているなまえの写真を何回見たことか。フルネームを頭に叩き込み、いつか会った時の為にイメトレだってしていた。本当は出会った瞬間には声を掛ける練習もしたのだ。
「しかも、会社も同期での入社だったとか。もう覚えてないや」
「僕ハ、気付ヰテタケど」
シュテルンシッター社の新入社員は毎年100人くらい居たから、紛れてしまったらしい。そもそもなまえはエス・ノトが同期だという事すら忘れていたし。
同期一覧の中に、なまえの文字を見つけた時。エス・ノトは衝撃と嬉しさで、その場で戻しそうになった。2、3日ご飯も喉を通らなかったというのに。
初めてなまえの顔を見た時、ガッツポーズをして話しかけたかった。でも、なまえが自分を覚えているわけがない。
そう思って後退りした。
なまえは部署を転々としてるし、自分とはロクに関わりのない部署へ配属されるし、会社は広いし、全然会えなかった。
しかし、運命はあの飲み会。
もしかして、となまえは言う。
「あの飲み会も、狙って座りに来たの?」
あの飲み会でなまえを見つけて、エス・ノトは、もう逃げないと決めたのだ。たんまりお酒を飲んで、正気を打ち捨ててなまえの向かいに腰掛けたのだ。
と、こんなカッコ悪い裏側は内緒。
曖昧に微笑んで、エス・ノトはそれを認めた。
なまえは「言ってよ」と骨張った肩を叩いた。
「痛っ。骨折、シた」
「ねえ、今は冗談に聞こえないんだけど」
少しシュンとしたなまえは、珍しく「痛かった?ごめんね」としおらしく言った。
そんな事ないよって言いたいのに。エス・ノトの口からは、最悪な一言が飛び出てしまう。
「…痛カッた。損害賠償請求スる」
最悪だ。切腹して詫びたい。指を詰めて、誠意を示しても良いのに。行動は出来るのに、口だけは素直に動かせない。
何故、こうも不器用なのか。エス・ノトは後悔を腹の中で抱えて俯いた。
「もう、元気じゃん!いつもの調子に戻っちゃってさ」
部屋の中は暗い。なまえはオレンジ色の間接照明を勝手に灯した。眩しさに瞳を細めると、なまえにガクガクと肩を揺さぶられた。
「ねえ、昔の私がやりたかった事、今度一個ずつクリアしようよ。覚えてるんでしょ?」
エス・ノトは頷いた。そして明るく光るスマホを覗き込み、メモ機能に文字を打ち込んでゆく。
「チョコケーキニ、チョコ、沢山カケる」
「え、私そんな事言ってた?」
「言ッテた」
「ヤバすぎ。他は?」
「水族館、遊園地、図書館ニ行く」
「後は普通だね…」
拍子抜けしたなまえは笑った。エス・ノトもつられて笑う。
「じゃあ、それはまた今度だね。そうだ、お腹すいた?お粥とか作ったよ」
身軽に立ち上がるなまえはキッチンへと向かう。エス・ノトはヨロヨロと立ち上がり、なまえを追いかけて、ダイニングテーブルに座る。
「お、食べるね。うどんもあるけど、どうする?」
どうしようか。
ふわりと香る出汁の香りに、エス・ノトは「ドッチも」と欲張って答えた。
振り向いたなまえは、嬉しそうに「欲張りさんだね。仕方ないなあ」と言った。
こうしてエス・ノト無断欠勤事件は、無事に解決した。
なまえの頑張りが讃えられた。彼女はまだ新参者だったものの、チームの中でなまえは信頼を得て、のびのびと実力を発揮している。
一方、エス・ノトは聖文字持ち(管理職)として、出来る限り無駄な仕事を減らせるよう尽力し、働き方改革を行い、部下から大いに感謝された。上からの評価も、少しだけ高くなった。
しかし、そう簡単に残業は無くならない。
「ねえ、ノトくん!なんかデザイン案急遽変えてくれって言われたんだけど!」
「コッチモ、印刷所カラズット問ヰ合ワセが…」
「もしかして、今日帰れないんじゃない?」
「…真逆」
エス・ノトは果敢にそう答えて、ある程度まで仕事を捌くとパソコンの電源を落とした。
それからなまえの背後に立ち、一通り進捗具合を確認すると、一つ頷いて、勝手になまえのパソコンの電源ボタンをギューッと強く押した。
「うわ!ちょっと!強制終了やめてよ!」
「大丈夫」
「冷や冷やするよ、もう!」
「なまえ」
「なに?」
「帰ロう。今日ハモウ、大丈夫ダカら」
この頃、エス・ノトは変わった。ちょっとだけ頼もしくなったのだ。
上長に断言されると、なまえは頷くしかない。荷物を纏めて、フロアの電気も消して、2人は仲良くエレベーターに乗り込む。
「チョコケーキ、買ヰニ行コう」
「今から?」
「今カら」
「まだやってるかな」
残業後だもの、ケーキ屋さんは閉まっていそうだ。もし開いていても、売れ残りの物しかないかも知れない。
それでもエス・ノトは「大丈夫」と静かに言った。
「開ヰテナケレバ、コンビニ、行コう」
「…もしかして、それも私が言ってたこと?」
「マア、部分的ニ、ソう」
「覚えててくれたの?かわいいやつめ」
なまえがエス・ノトを肘でつつこうとすると、華麗に避けられてしまった。
「あっ」
体勢を崩すと、エス・ノトはなまえを鮮やかに抱き止める。その落ち着き払った動きと言ったら。
なんだか、ますます強くなったものだ。
「なまえ、行コう」
エレベーターの扉が開く。差し出される、貝殻みたいに薄くて広い手のひら。その中に真珠がひとつ乗っているような気がした。彼の手の中の、ちいさな宝物。
「うん。行こっか」
私はそれを壊さないように、やさしく握る。
「ねえ、上にかけるチョコってシロップ?それとも砕いたチョコ?」
「…ドッチも?」
「だいぶ甘すぎるかもねえ」
会社を出れば、ビルが立ち並ぶ大通りだ。退勤する人の波が、目の前の歩道を埋め尽くしている。波に攫われてはぐれないよう、なまえとエス・ノトはぴったり寄り添って歩く。
「ねえ、ケーキ屋さんって駅の中にあるよね?」
「多分、有ルト思う」
2人は似たような険しい顔をして、近場のケーキ屋さんを順に思い浮かべる。今の時間までやっているかは分からないけれど、行くしかない。
波間を縫うよう、通りを潜り抜ければ目的地。駅に直結したビルの中の、食品コーナーだ。
さあ、ここからが一番大事な任務開始である。
「じゃあ、二手に別れて捜索ね」
「勿論」
かたく握り合っていた手は解き、軽くハイタッチをして、2人は通りの左右を手分けして探す。
が、中々見つからない。お惣菜、クッキー、お菓子、バームクーヘン、お惣菜、お惣菜、お惣菜。来る方向間違ったかも知れないなと思いながら、来た道を引き返そうと振り向いた瞬間だった。
「あれっ。アンタ、なまえじゃない?」
「わーお。なまえだァ」
バンビーズだ。傍若無人のバンビーズが、それぞれ大量のショッピングバッグを持って歩いているではないか。
先頭を行くバンビエッタとジゼルは、まるで恋人同士のようにベッタリとくっ付いている。
「あっ!皆さんお久しぶりです」
なまえが頭を下げれば、キャンディスは細長い腕を伸ばして「おつかれっ」と元気よく手を振った。
「なまえさァ、今エス・ノトの部隊に居るっしょ」
「はい!楽しくやってます」
そうだったっけ、と少しトーンの落ちたバンビエッタの声が返ってくる。
ミニーニャはバンビエッタとジゼルの間から、可愛らしい顔をにょきっと出してなまえの顔をまじまじと見た。
「もし、そっちが大変だったら、また企画室に戻って来ると良いと思うの」
「!ありがとうございます」
待ってるからねぇ、とジゼルは念を押した。端っこに居たリルトットは大きなKALDIの袋を持ち、中身をガサガサやって「オラ」とお菓子を一つ分けてくれた。
「お前、これ賄賂な。受け取るンなら、戻って来いよ」
「えーっ」
「あ?嫌そうにしてんじゃねえよ」
「嫌では、ないんですけれど…」
握らされたのは、ドライフルーツの入ったチョコのお菓子である。ありがとうございますと言いながら、なまえは遠慮なくチョコを鞄の中に仕舞う。
「なまえさあ、今帰り?アタシらこの後どっか飯行こうかって話しててさ」
「ね、良かったらさ、一緒に行こうよォ」
キャンディスとジゼルは、なまえにロックオン。素敵なお誘いをかけた。しかしなまえは眉尻を下げて「嬉しいのですが、」と口籠る。
「もしかして、アンタ予定入ってんの?」
なまえの表情を見て、バンビエッタは首を傾げた。
そう。そうなんです。大切な予定が、あるのです。
「わかった。男でしょ」
フフンと不敵に笑ったバンビエッタは、なまえにとってドキッとする部分を的確に突く。
「えーっと、なんというか」
「男じゃん。その反応」
「絶対、男だと思うの」
男は、男なんだけど。
上手く答えられずにいると、リルトットは「オイ」と周りの4人の脇腹を強めに小突いた。
「いったぁい!何よリル!」
「アレだ。アレ見ろ」
リルトットの小さい指が、遠くの方を指している。細長い店内の壁際を這うよう、1人の男がゆっくりと此方に向かって歩いている。
「あー、そういう事ね」
「成ァる程」
バンビーズは、5人とも似たようなニヤニヤした笑みを浮かべて「お邪魔しました」と歌うように挨拶をした。
むず痒いような気恥ずかしさに、なまえはモジモジしてエス・ノトを待つ。
奴はバンビーズとすれ違う時、わざわざマスクをずり下げてニィーっと笑った。無論、バンビーズはキャーッと可愛らしい悲鳴を上げて怖がった。
人の波を掻き分けながら、エス・ノトはこちらへ向かって来る。手には小さな白い箱を持っているので、おそらくケーキを買ったのだろう。
「ケーキ、あったの?」
「大発見」
「ねえ、実はね」
なまえは鞄からチョコを取り出して、エス・ノトにチラリと見せた。
「リルトットさんがくれたの。これ砕いてさ、ケーキの上にかけちゃおうよ」
「良ヰね」
「ね!」
ふと隣を見上げれば、瞳が合う。夜の闇を溶かしたような、見事なまでに真っ黒な瞳だ。その瞳を縁取る長い睫毛の影が、頬に落ちている。
「何?」
「ううん。なんでもない」
綺麗だなと思って。こんな事、今更小っ恥ずかしくて言えないので、胸の内にしまっておく。
エス・ノトが歩くたび、艶々とした毛先が踊るよう跳ねた。
髪の毛まで綺麗なんだから、羨ましい。なまえはコッソリその髪の毛を触ろうと手を伸ばしたのだけれど、2人が出口に差し掛かると、強い風が吹いた。
風にさらされた髪の毛はふわりと浮かび上がって、なまえの指先から逃げる。
涼しげに風を受けるエス・ノトは、ゆるやかに瞳を伏せて、髪の毛を風に靡かせた。
まるで、ショートフィルムのワンシーンのようだった。世界の中で一番美しい瞬間を切り取ったとしか思えなかった。
風を受け切ったエス・ノトは、見惚れたなまえを置いてサッサと先を急いだ。綺麗な黒髪を追いかけて、なまえは遅れていた歩みを進める。いくら追っても、追い付けない。気まぐれに振り向いたエス・ノトは、必死に追いかけるなまえを見ると、ニヤリと笑ってまた歩みを進める。
意地悪をされているのに、嬉しくなってなまえはエス・ノトを追いかける。
先を行くエス・ノトが、人の波を縫うよう歩く。それは美しい魚が鰭を靡かせて泳ぐ姿に、よく似ていた。
(おわり)
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