なまえ、早朝出勤である。
朝の早い時間とはいえ、オフィス街に人通りは多い。朝日は遠くのビルに反射して、なまえの瞳を焦がさんばかりに鋭く輝いた。
駅を降りてから、会社までほんの数分歩く間。シャキッとした顔をした人達に囲まれると、なまえまでついついシャキッとしてしまう。仕事の段取りを考えながら歩いていると、隣に黒い影が並んだ。
「あ、おはよ」
「オハヨう」
大の仲良しであり、同僚であり、頼れる上司であるエス・ノトだ。日々の激務で少し元気がないようだ。
「なんか声、ガサガサじゃない?」
「ア゛…ア゛…」
「わざと怖い声出したでしょ、今」
「アはっ」
仲良くなると、エス・ノトは子供みたいな事をしてくる。無表情なのに、どこか楽しげなのが分かってしまうんだな。
2人はアレコレ話しながら、同じタイミングで社員証をピッとやる。ゲートを潜れば戦闘モード。デスクに座ると迎撃開始。メールに電話に社内連携、取引先各所とのやりとりであっという間に時間が経ってしまう。
なまえもエス・ノトも、こうなると戦闘モードから中々抜けられない。
お昼を逃し、14時ごろにデスクで冷えたおにぎりを貪るように食べる。2人とも目が血走っているし、ボソボソ作戦会議をする声色も、殺し屋のソレのよう。
疲れが溜まると、人は少しアウトローな雰囲気を纏ってしまうらしい。
時は流れ、定時後。残業開始である。
カロリーメイトで小腹を満たしながら資料校正。疲れが溜まる。頭がボーっとしてきて、今自分が何をしているのか分からなくなる。地面が沈み、どこまでも深い場所に落ちてゆくような感覚がする。終業後は人がどんどん減り、なまえとエス・ノトだけが取り残される。
たった2人、ぬるい水の中でぶくぶくと溺れる気がした。
ひとつの資料を保存し終わると、なまえはつい席を立って叫んでしまった。
「おわった!」
「今日ノ分ハ、ね」
「それは今、言わないでよお…」
とりあえず、今日の分の仕事が終わったのだ。ドサっと椅子に腰掛け、天井を仰ぎ見る。
「明日から、少し余裕できそうじゃない?」
「然ウダね」
「ノトくんは?まだ仕事残ってる?」
「アト、少し」
「頑張れ」
なまえは気安くエス・ノトの肩を叩いた。
「痛…。今ノデ、骨、折レた」
「うっそ。可哀想」
そう言いながら、なまえは反対側の肩を軽く叩く。
「ア゛アアァ゛ッ」
「うわ!お化けみたいな声」
「痛い……痛ヰヨう…」
エス・ノトはしくしくと嘘の泣き真似までしている。回り込んでエス・ノトの顔を見てみれば、眠そうに目をしょぼしょぼさせて、あくびを噛み殺している。痛そうな顔なんてしちゃあいない。
結局この男も、息抜きにふざけているのだ。
「ねえ、もう帰ろうよ。疲れたでしょ」
「…ア。帰ル前ニ、寄リタヰ処ガ有る」
「どこ?」
パタン、とPCを閉じると、エス・ノトは瞳を最大限に細めて嗤った。
手を引かれてやってきたのは、ビルの外階段だった。事故防止のため、非常時以外は出入りができないよう施錠されている。
しかしエス・ノトは聖文字持ち。つまり管理職だから、ここの鍵だって開けられちゃうのだ。
風がひゅうひゅう音を立てながら、吹き抜ける。
ビルとビルの隙間から、細く切り取られた夜景が見える。街は光の筋になって、どこまでも広がっている。通りを抜ける車のランプが流れてゆく。絶え間なく光は揺らぐ。
闇に沈んだ街は、その輪郭を忘れまいと光を灯しているようだった。
綺麗だとか、すごいだとか、ありきたりな言葉が薄っぺらく感じるくらい、なまえは圧倒されていた。
「ドう?」
ここに来れて嬉しいのを隠すような、不自然に冷たい声色だった。
隠すのが下手なんだから。なんて言うと、奴はきっとヘソを曲げてしまうので、なまえは思ったことをそのまま言う事にした。
「泳ぎたい」
「…何で?」
エス・ノトは戸惑って、上滑りな声を出した。
それとは正反対に、なまえは饒舌に語り始めた。思ったことを飾り立てず、話せるのだから。
そう、エス・ノトが相手なら。
「あのさ、もし、ここが海の底だったら面白くない?」
「別に。面白クナい」
「ダメ。面白い事にして」
「ジャア、然ウヰウ事で…」
視線も合わさず、それでも2人とも欄干に手と顎を乗せて、同じ目線で街を縁取る光を眺める。
「そう。もし、ここが海の底でさあ、あっちの空の上が水面だったらって思うと、なんか楽しくなるんだよね」
「楽シい?随分ト安上ガリだ」
「ちょっと!」
私はまたノトくんの肩を叩く。今度はさっきより強めだ。
「痛、折レテ…」
「折れないよ。折れるわけないじゃん」
叩いたところを摩ってあげながら、なまえは話を続けた。
「だから、この景色見てると、泳ぎたくなる。それにさ、海の底が光ってたらよくない?海の底とか、見た事ないけど」
「ダロウね。海底ナンテ、ソモソモ光が届」
「あと、ノトくん、深海魚っぽいし」
エス・ノトの言葉を遮って、なまえはいたずらに笑った。
彼はジトーっと瞳を細めて、抗議のお気持ちを表明している。怒らせてしまったみたいだ。
「…失礼な」
「ごめんて。褒めてるつもり」
「降格。減給」
「キツいなあ」
夜風で、鼻先がツンと冷えた。なまえが身震いすると、エス・ノトは優しくなまえの肩をポンポンと叩いた。
「寒い?」
「すこしだけ」
「帰ロウか」
「うん。あの、ありがとね。連れてきてくれて」
彼は、此方を見ずにひとつ頷いた。
帰る前に、なまえはもう一度振り向いて夜景を瞳に収めた。
チカチカ瞬く光がなまえの潤んだ瞳に映り込む。光はそのままなまえの体の奥に流れて、美しいピアノの旋律に似た、キラキラとした音を立てて輝くような気がした。
それから3日が経って、エス・ノトのチームは完全に山場を超えた。
昼過ぎに仕事が片付くと、なまえとエス・ノトは、軽いハイタッチをした。
そして、のんびりと資料整理をして、体力を回復させた。のんびりしている間に、新入社員が発熱してフラフラしていたので早退させ、2人はソワソワしながら定時を待つ。
もはや、運命の瞬間である。
定時の鐘(一部社員はこれを『平和の鐘』と呼んでいるとか)が鳴ると、なまえとエス・ノトは大急ぎでコンビニで買い物をして、会社の食堂へ舞い戻った。
コンビニのお菓子コーナーの下の方にあった駄菓子も買い込んで、粉のジュースをウォーターサーバーの水で割って飲む。
「乾杯!」
「乾杯」
紙コップで、ノンアルコールの乾杯。
「…これ、味、うっすいね」
「マズい」
「ほんとに」
配分を間違えたのか、笑えちゃうくらい味の薄いジュースが出来上がっていた。
笑いながら、買ってきたお菓子は全てパーティー開け。ポテチにカリカリ梅に、少し高級なチョコだとか、えび煎餅だとか。更には目に付いたコンビニスイーツも幾つか買い込んで、机の上はお菓子の山だ。
「お疲れ様!私たち!」
「ヲ憑カレ様」
「死ぬかと思ったよね」
「僕、モウ死ンデる」
「あ、カリカリ梅美味しい。疲れた体にしみる」
「無視?」
無視である。なまえは誤魔化すようにカリカリ梅をエス・ノトに差し出した。
「ほら、お食べ」
「………ア、美味シい」
「ね?」
ハマってしまったのか、エス・ノトはリスのように梅をボリボリ食べる。餌付けしている気分になって、楽しくなってきた。なまえはポテチを食べながら、プシュ、とコーラを開ける。カリカリ梅に夢中だったエス・ノトはその音につられて、フラフラとこちらへ手を伸ばす。
「これも食べようよ」
「美味シい」
パリパリサクサク食べていると、その横を通り抜ける男が、ひとり。
「あっ、蒼都さん」
「なまえとエス・ノトか…珍しいな。合コンか?」
「そう見えます?」
疲れている様子の蒼都は、迷いなく「見える」と答えて隣のテーブルに腰掛けた。
「僕も休憩する。少し貰って良いか?」
「駄目」
「どうぞ」
拒否するエス・ノトに、差し出すなまえ。
蒼都はなまえの方だけを見て、「有り難く」と、ポテチを貰った。
「打ち上げか?」
「はい」
「羨ましいな」
なまえとエス・ノトはすっかり気を抜いてヘラヘラ笑った。蒼都は目を擦りながら、大きくため息をつく。
「こっちはトラブル続きだ」
「大変ですねえ」
ここで世間話に参加するのはなまえだけ。エス・ノトはカルパスを開けようと必死に、包装されているビニールの角をカリカリやっている。
「トラブル、困りますよね」
「夜寝ても夢の中で仕事してるし、そっちでもトラブルが起こる」
「休まりませんね」
「ああ。しかも次の日、夢と同じトラブルが起こるんだ」
「え、呪われてません?」
「ネェ、コレ剥ガセナい」
蒼都と話しているなまえの気を引こうと、エス・ノトは細い指先でなまえの肩をトントンと突く。手に持つのは、さっきから格闘している小さいカルパスだ。
「ノトくん頑張って。で、蒼都さんそれ怖いんですけど」
「…お祓い?とかするべきか?」
「分からないですけど…」
「ネェ、なまえ、此レ、開カナい」
「ノトくん、ちょっと静かに」
まるで子供だ。エス・ノトは喋らなくなったものの、今度はなまえの顔をじーっと見つめる。構って欲しそうに、至近距離で。まるで人を誑かそうとする妖怪みたいに。
「ああ、でもバンビーズの内1人でも連れて来れば魔除けになりそうだな」
「それ、ちょっと分かるかも」
「…それか、このエス・ノトも魔除けになりそうだな」
蒼都はやっとエス・ノトに話題を振る。
「なんか、すみません」
至近距離に張り付いていたエス・ノトを引き剥がすなまえ。エス・ノトは「ウ゛ーッ」と威嚇するような細い声を出して、遠ざけられる。
「いや、邪魔したのは俺だ」
蒼都はエス・ノトの手からカルパスを奪い取り、簡単に包装を開けるとまたエス・ノトの手にそれを戻した。
「エス・ノト、やったな」
「………」
蒼都は意味ありげに笑うと、「世話になった」と言って席を立つ。
すっかりシャキッとした後ろ姿を見送ると、エス・ノトも蒼都の方を見ながら、カルパスを食べていた。
「どこの部署も大変だね」
「…僕ハ駄目ッテ言ッタノに」
そういえば、そうだった。あれは冗談かと思っていたのだけれど、本気だったのかもしれない。なまえはしかし、あの場で断ることも出来ない。
「でも、断ったら可哀想でしょ」
「僕は?」
「別に…」
「…なまえ、上司ノ命令違反」
「あれで命令違反になるの?厳しいなあ」
「成る。なまえ、降格、減給、左遷」
「キツイなあ」
エス・ノトがあんまりムキになるので、なまえはつい笑ってしまう。
「で、結局左遷先はまたエス・ノトチームだね」
「断る」
「そしたら寂しいくせに」
肩をちょこちょこ突くと、エス・ノトは「セクハラ」と身を捩る。
「セクハラじゃないでしょ」
「人事部ニ訴エる」
「じゃあ私も、さっき肩触られたし、至近距離で見つめられましたって言うから」
「…」
睨み合うのも、ほんの2秒くらい。3秒目からは堪え切れない笑いが込み上げて、結局2人は平和なお菓子パーティーを続行した。
「あー、今日から早く眠れるね」
「悪夢カラ解放サレる…」
「うそ。怖い夢見てたの?」
「納期ガ、井戸ノ底カラ這ヰ上ガッテ来ル夢」
「こっわ」
「毎晩、納期ガドンドン近付ヰテ来る」
「やだやだ!」
エス・ノトはわざと化け物のような声を出して、なまえに近寄る。
「ァ゛ァ…ゥ゛…」
「私まで変な夢見そう!」
「コッチ側ニ、御出で」
「行かないから!」
エス・ノトが嫌がるなまえの服の裾を引っ張ったり、別な悪夢の続きを語るうち、辺りは暗くなり、街はまた光を宿す。
「変な夢見たら、責任とってよね」
「責任?」
「明日のランチ、私に奢ってくれるとか」
「イ」
「い?」
「イヤだ」
「そこは『いいよ』でしょ」
「…」
嫌そうな顔してるけど、本当は悪くなく思ってる癖に。と、なまえは自信満々に「明日が楽しみだなあ」と嘯いた。
時期を同じくして、同じデザイン部の他のチームで、空きが出た。ピンチヒッターとしてエス・ノトのチームの仕事を手伝って貰える事となり、チームにはかなりの余裕が出来た。
尚、エス・ノトはなまえに蟹クリームのパスタを奢らされていた。とても美味しかったという。
さて、優秀な社員であるなまえはエス・ノトから借りた資料を読んで勉強していた。真剣に取り組めば、意外と何事も楽しい。
資料と過去の事例なんかを見合わせていると、懐かしいあの人がやってきた。
「失礼。人事部ですが」
「わあ!キルゲさん!」
人事部のボス、キルゲ・オピーだ。彼は薄く微笑んでいる。どうやら、可愛い部下の行く末を心配して様子見に来たらしい。
まるで強化合宿のような、あの怒涛の日々について話すと、キルゲは申し訳なさそうに笑った。
「でもこっちも楽しいですよ」
「楽しそうで、何よりです」
キルゲは、「ご苦労様でした」と、小さな箱のお菓子をなまえに手渡した。この辺りで有名なパティスリーの店名が印字されたリボンが巻かれている。
「えっ、すごい!良いんですか?」
「ええ。この間、野暮用で寄ったついでですが…」
本当は、野暮用なんて大嘘。可愛い部下が大変な思いをしているんじゃないかと、心配で心配で。彼女を励ませるような物はないかと、考え抜いて買ったのだ。
お店の人にも、人気商品から、期間限定商品についてまで、細かく話を聞いて選び抜いた逸品だ。
「嬉しい…。ありがとうございます!」
キルゲはここに来て少し後悔していた。楽しそうに働くなまえを見れて安心したけれど、彼女はもう直属の部下ではないのだと痛感した。
まるで雛鳥に巣立たれた親鳥の気持ちだ。残る側というのは、常に寂しいものだ。適当なことを言って、なまえを手放さなければ良かった。
名残惜しいものの、そろそろ人事部に戻ろうとした瞬間であった。
「…失礼」
なまえとキルゲ、2人の間を裂くよう、エス・ノトが通り抜ける。
その仏頂面といったら。好物を奪われた猫のようだ。しかも、完全に拗ねている。
「おや、叱られましたね」
成程。キルゲはなまえから距離を取り、「警戒されましたね。疑わせておきましょうか?」と、優しくなまえに耳打ちをした。ふわりと香る甘い紅茶の香りが、なまえの鼻先を掠める。
「え、あっ、あの、」
「では、また」
それって、もしかして、そういう意味なんでしょうか。
なまえの中で疑問を残したまま、キルゲが去るとエス・ノトはじっとこちらを見ていた。
その瞳が何を語っているのか、恐ろしくて、なまえは何も聞けなかった。
逃げるように、なまえは資料を見返す事にした。だって、なまえとキルゲの間にはやましい事なんて一つも無い。エス・ノトに対して言い訳するような仲でも、ない。
でも、あの瞳を見たら何か言わなければ、とも思ったのだけれど。何か言おうにも、言葉は出てこない。声も持たず、言葉もない。
少し目を離すと、エス・ノトは席を立っていた。僅かな罪悪感を持ったまま、キルゲさんからのお菓子の包みを開けていると、エス・ノトはフラリと戻ってきた。
「お帰りなさい」
「ン」
「ん?」
「ン」
エス・ノトは「ただいま」の一言もなく、手からバラバラと、何かを机の上に落とした。
拾い上げて見てみれば、高そうな個包装のチョコレートだ。近くのデパートで買ってきたんだろう。机を覆い尽くしそうなほどの量が散らばる。
「ドう?」
声に誘われてエス・ノトを見上げてみれば、最上級のドヤ顔。どうやら、キルゲさんのお菓子攻撃に対抗心を燃やしていたらしい。その子供っぽさになまえは吹き出した。
「すっごく、嬉しいです」
笑いを堪えても、つい口角は上がる。エス・ノト。なんて可愛い上司なんだ。とんでもなく、子供っぽい。「最高!」ともう一声あげると、奴は満足げにデスクに戻った。
「ふふ」
貰ったお菓子を食べながら、のんびりとお仕事。エス・ノトはクライアントと会議だとかで、席を外している。
新人くんも外出して打ち合わせがあり、出掛けている。つまりなまえはチームの中で、たった1人会社に残ってデスクワークだ。
「おっ、そこの可愛いお嬢さん」
「?」
「ノトちゃん、居るゥ?」
偉い人だ。会社の偉い人がやってきた。かの有名なアスキン・ナックルヴァールだ。例の飲み会で、悲しくも席が離れてしまった彼だ。
なまえは食べていたお菓子をパッと机に置いて「会議中で、16時には戻ります」と答えた。
彼は唇を尖らせながら、ふんふん頷いた。
「あ、そォ。じゃメールするわ。話した方が早えかと思っただけだしなァ」
「ナックルヴァールさんが来た事も伝えておきます」
「そう?じゃ悪けど頼むぜェ」
「承知しました」
「つーか、人事部じゃなかったっけ?なまえチャン」
「ああ、ちょっと前に異動になったんです」
「マジ?大変だねェ」
そんなことないですよ、とは言えず。なまえは曖昧に微笑んだ。大変ではあったのだ、色々と。
その時、アスキンはなまえの机の上を見て、「ん?」と声を上げた。
「スッゲェお菓子多くない?それ美味しいの?」
「美味しいですよ」
なまえは、良かったら、とチョコをひとつ手渡した。
「お、なんか悪いねェ」
「これ、さっきエス・ノトさんから貰ったんです」
「え、まさか全部?」
「はい」
「これ、全部!?」
「はい」
照れたようななまえの表情が、チョコよりも甘い。アスキンの脳裏には、某お笑い芸人の「甘ーーーい!」というフレーズがつい浮かんだ。これ、言っても伝わらないかもしれないから、黙っておく事にした。
「マッジかよォ…」
愛されちゃってるねェ…。
これも、口にしないアスキン。幹部役員だもの、野暮な事は言わない主義。
なまえはアスキンから、「記念に写真撮っていい?」と言われて、快くお菓子の山の写真を撮らせてあげた。
「あ、ついでに撮ったげるぜ」
こう言われて、なまえは咄嗟にお菓子を持ってピースサイン。バッチリ可愛いぜ、とのお墨付きまで貰ってしまい、嬉しいやら恥ずかしいやら。
さて、この可愛らしい一枚の写真の行方といえば、やっぱりエス・ノトであった。
アスキンは宣言通りエス・ノトへメールを送るついでに、ちゃっかり添付されてしまったらしい。
◯
「撮ルよ」
なまえは無言でピースをした。咄嗟にできるポーズといえば、これ。
「上手く撮れた?」
バッチリ、と言わんばかりにエス・ノトは親指を立てる。差し出されたスマートフォンの画面は、やけに薄暗い。よく見たらなまえの肩口にでも幽霊が映り込んでいそうな雰囲気だ。
「え、なんか怖いよ」
「ソンナ事は…」
ないと言い切れないかも。エス・ノトはスマートフォンの画面を見て、首を傾げた。普通に撮っただけなのに。
「下手だなあ」
なまえはお姉さん気取りで、写真の撮り方を教えてあげた。スマートフォンは逆さまにすると良いとか、画面は明るくした方が良い、カメラは離して、ズームで撮って、だとか。
指示通りシャッターを切れば、素敵な写真が出来上がる。
「…なまえ、物知リだ」
「まさか。そうでもないよ」
エス・ノトは力強く首を横に振る。力強く否定されると、なまえは訳も分からず納得するしかない。
今日、実は2人で美味しいご飯を食べに来た。海沿いの雰囲気の良い、素敵なレストランである。
あれからなまえとエス・ノトは更に仲良くなった。毎日、朝から晩まで一緒に仕事をしているのに、仕事帰りも、休みの日も会うようになった。
恋人、ではない。そんな雰囲気はないけれど、下手な恋人なんかよりも、ずっと深いところで心が通っている。そんな気がするのだ。
薄い青が色付いたサイダーで、乾杯。添えられたレモンの輪切りがきれい。
エス・ノトはカレーを頼んで、なまえはオムライス。ランチタイムらしくざわついた店内で、内緒話をするよう顔を寄せ合う。ヒソヒソ、クスクスを繰り返す。
もし、これが教室の中であったなら、噂されていたであろう。
あの2人、付き合ってるんだよって。
でも、2人は付き合っていない。無駄に手を握り合う事もない。もどかしいような、丁度良いような。
まるで連れ立って泳ぐ魚のよう。触れ合わず、同じ水の中で寄り添うだけ。互いの体温すら感じない。
それでも、離れることはない。
混み合う店内を早々に後にして、ふたりはブラブラと海岸沿いの道を歩く。綺麗に舗装された広い歩道が、真っ直ぐ、どこまでも続いている。
「この後、どうする?」
遊びに行けば、予定はいつも行き当たりばったり。
最初こそエス・ノトはキッチリ予定を組んでいたものの、なまえが「あそこのお店も気にならない?行ってみようよ」とはしゃぐので、計画は丸潰れ。
それに対してブチブチ文句を垂れても、なまえのごめんねで、ついエス・ノトは黙ってしまう。別に心の底から嫌ではないのだ。それに、なまえが気になるお店は大抵良いお店なのだ。たまに外すけど。
そうして今日のように、待ち合わせの駅だけ決めて、後は成り行きに任せるようになったのだ。
「公園デ散歩?」
「子供みたい。でも楽しそう」
「鬼ゴッコ、スる?」
「やだ。疲れるからブランコにしようよ」
「酔ヰソう」
「じゃ鉄棒」
「今食ベタモノ、全部出る」
「あ。それ、見てみたい」
「エ…鬼?」
笑ったり、肘で小突いたり。
エス・ノトはなまえの作る波に揺蕩うような心地で会話をしている。
「あっ!ねえ、隣の駅に遊園地みたいなのあるよ。グルって回るジェットコースター」
「却下」
2人とも目線も合わせず、スマホを見ながら喋っている。仲が悪そうに見えるかもしれないけれど、これが自然な距離感だった。
雲の切れ間から、光が差し込んだ。
冷たい空気と、温かい日差し。柔らかく吹く風で、頬が冷える。
なんだか自分も綺麗な水の中に入っているみたいだと、なまえはそう思った。
結局、2人は「どうせ時間、持て余してるし」という理由で、理由もなく長蛇の列ができている人気のカフェに並ぶことにした。並んでいる時間は、あっという間で。2人が何をしていたかといえば、お互いのスマホゲームを邪魔しあっていた。ゲームのスタミナが切れた頃、やっと席へ案内されたのであった。
休みの日は、一瞬で終わる。
夢から覚めたような気持ちで、なまえは出社した。前のように常に戦闘モードでなくとも働けるので、体力は使わないのだけれど、その分スイッチも入らなかった。燃えるようなやる気は立ち消え、薄ぼんやりとした倦怠感に包まれていた。
社員証を『ピッ』とやっても、帰りたいなとしか思えなかった。慣れとは、きっとこういう事だろう。
茫々と過ごしていると、同じ広報デザイン部の別チームのリーダーが、エス・ノトを探していた。
奴はよく離席するので、なまえはそのうち帰ってくるのだろうと思っていたのだけれど、「なまえさん。悪いんだけど、エス・ノトさん、探してきてくれない?」と、任務を任されてしまった。
どうやら急ぎで確認して欲しいことがあるらしい。やっぱり聖文字持ち、周りから信頼されている。
なまえはいくつか思い当たる場所を探したのだけれど、どこにも居なかった。スマホだって鳴らしても出やしない。資料室、休憩スペース、企画室周辺、印刷室。
もしかして、と思って印刷室の小さな戸棚の中まで見てしまう。エス・ノトって、自由自在に小さくなって、こういう所に隠れられそうなんだもの。
当然、そんなはずも無く。エス・ノト捜索は失敗に終わった。
逆に、もう自分のフロアに戻っているかもしれない。なまえはそう思って、2階上のフロアまで、階段で戻る事にした。
「…あっ」
「何…」
エス・ノトだ!ターゲットを発見!
奴は階段の途中で膝を抱えて、瞳を閉じていた!
なまえはホッとして、エス・ノトの隣にそっと腰掛けた。
「見つけた」
「眠い…」
「だめ。起きて、立って」
「無理」
「具合、悪いの?」
「違う…」
しょぼしょぼさせていた瞳を開けて、エス・ノトはゆっくりと立ち上がった。彼はここで何をしていたんだろう。
サボっていたのか、何かインスピレーションでも受信しようとしていたのか、彼の思惑は分からないけれど。無事発見されたので、なまえは捕獲して席に戻すしかあるまい。
「ねえ、探したんだけど」
「ドノクラい?」
「20分くらい」
あっちこっち見て回って、大変だったよ。電話にも出ないし。と、愚痴るとエス・ノトはニタっと笑う。
「探シテヰル間、僕デ、頭ガ一杯ダッた?」
「そりゃそうだよ」
「アはっ、アはっ」
「そんなに嬉しい?」
痙攣するように肩を揺らして笑うエス・ノト。見慣れたから良いものの、絵面がホラー過ぎるのだ。
ほら、立ってと手を引けば、奴は壁に寄り掛かりながらズルズル移動する。相当やる気がないらしい。
階段をどうにか登り、誰もいない廊下にやっと辿り着く。角を曲がり、人の気配が増えるにつれて、エス・ノトはシャキッとする。そうそう、最初からそうすれば良いのに。
エス・ノトは透明な鰭を持つ魚だ。人の波を掻き分けて涼やかに歩く。窓から差し込む光に目を細めている。
群れずに、光を通して、そこに居るのにすぐ見つからなくなる。目を離したら、ふっと水に溶けて消えちゃいそうだった。探しても居ないのが、あんなに心細い事だなんて知らなかった。
悔しいけど、エス・ノトは綺麗で、儚くて。暗闇に呑み込まれたら、きっと真っ黒に染まってしまいそうな危うさがある。
結局のところ、エス・ノトはイメージ通りの人だと、一周まわって知る事となった。
翌日、エス・ノトは会社に来なかった。
有給の予定でも入れたのかと、社内で共有できるスケジュールのシステムを見ても、何も予定は入っていない。それに、何よりなまえへ何一つ連絡を寄越さなかったのだ。
チームの他のメンバーも、エス・ノトが欠勤しているだなんて知らなかったようで、フロアは俄かに騒めいた。
なまえはその場でスマートフォンを開き、連絡するも、コール音が鳴るばかり。メッセージも一方通行。
凄く、嫌な予感がした。
それからなまえの決断は早かった。大きな声で「エス・ノトの様子を見に行きます」と宣言して、即人事部へ向かった。
大体の場所は知っていたけれど、詳しい部屋番号なんて知らない。事情を話せばキルゲは快くエス・ノトの住所を見せてくれた。
「彼の家を知らないとは、意外ですねえ」
キルゲは可愛い部下を揶揄いながらも、道中は気をつけるよう言い付けた。気丈に振る舞うなまえの声が震えていたからだ。
言い付け通り、なまえはしっかりと気を付けて電車に揺られた。しかし最寄駅で降りると、堪え切れず弾丸のように電車から飛び出し、改札を抜け、ナビアプリを頼りに、エス・ノトの家を探した。
「…あった」
奴はなんと、まあまあ良いマンションに住んでいた。新しいし、綺麗だし、大きいし、治安の良い地域にお住まいであった。
玄関ホールで部屋番号を入力して数回ピンポンすると、魔物の呻き声のような、恐ろしい声がノイズ混じりに返ってくる。
「ノトくん、大丈夫?鍵、開けれる?」
『ヴ…………ァ゛…………』
インターホン越しに、ズルズルッとイヤな音がして、回線は途切れる。自動ドアが開いたので、なまえは急いで駆け込み、エレベーターに乗り、エス・ノトの部屋へ駆け込む。
奴はインターホンの画面の前で、事切れたように倒れていた。
「ノトくん、大丈夫?ねえ」
「死…………」
「うわ、ひっどい熱」
体を触れば、ひどく熱かった。熱なんて測る必要はない程の高熱を出してた。
どうにか持ち上げて、しかし最後は転がして、引き摺ってベッドへエス・ノトを戻した。
大急ぎで冷たいタオルを額に当て、冷凍庫に眠っていたアイス枕やら、保冷剤を取り出してはエス・ノトの体に当てる。
自販機で買っておいたスポーツドリンクも口に含ませると、エス・ノトは細い声で、久し振りに体調崩したと言った。
細い雨のような、途切れそうな声だった。なまえは、枕元に頭を埋めそうな程の距離で、エス・ノトの声に耳を傾けた。
いつしか声は途切れて、規則正しい寝息に変わった。頃合いを見て、なまえは会社へ電話をして、簡単に事の顛末を伝えた。
電話を切ってから、なまえは溢れる涙を手の甲で拭った。
声も出さず涙を流す。まさか自分の泣き声でエス・ノトの眠りを妨げる訳にはいかない。せめて彼が起きた時の為に、お粥でもうどんでも食べられるようにしておこうと、なまえはキッチンを勝手に使う事にした。
ただ無心で料理をしていると、何故か普段のエス・ノトの顔が次々浮かんだ。
あの飲み会でも、会社帰りに再会を果たした時も、仕事中だって、遊んでいる時だって。思い返せば、彼の瞳はいつも、今にも泣き出しそうに潤んで、反射した光は何かに怯えるように揺れていたのだと。
触れるとあっという間に溶けて柔らかくなりそうな、薄いまぶた。氷が溶け始めるような、瞳の潤み方。
太陽は最も高い所にかかっている。カーテンをキッチリ閉め直して、なまえはエス・ノトの寝顔をそっと見つめる。
やっぱり、絵に描いたような綺麗な寝顔だ。
普段、どうしてこの綺麗な顔隠してるんだろう。ちょっと損してるんじゃない?なんて、そんな事を思う内に、ふと心に違和感が生じた。
わたしは、この顔に見覚えがある。最近ではない。会社に入るより、ずっと前かもしれない。
何故か、そんな気がした。
(つづく)
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