「はい、人事部です」

 なまえは内線を取った。問い合わせ内容は、通勤手当について。発信元は営業部第二課、リューダースさん。
 最近引っ越しをして、通勤経路が変わったらしい。これはよくある話。マニュアルを見返す必要もなく、なまえは簡単にスラスラと説明をした。

 「では、マニュアル通りシステムから申請を上げて頂けますか?分からない箇所があれば、また内線下さい」

 こう言い切る前に、社内システムのPDFマニュアルをメールで送る。電話口の彼は「どうも」と言って内線を切った。
 リューダースからの申請を待つ間、なまえは画面の中に、エス・ノトの文字を探してしまった。
 もし、彼から問い合わせが来たら、嬉しいんだけれど。いくらメールをチェックしても、システムを見ても、申請書にハンコを押したって、その文字は見つからない。

 昨日、手を引かれて行った先は別世界に思えた。もしかして、夢だったんじゃないだろうか。
 エス・ノトの顔が浮かんでは消え、目の前の簡単な書類すら、ハンコも押せずボンヤリしていた。

 「心ここに在らず、ですね」

 なまえの上司、キルゲ・オピー。彼はなまえにだけ聞こえるような囁き声で、そう言った。

 「…分かります?」
 「ええ。分かります」

 なまえもコソコソと声をひそめてお返事。キルゲは画面から目を離さず、しかしなまえの真剣な表情を一瞬だけ横目で見た。
 
 「いや…だって、ねえ?」
 「知りませんよ。仕事なさったらどうです?」
 「あ、待ってください。聞いてくだ…」

 昨日の事をキルゲに話そうとして、なまえは踏み止まった。

 エス・ノトから向けられた表情。彼の冷たい手の平の温度。落ち着いた低い声。

 思い返せば、なまえは何故か赤面しそうになった。いけない、いけない。こんな話この場で出来る訳が無い。
 唇をキュッと真一文字に結んだ。

 「いや、やっぱり話せません」
 「ああ、そうですか。では業務に戻って下さァい」
 「えっ!そこは深掘りして下さいよお」

 引き止められると、キルゲは笑いを堪えるような顔をしてなまえの方へ向き直った。

 「刑事でもあるまいし、深掘りは致しませんよ」
 「えーっ、尋問とか得意そうな顔してるのに」
 「偏見はおやめなさい」
 「…」

 聞いて欲しい。こうなると、逆に聞かせてやりたくなるのだ。しかしキルゲは当然のように仕事に戻ってしまった。取り残されたなまえは、最近システム化された業務のチェック作業。
 こんなの、5分で終わる。

 「…あの。やっぱり、聞いて頂けませんか」

 なまえ、勇気を出して切り出した。内緒話をするよう、キルゲの耳に唇を寄せて。

 「私以外の男の話をですか?」

 困ったように笑うと、キルゲは席を立つ。人事部の部屋の中にある、面談室という完全に区切られた個室へと案内される。
 2人でよろしく密談である。向かい合わせの席に着くと、なまえは素っ頓狂な声を上げた。

 「えっ、あれっ?私、エス・ノトさんの話って言いました?」
 「ああ、彼だったんですか?随分と趣味が悪いですねえ…」
 「ひどい!」
 「まあまあ。で、何があったんです?」

 まず、昨日の事なのですが、となまえは切り出した。



 あの手を握ってから、なまえは彼に連れられて階段を登り、店内に入った。扉もガラス。通された窓際の席も全面ガラス張り。   
 落ち着いた雰囲気のお店は、静かな水底のようだった。外を行き交う人の声も聞こえない。店内も人が居るのに、ひっそりとしている。
 まるで誰もがテーブルや椅子の影に隠れているようだ。岩場に潜んで、ゆらゆら鰭を動かす、ちいさな魚の集まりみたい。

 席に着くと、彼は「苦手ナ食ベ物、アる?」と聞いた。お店で流れる不思議なピアノの旋律に合うような、不思議に甘い声だった。
 私が「ないです」と答えると、彼は店員さんを呼んで、季節のフルーツのタルトと、アイスティーを頼んだ。

 よく知ってるね、と話しかけたかった。
 それでも、静かな店内で声高に話すことも出来ず、2人でガラスの外に視線を映した。向かいのビルに映される映像を眺めたり、道ゆく人々の作る、大きな流れのようなものを見ていた。
 ガラスの水槽に入った魚は、こうして人々を眺めているんじゃ無いかと思った。
 彼の知るこのお店は、どこか浮世離れしている。

 「お待たせしました。季節のフルーツタルトと、アイスティーです」

 店員さんがケーキとアイスティーを運んで来る。私は小さく会釈をして、目の前に置かれたお皿を、少しだけ手元に引き寄せた。
 エス・ノトはマスクを外した。彼は相変わらず綺麗な顔をしている。また見惚れそうになるけれど、彼は私の顔なんて少しも見ないから、居心地が悪くなって目を逸らす。
 仕方ないので、美味しそうにツヤツヤ光るシャインマスカットのタルトにフォークを刺した。

 「おいしい」

 口の中で、クリームとマスカットが溶けた。ほろほろ砕けるタルト生地も美味しい。私はさっきまで薄く感じていた居心地の悪さも忘れて、声も潜めずこう言った。

 「デシょ?」

 頬杖をついて、エス・ノトは私の顔をまじまじ見つめて、嬉しそうに口角を上げた。
 瞳も頬も澄まし切っているのに、薄い唇だけが綺麗に緩む。勢いのついた私は、小さな声で質問を重ねる。

 「あの、このお店って、いつも1人で来るんですか?」

 彼はコク、と頷く。

 「カフェ、好きなんですか?」
 「マア、普通に」
 「私もカフェ、好きです」
 「カフェ嫌ヰナ女子、見タ事無い」
 「あ、確かに。そうかもしれませんね」
 「敬語」
 「はい?」

 エス・ノトは首を横に振った。

 「敬語、要ラナい」
 「…分かっ、た」
 「宜シい」

 敬語が、外れた。意外に距離が近くて、私はますます調子に乗ってしまいそう。

 「ねえ、前から思ってたんだけどね」
 「何」
 「仕事、やっぱ忙しい?」
 「納期前、人手ガ足リナヰト、流石に」
 「そっか。それはそうだよね」
 「僕が、」
 「うん」
 「僕ガモウ一人居タラ、完璧」
 「自信あるじゃん」
 「陛下ヲ墨憑キ、ダカら」
 「え、じゃあ聖文字持ちなの?」
 「F担当、ダよ」
 
 聖文字持ち。
 これは仕事が出来る、有能だと陛下に判断された人の事だ。
 やっぱり!となまえは叫び出したくなった。
 聖文字持ちは、社内にチラホラ居る。その人達は異例の出世を遂げ、若いながらも管理職となり、厚遇が約束された方々である。私の昔の上司、バンビーズの皆様もそうである。

 聖文字持ち、というのは社内用語だけど、ちゃんとした意味がある。
 この会社の社員には、全員社員番号が付与されている。管理職となると、その上に部署名を表す英字が追加される。それが聖文字持ちという訳だ。エス・ノトはデザイン広報部に割り振られた英字「F」を貰っている。
 人事権を握るキルゲさんだって聖文字持ちの管理職。彼は随分昔に「J」の文字を貰っている。

 「知らなかった。ノトくん、聖文字持ちだったんだ…」
 「知ッテテよ」

 ぶう、と頬を膨らませるエス・ノト。普段の取り澄ました表情からは、想像がつかない。フグみたいにパンパンの頬が可愛い。

 「今、覚えたよ」
 「遅い」

 理不尽だ。それでも、なんだか笑って許せてしまう。更にこの距離感。私たちは同じ年だという事も判明して、ますます仲良くなれる気がした。

 ケーキを食べ終わると、彼はガムシロップを持ち上げた。

 「ガムシロップ、多メニ入レて」

 アイスティーは半分くらい残っている。言われた通りにすると、美味しかった。甘くて、紅茶の香りが際立って、普段飲んでる紅茶が偽物みたい。

 帰りは、駅のホームまで送ってくれた。
 「バイバイ」と私たちは手を振り合った。波に攫われるようにエス・ノトは人混みに消えた。
 そのまま、エス・ノトが消えてしまいそうな儚さがあった。波に揺られる泡みたいで、見つけた瞬間にはぱちんと弾けて消えてしまいそう。

 まあ、このイメージがが私の思い込みである事と、彼は意外と面白い奴だという事実にも、辿り着いた。



 さて、これを掻い摘んで話すと「エス・ノトさんはカフェに詳しくて優しい」としか言えなかった。
 私は、悲しいほどに説明が下手だ。

 「それだけで惚れたんですか?」
 「惚れては…」

 惚れてしまったとは言い切れない。これはそんな簡単な感情ではない。かといって、これだと言い切れるほどハッキリした輪郭すら浮かばない。
 なんとなく、すごく、居心地が良かったのだ。

 「では、気になるくらいですか」
 「気に…なる、ような」

 気になるといえば、合っている。
 恋愛特有の胸の高鳴りは感じられないけれど、彼に纏わりつく女の子が居たら、ちょっと嫌。
 否、凄く嫌だ。

 「エス・ノトですか」
 「はい…」

 何故か、居心地の悪さを感じる。私は彼をどう思っているんだろう。
 一言で言えば「好き」で済ませられるんだけど、「好き」に孕まれる他の意味合いはちょっと違う気がした。
 一目惚れでもない。彼と付き合いたいとか、そういうんじゃない。恋だ愛だ、惚れた腫れたの浮ついた感情は薄かった。

 「…あまり関わった事がありませんね」
 「そう、ですよね」

 話さなきゃ良かった。もはやその域である。なまえは後悔しつつも、信頼できるキルゲにこの話が出来て安心していた。
 名前の付けようがない、昂った感情って、1人で抱えるには、少し手に余るのだ。

 「まあ、聞きましたが、他に何か…あります?」
 「いえ。聞いて頂けて…その、」
 「スッキリしました?」
 「はい!」
 「ならよろしい」

 キルゲは大きく伸びをした。なまえも自然と真似をして伸びをする。「そういえば社食のメニュー、今日はデザートが付くそうです」と言った。

 「えっ!嬉しいですね」
 「やる気、出ました?」
 「…少しだけ」
 「では戻りましょうか」

 面談室を出れば、いつも通りの人事課だ。お昼まで、まだまだ時間はある。なまえはリューダースからの申請を承認して、決裁権限をキルゲへと移す。今度は別な人から届いたメールをチェック。届いた請求書の管理。
 平和な職場とはいえ、やる事は少なくない。

 暫くして、キルゲは珍しくなまえに雑用を頼んだ。

 「資料室で、この資料をファイルごと取ってきて頂けませんか?」

 なまえは一枚のメモを受け取った。漢字がズラズラ書かれているけれど、総括すれば、過去に社員がやらかした報告書を纏めたファイルの事らしい。
 普段なら、自分でサッサと取りに行くのに。何故今日に限って頼まれたのだろう。
 まさか、下らない話を聞かされた罰ではあるまいか。
 いいや、まさか。あのキルゲさんが、そんなみみっちい事をする筈が無い。

 なまえはエレベーターに乗り、別なフロアの資料室に向かった。その間、たった2、3分だけなのに、エス・ノトと会えたら良いな、なんて思ったりしていた。

 まずい。これは恋かもしれない。

 信頼できる上司に「惚れては…」だなんて言った癖に。定まらない心がぐらぐら揺れている。

 資料室の中は、少し埃臭い。しかも、昔の資料がたくさん並んでいるのを見るだけで、げんなりする。すごい量なのである。
 手元のメモを見ながら、アレコレとファイルを探していると、ふと視線を感じた。
 何か、気配がした。静まり返った資料室の中、なまえは気配のする方へ、ぎこちなく振り向く。

 本棚の影から、不自然に覗く人の形の黒い影があった。

 「うわっ!」
 「アはっ。アはっ」

 エス・ノトだ。
 細長い体を真横に折って、こちらを見ている。怖すぎる。さっきまで甘酸っぱく胸を満たしていたはずの、彼に会いたい気持ちが全部飛んでいった。

 「探シ物?」
 「……はい」
 「敬語」
 「あっ、ごめん」

 なまえは手に持ってたメモを読み上げて、そのファイルを探している事を伝えたい。なんとなく、エス・ノトならファイルの在処くらい知っていそうだったからだ。
 エス・ノトは難なく「彼処」と、指さす。その先は、棚の1番上。
 届きそうだけど、ギリギリ届かない。手を伸ばして背伸びしても、届かない。
 エス・ノトは黙って見てるだけ。

 「あのさ」
 「何?」
 「こういう時って、僕が取ろうかって、言うのが、マナーじゃない!?」

 単語を区切る度にジャンプするなまえ。それでも棚の1番上は、遠い。エス・ノトは「其レハ知ラナカッた」と悩ましげに瞳を細めた。

 「僕ガ、取ロウか?」

 エス・ノトは膝を折って、なまえと視線をまっすぐ合わせる。
 美しい黒は潤んでいて、小さな光を反射している。目が離せない。鴉の羽みたいな黒だ。深い色の中に、たくさんの綺麗な色が夢のように儚く燦く。

 気付けばなまえは頷いていた。
 まるで彼に操られるように。彼に支配されたかのように。
 彼にお願いしたのは、私なのに。いつのまにか立場が逆転していた。

 白い指は、草でも毟るように資料をポイっと取り出した。

 「其レ、使ヰ終ワッタラ僕ニ頂戴」
 「わかった。これ、デザイン部でも使う資料なの?」
 「ウウン」
 「えっ?」

 では、何故。なまえは少し逡巡して固まった。

 「一人ジャ返セナヰデショ?」
 「あっ。そうか…」

 少しバツの悪そうななまえを見て、エス・ノトは瞳を細めて笑った。

 「此処迄ガ、なまえチャンノ言ウ、マナーデ合ッテる?」






 「完璧すぎる…」

 結局。なまえは資料を戻す為、エス・ノトを頼ろうとしたものの、彼は離席中だった。暫く待っても戻ってこないので、資料室の隅にあった脚立を使って、1人で資料を戻した。

 ──キルゲさんは知っていた気がする。

 彼が資料室に現れることを、キルゲさんは知っていた。そんな気がした。彼はそれを知った上で、私を派遣したのではないか。
 だとしたら、彼に会いたければ、資料室に行けば良いと教えてもらった気さえする。
 ロクに会話も弾まなかった相手だし、今日だって突っ込みたいところがあったのに、なまえはまたエス・ノトと会う方法を考えていた。
 連絡先だって、まだ聞いていなかった。かと言って社内メールでやり取りするのも憚られる。でも、この広い社内でまた会えるかといえば、確率は恐ろしく低い。
 そうなれば、また理由でも作って資料室に行くしか無い。かもしれない。

 人事課に戻るまでの細長い廊下は静かで、なまえはつい考え事に浸ってしまった。
 頭を切り替えて、なまえは人事課の扉を開く。
 
 「戻りました」
 「遅かったですね」
 「ちょっと寄り道してました」
 「悪い人だ」

 人事課に戻ると、キルゲは口ではなまえを咎めながらも、ご機嫌だった。鼻歌のように軽口が返ってくるし、早く席に戻るよう手招きされる。

 「なまえさん。陛下から贈答のお菓子分けて頂きました」
 「え!やったあ!」

 キラキラ光るお菓子の箱に目を奪われてしまうなまえ。エス・ノトが資料室によく居る事を知っていたのか、キルゲに聞こうとしていたのだけれど。

 「少し休憩でもどうぞ」
 「はい!」

 こう言われたら、喜び勇んでティータイム。なまえはウキウキして、その昔キルゲさんから貰った高級な紅茶を淹れちゃったりして。

 「なまえさん、実は冷蔵庫にプリンもあるんです」
 「えっ、本当ですか?」
 「ええ。こちらは幹部役員のリジェさんからです。人事課の人数分ありますので、持ち帰って頂いても良いですし」
 「今日は豪華ですねえ」
 「偶然、陛下と親衛隊が人事部へ下さったので。有難いですね」

 2人はここから甘いもの談義を始めた。やはり紅茶にはスコーンだとか、クッキーはザクザクしてる方が良いとか、バターサンドはお腹いっぱいでも食べたいだとか。

 「キルゲさんって、紅茶派ですよね?」
 「ええ。珈琲よりは紅茶ですね」
 「家に紅茶のストック、ありそうですよね」
 「正解です。ちょっとコレクションし過ぎた感、ありますがね」
 「そんなにですか?」
 「棚がひとつ、紅茶に占領されています」

 「えーっ…」となまえが細い声を上げると、キルゲは「私、何事も突き詰めたい派なんですよ」と笑った。

 なまえは「そういえば」と、キルゲに話を切り出そうとした。
 エス・ノトが資料室に出没すると知っていたのか、聞きたかったのだけれど、思わぬ横槍が入ってしまった。

 「あの、すみません」

 女性の社員さんが入ってきた。少し困ったような顔色である。キルゲさんはなまえに頭を下げてから、サッと立ち上がり、「どうしました?」と、面談室へと入ってしまった。

 残されたなまえは冷めた紅茶を啜り、仕事に戻った。時折、面談室から戻ってくるキルゲさんが手にしていた書類が目に入ってしまった。
 おそらくあれは、介護休暇について解説する書類であろう。
 これ見えないフリ。知らないフリ。人事部はいつもそう。他言無用がルール。

 結局、その後もキルゲさんは忙しそうにしていたし、私も社内の人からの問い合わせが多くて忙しくなってしまった。
 聞けずじまいのまま、その日は終わってしまったし、私もすっかり諦めてしまった。




 あれからなまえとエス・ノトとの接点は激減した。
 私は彼のデスクへ行く用事はないし、資料室に行っても彼の影すら見当たらない。広い社内の廊下ですれ違う事もないし、エレベーターだって、食堂でも、近くのお店でも、帰り際ですら会える事は無かった。

 一目で良いから、あの透明な瞳を見れたら良いのに。底に闇を孕んだ、透明な一対の雫。
 なまえは朝の光を受けながら、会社のゲートを抜けた。眩しさに瞳を細めて、下を向く。
 そして、ふと思う。
 エス・ノトさんって光に弱そう。こんな朝日を浴びたら、干涸びてヘナヘナになりそう。彼には失礼だけれど、勝手にヘナチョコなイメージを持っていた。だって、エス・ノトに爽やかな朝は似合わない。

 今頃、どうしているんだろう。へろへろになりながら出勤している気もする。
 でも、いつも通り涼しい顔をしながら、ものすごい量の仕事を捌いているのかも。

 「おはようございます」

 人事部は機密情報が多いので、完全に独立した個室であった。なまえはいつも通り、扉を開けて人事部へと入る。
 しかし。見慣れたキルゲさんのデスクに張り付く、人の形をした黒い影が、一つ。
 ぎこちない動きで、その影はゆっくりと振り向いた。

 「うわっ」
 「ああ、なまえさん。おはようございまず」

  不気味な影をモノともせず、キルゲは涼しげになまえに挨拶を返す。

 「え、あの、その人…」
 「三徹明けのエス・ノトです」
 「どうして…」

 ヘナヘナになっているエス・ノトさんが、キルゲさんの机にしがみ付いている。三徹開けだとか。全く事情が飲み込めぬまま、なまえはデスクで始業の準備をする。
 落ち着いた声色で、キルゲはエス・ノトと会話を続けている。

 「…話は丁度伺っていました」
 「死ぬ」

 絞り出すような、苦しげな声が細く放たれる。なまえは、胸の奥が締め付けられるような息苦しさを感じた。

 「三徹ですか。過労死ライン超えてますねえ…」
 「会社ニ、殺サレる」
 「それは人聞きの悪い」

 どこか他人事に話を流すキルゲに、今にも死んでしまいそうな声色のエス・ノト。
 ついたまらず、なまえは2人の会話に口を挟んだ。

 「な、何事ですか…」

 近くでよく見れば、エス・ノトは目の下に真っ黒なクマを作っていたし、目付きはショボショボして、干涸びたドライフラワーみたい。

 机に張り付いていたエス・ノトを引っ張って立たせて、椅子に座らせる。そして暖かいお茶を差し出す。
 マスクを下げた顔はやっぱり綺麗。乾いた唇の皮が捲れて、少し痛々しい。

 エス・ノトの曰く。広報デザイン部には複数のチームに分かれているらしい。その中で、管理職であり、トップの技術と経験を持つエス・ノトが在籍するチームはえらいことになっているらしい。
 チームメンバーはエス・ノト含めて5人。ベテランと中堅は、介護休暇、バックレ、急病による長期入院でリタイア。
 残されたのは右往左往する新人と、エス・ノトのみ。ヘルプを出す間もなく、急いで納期に間に合わせたのが、約30分前だそうだ。

 そして人事課への要望は、ただ一つ。

 「誰カ欲シい」
 「希望は?」
 「即戦力」

 エス・ノトはフラフラしながら早退した。とりあえずの山場は越したので、頭を休めるとの事。

 広報デザイン部からの増員要望を受けて、キルゲは会社の組織図やら、名簿をひっくり返す勢いで半日ほど唸っていた。

 お昼休みが明けると、キルゲは意を決した顔をして「なまえさん」と面談室へ可愛い部下を呼びつけた。

 「はあい」
 「ちょっとコレ、やってみて頂けませんか?」
 「はあ…」

 キルゲのノートパソコンを差し出され、なまえは用意された資料や、画像加工システムを開いては、書かれた通りの操作を進めてゆく。まるでテストのような設問が並べられているが、難なく操作は進む。
 人事部に入る前、バンビーズの皆さんや、他の部署の人たちにミッチリ教え込まれた分野であった。
 そういえば、筋が良いとか、褒められたような気もする。もう過去の話だけれど。

 「出来ましたけど…」

 なまえは訳も分からず、キルゲを見上げた。彼は敢えて感情を隠すような、不自然な無表情を浮かべて、なまえの隣に腰掛けた。

 その瞳は落ち着き払っていた。サングラス越しでも分かるほど、真っ直ぐに視線をなまえへ向けて離さない。
 まるで軍刀の切先が、なまえに差し向けられたような鋭さ。

 「単刀直入に申し上げます」
 「は、はい」
 「広報デザイン部に異動、しませんか?」
 「えっ」

 なまえはあまりの展開に、3センチくらい椅子から飛び上がったような気がした。
 広報デザイン部に、異動。だとすれば、直属の上司はあの人だ。

 「エス・ノトは即戦力を希望していまして」
 「はあ…」
 「広報デザイン部で必要なスキルも満たしていましたし」
 「あ、今やった作業って適性検査みたいな…」
 「そうです。それになまえさんなら太鼓判を押して即戦力の人材と紹介出来ますしねえ…」
 「えっと、」

 気持ちは揺らぐ。アンバランスに、天秤がぐらりと傾くのが分かる。

 「まあ、私としては惜しい限りですが」

 キルゲは苦笑いをした。白い歯がちらりと覗く。痩せた頬が引き攣るように持ち上がる。

 「あの、異動するかは、すぐに決めなければいけないでしょうか」
 「エス・ノトからしたら、そうでしょうね」
 「ですよね…」
 「大きい決断でしょうから、一晩考えてください」

 それに、とキルゲは付け足した。

 「広報デザイン部に異動して、水が合わなければ戻っておいでなさい」

 翌日、なまえは自分のデスク周りの荷物を纏めて台車に乗せて、フロアを後にした。
 水が合わなければ、戻ればいいのだ。







 戦闘、開始。
 朝の朝礼も待たず、慌ただしい時間が始まる。

 「レイアウト調整、4パターン。ヲ願い」
 「はい」
 「資料ハ此れ。早ヰト、嬉シい」
 「分かりました」

 広報デザイン部に配属となったなまえは、エス・ノトから貰った指示を元に作業を進めて行く。指示書とデスクトップ画面を交互に見つめる。
 平和な人事部と違って、あっという間に時間が進んだ。急ぎ仕事だと言われても、慣れない仕事に取り掛かれば時間は溶けるよう無くなってゆく。

 ちらりとエス・ノトを見る。彼はやはり変わらない。神業とも呼べるペースで手を進め続けている。怪物のデスマーチみたい。

 デザイン広報部は、とんでもなく忙しい。宣伝材料の納期管理、デザイナーとの打ち合わせ。宣材イメージの擦り合わせ。企画の見直しが入ったら、詳細変更、案の校正。などなど。
 要は企画室バンビーズの作るブランディングイメージと、デザイナーの案の間で揉みくちゃにされるお仕事であった。

 目まぐるしくデザインと文字が入り乱れる。
 昼休みすら、悠長に休んで居られない。カップ麺の出来上がる3分待つ間にメールを一つ返すのが当然なのだと、たった3日で刷り込まれた。

 「ノトさん、もう納期誤魔化しきれません」
 「癪ダケド、謝ッテミヨウか」

 なまえとエス・ノトはズルズルとカップ麺を啜りながら作戦会議。
 作戦会議も、一言二言交わすうちに、暫く回答待ちだった資料がメールで届く。

 「あ!これ急ぎのやつですよね」
 「…ヤット、来た。チョット開ヰて」
 「はい。…あれ?添付資料が、」
 「?」

 パソコンの画面が固まる。いくらクリックしても、何一つ動かない。続けてクリックするも、手応えはない。

 「おかしいな…」
 「…」
 「あっ、開いた!」
 「見セて」

 シーフードのカップ麺を啜るエス・ノト。醤油味のカップ麺を啜るなまえ。2つの匂いが混ざり合うくらいの距離で、2人は資料を確認する。

 「どうですか?」

 エス・ノトはひとつ頷いた。

 「修正箇所モ合ッテる。此レデ納品ニシヨう」
 「はい!では先方に受領した旨のメール送ります」
 「助カる」

 このまま、ハイタッチでもしたいくらいだった。しかし、気まずそうに立ち上がった新入社員がそれを遮ってしまう。

 「リーダー、エキュージョンから連絡です…」
 「僕ガ出る」

 なまえは、エス・ノトの電話を盗み聞きしながら、一緒に資料探して電話対応。あっという間に時間は過ぎ、お昼を再開する頃、カップ麺は伸び切っていた。
 ふと顔を見合わせて、どちらからともなく、お互いのカップ麺の中身を見せ合った。

 「うわあ、スープ全部吸ってる」
 「終ワッテる…」
 「油まで固まってますよ、ほら」
 「最悪」

 本当に、最悪。
 でも、これが仕事を頑張った証でもあるのだ。あとほんの少し踏ん張れば、出口も見えている忙しさだし。

 とはいえ、5人分の働きをたった3人で捌くのだ。しかも、内2人は素人がやるのだから、エス・ノトへの負担は恐ろしい程に多い。

 だが、なまえだって真面目に会社員をやっていたのだ。忙しいのも慣れれば平気。的確に質問に答えて指示を出すエス・ノトの言う通りにやれば、何ひとつ問題は無かった。

 ただ、どうしても休憩は必要で。

 「誰モ居ナい?」
 「居ない!」
 「突撃」

 終業後、誰も居ない社員用打ち合わせスペースにて。新入社員を定時で帰して、すっかり疲れた2人。スパイのような動きで、このスペースにやって来た。
 ここの打ち合わせスペースにはフリードリンクがあり、お茶やらコーヒーが無料で飲めるのだ。

 お目当ては紅茶。ホットで淹れて、たんまりガムシロップとミルクを入れる。体に悪そうなミルクティーを飲みにやってきたのだ。
 エス・ノトはガムシロップとミルクをガッと一掴みして、全ての封を開け、紅茶に垂らしてゆく。
 もし、昼間他に人が居たなら出来ない、少しだけ悪い事をしている。
 
 「ノトくん、ガムシロ何個入れた?」
 「8」
 「それは多過ぎでしょ」
 「ミルク、7個」
 「それさあ、紅茶の味、する?」
 「…血糖値ガ高騰スル味、スる」
 「うわ…」

 エス・ノトは崩れるよう椅子に腰掛け、「甘過ギる」と舌を出した。

 「だろうね」
 「なまえ、コレ半分アゲる」
 「要らなぁい」
 「要ラナヰ…ダッて…?」
 「頑張って飲みなよ」

 終業後だから、敬語は使わないのが暗黙のルール。エス・ノトの向かいになまえは腰掛ける。
 甘過ぎるミルクティーをチビチビ飲み進めるエス・ノトの横顔は、いつもより子供っぽく見えた。

 「飲むっていうより、啜ってるね。ミルクティー」
 「啜る…?…ススルフォラス…」
 「え?何?」
 「別に…」
 「あ。そう…」

 暗い社内はシンと静まり返って、自販機の低いモーター音だけが響く。

 「そろそろ忙しいの、終わらないかな」
 「無理ダね」
 「もう体壊しそう」
 「セロテープデ直シテアゲる」
 「やだよ。それにそんなんじゃ治らないよ」

 暗い部屋に、2人きり。何が起こるわけでもないまま、ダラダラと会話をするうちに夜が更ける。

 「そろそろ帰る?」
 「然ウダね。帰ロウか」
 「あ、カップとか、ゴミ捨てた?」
 「捨テた」
 「よし!荷物取りに行こ」
 「なまえ、僕ノ荷物取ッテ来て。此処デ、待ッテルカら」

 エス・ノトはぐったりと椅子に凭れ掛かり、比較的可愛い声を出した。
 だが、その手には乗るまい。

 「やだ。じゃ、私だけ先に帰るから」
 「何、ダッ、て……?」
 「ばいばい!またね!」

 なまえはエス・ノトを置いて急足に廊下へ向かう。するとエス・ノトはシュバッと音を立てて立ち上がり、不気味に揺れながらなまえを追い掛ける。

 「なまえ、置ヰテ、行カナヰで…」
 「こわっ!やだ!」

 長い廊下で鬼ごっこが始まる。「待て」と手を伸ばすエス・ノトのシルエットは完全に妖怪そのもの。

 「やばい、捕まるっ」
 「アはっ、アはっ」

 ポン、と肩に手を置かれて、なまえは諦めて立ち止まる。息を荒げたまま、廊下の壁に凭れて休憩。エス・ノトも同じようにして壁にベタ、と張り付いた。
 ふと反対側の窓の外を見ると、行き交う人の影が街灯の明かりをチラチラと遮り、星のように瞬いた。
 我々も、帰らねばなるまい。

 「仕方ない。一緒に帰ってあげよう」
 「嬉死ヰなァ」
 「声、死んでるよ」
 「バレた…」

 私はエス・ノトの手を引いて、わざと遠回りをして、荷物を取りに行く。


(つづく)

ススルフォラス:甘さに怯えたエス・ノトの最終形態を指す言葉


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