※フォロワー様が原案の捧げ夢です

 東京都、大手町。日本中の大企業が軒を連ねるオフィス街の一等地である。大手町の目抜き通りを横切って、落ち着いた路地の中へ進むと、少し目立つバルがあった。
 店の軒先にはテラス席もあり、赤い突き出しのテントや、軒先に飾られた花々が人々の目を惹いている。
 街が宵闇に沈む中、オレンジの小さな豆電球が店内を柔らかく照ら出していた。BGMに薄く流れるピアノジャズも相まって、ここだけパリの街角のよう。遠くに臨むのは東京タワーではなく、エッフェル塔にも見えてしまう。
 夜に灯る光は魔法のように、街を煌めかせている。

 そのバルは満席に近いようで、カウンター席と、テラス席にポツポツと虫喰いのような空席があるばかり。店員さんは忙しそうにくるくると立ち回る。

 まだ夜も浅いというのに、テーブルの殆どが、とある団体客によって占領されているようだ。

 「陛下ってさあ、部署作っては解散させるの好きだよね。何、アレ?」

 とある団体客、つまり株式会社シュテルンリッター社(東証プライム上場企業)の内の1人、ジゼル・ジュエル。彼女は隣に座るバンビエッタに熱々のピザを食べさせながら、甘く溶けるような声でボヤいた。

 なお、読者諸君もご存知かと思うが、彼女の言う“陛下”とは、株式会社シュテルンリッター社の敏腕社長、ユーハバッハの事である。

 バンビエッタは「あっつ!」と喚いたものの、ジゼルに無理矢理押し込まれたピザ生地を吐き出す術もなく、熱さに耐えながらヒーヒー言いながら、モチャモチャと咀嚼した。バンビエッタの可愛らしい瞳には大粒の涙が浮かんでいる。

 「知らね。巻き込まれる俺達の事考えてねえよな、あの豚野郎」

 リルトットは大皿のグラタンを独り占めしながら答えた。もはや陛下を、あの豚野郎呼ばわりである。
 なんとまあ、見た目に似合わず大胆不敵なのだろうか。

 「私も、アレは効率が悪いと思うの…」

 ミニーニャも同じく大皿のパスタ(2人前)を独り占めしながら、可愛らしく呟いた。口調こそ柔らかくとも、社長に対して一刀両断に切り捨てている。
 しかしキャンディスだけは、うーんと唸ってから、意志の強そうな美しい瞳をパッと開いて「でもさァ」と言った。

 唯一、この流れに反旗を翻すようである。
 
 「アタシも部署の解散でさ、半年で3回は異動させられたよ。苦労したけど、陛下にもそれなりの考えがあるんでしょ?」
 「え、じゃあ考えって何?ボク、分かんないよぉ」

 ジゼルは甘えるような声で詰め寄った。やっとピザを飲み込んだバンビエッタが「ていうか!」と声を上げると、今度はキャンディスがピザ生地を彼女の口の中に押し込む。
 バンビエッタが話し始めると長いのだ。口封じには食べ物しかあるまい。

 「もがっ、あつっ!」
 「いやホラ、新規開拓?みたいな…」
 「部署作っては解散だよ?新規開拓じゃないじゃあーんっ!」

 キャンディスは「ウッ」と言葉に詰まり、ソファの背凭れに身を預けた。
 リルトットは大皿を綺麗に平らげながら、可愛らしい顔を渋く曇らせた。

 「大体が横文字のよく分かんねえ部署だしな。センスが無えよ、あのダボカス。何がニューエグゼクティブプランニングソリューションだよ、クソッタレが」
 「うわあ、言うじゃァん!」

 キツい毒舌に乗るのはジゼル。
 それに可愛らしく頷いたミニーニャはフォークを置いて、過去を思い返すよう、天井を仰いだ。

 「…私たちも、やっと企画室って名前に落ち着いたものね」

 バンビエッタを除く4人が「ね〜!」と頷く。リルトットの言う通り、ニューエグゼブティブナントカだとか、戦略プランニング部だとか、彼女たちのチームは、コロコロと部署名が変わったのだ。バンビエッタはまだアツアツのピザと格闘している。
 「あっ」とジゼルが手を叩き、とある可愛い女の子を指差した。

 「しかも企画室って名前になってからさァ、なまえ、人事課に取られたしィ?」
 「そーだ。なまえ取られちゃったんだよね」
 「また、戻ってきて欲しいと思うの」
 「アイツにやらせてえ仕事クソ溜まってんだけどよ」
 「ふが、あっつ、なまえ?元バンビーズよね?」
 「そォだよ」

 5人分の可愛らしい瞳が、遠くのテーブルの隅に座るなまえへと向けられる。

 なまえ。
 入社歴数年の可愛らしい女の子である。元はバンビーズ(通称)、もとい企画室(正式名称)の名マネージャー的存在であった。
 営業戦略やら企画やら、マーケティングに勤しむバンビーズの事務作業のお手伝いしていた女の子。この子が中々素敵であった。
 気難しいバンビーズ全員と、楽しくお仕事をしていたのだ。
 そんな人材、中々居たもんじゃない。しかも新卒の割にお仕事が早いこと。仕事の飲み込みも良けりゃ、愛想も良い。見様見真似でサクサク仕事を覚えちゃう即戦力。

 しかし。今や事務作業は全て簡略化されてしまった。ペーパーレスやら印鑑レス、時代は川の流れよりも早い。
 陛下の御判断により、このご時世にマネージャー的なアシスタント業務は不要だろうと決裁が下された。なまえは聖別(※社内用語である。突然の異動や、突然の解雇の事)されてしまった。

 彼女はあっさりと企画室の辞令を喰らい、バンビーズから離されてしまったのだ。

 ここで、陛下の悪い癖が出た。
 次になまえが配属された部署があったのだけれど、陛下の気まぐれで配属後1週間で部署解体。重ねて配置換えを行っても、2、3ヶ月したらその部署は解散。ビルの上から下まで大移動。デスクだって定まらない。
 良い加減、なまえもすっかり参っていた。仕事を覚えようとした途端には、解散。異動。その繰り返しだ。
 折角の有能社員だというのに、陽の目を見なかった。

 そんな折になまえは、人事部のボス、キルゲ・オピーと面談をした。
 今度は何処の部署に配属しようかと、聞き取り調査のような面談が行われた。適正テストやら、簡単な質問を経て、なまえはあのキルゲ・オピーに気に入られた。鬼軍曹と名高い、あのキルゲ・オピーにである。

 話はトントンと進み、翌日には人事部へ配属と相成ったのだ。

 斯くして、なまえはやっと安定した自分のデスクを確保できた。お陰様で、今日まで真面目にお仕事に励めたようだ。

 さて、バンビーズの話題に上げられたなまえ。遠くのテーブルで、のほほんと楽しそうに笑っている。
 彼女の隣には人事部のボス、キルゲ・オピー。向かいには真面目一徹でお馴染み、蒼都。斜め向かいには、お偉いさんのナックルヴァール役員。

 なんとまあ、会社の中でも選りすぐりの良い男達が勢揃いしていた。

 「あれ、なまえちゃんって人事課歴長いんだっけ?」

 ほろ酔いのなまえに、幹部役員のアスキン・ナックルヴァールは声を掛けた。
 彼女はやや伏せていた瞳をパッと開いて、真正面から色男と向き合った。

 「まだ2年目です」
 「あ、じゃあ大体はバッチリだ」
 「まさか。キルゲさんのお陰で、どうにかなってます」
 「そォ?殊勝だねェ。良い部下だ」

 なまえは「いやいや」と首を横に振るも、彼女の隣に座るキルゲは「良い部下のお手本です」と勝気に微笑んだ。

 「ホラ。上司のお墨付きだ」

 まるでご褒美と言わんばかりに、アスキンは大皿のローストビーフをなまえのお皿に取り分けた。

 「!ありがとうございます」
 「たくさん食べな」

 アスキンは優秀な部下に軽く微笑んだ。本人は気づいちゃいないけれど、まるで俳優の微笑みである。
 その艶やかさ、華やかさ。夜のアルコールも相まって、どうしようもなく人の心に毒を巡らせそうな、危うい微笑みであった。

 隣でそれを見ていたキルゲは、一抹の不安を覚えた。なんというか、この毒々しい男になまえが惚れてはいけない気がした。
 2人の間で交わされた視線が、悪い恋愛劇の幕開けに思えてしまった。

 キルゲもまた別な大皿から、サーモンのマリネをなまえのお皿に取り分けた。せめて、食べ物で彼女の意識を逸らさねばなるまい。
 案の定、なまえはアスキンから目を離して、一対の美しい瞳をキルゲへと向けた。

 「キルゲさんも、ありがとうございます」
 「これ、好きでしょう?」
 「はい!」

 今度はキルゲの美しい微笑みがなまえを捕らえた。
 オレンジの照明に照らされる白い頬は滑らかで、微笑めばまるで百合の花が静かに綻ぶよう。
 仕事中とは違って、距離も近い。仄かに香るアンバーが鼻先をくすぐる。なまえとキルゲで、社内の禁断の恋でも始まりそうな甘ったるい空気が漂っていた。

 ここにはもう一人、良い男が。
 無口ながらも見目麗しい、安全品質部のトップオブトップ、蒼都だ。
 あの子の笑顔を向けられてみたい。負けていられない蒼都は、レバーパテの乗せられた小さいクラッカーを数枚なまえのお皿に忍ばせる。

 「ありがとうございます、こんなに一杯…」
 「僕からの気持ち、受け取って」

 何の気持ちだよ。
 そもそも、大皿から取り分けたクラッカーだろうが。誰もがこう突っ込みたいのに、蒼都の微笑みで誰もが閉口した。

 気高い狼の一瞥とも言えようか。
 流し目のようになまえをチラリと見て、見間違いかと思う程、ほんの一瞬だけ口角を上げた。黙って座っているだけでも、誰もが息を呑むような美男子だ。刃物のように鋭い視線が、僅かな熱を孕んで、柔らかく弛んでいる。

 これに心を揺さぶられぬ女が居るのであろうか。

 意味ありげにも思える視線を3方向から受けて、なまえはふと視線を落とした。
 白い丸いお皿には寄せられた好意の量を示すよう、食べ物がてんこもり。

 「お皿が、一杯になってきました…」

 なまえの取り皿だけ、食べ放題のプレートみたい。4人でお皿を覗き込めば、小さく笑いが溢れる。
 
 「モリモリにしちゃったねェ…」
 「なまえさん、頑張って食べてくださいね」

 アスキンも、キルゲも笑いを堪えながらグラスに口を付けた。蒼都は自分も張り合うよう、野菜のグリルを男共の皿にポイポイ放り込んだ。

 「僕達も頑張ろう」

 蒼都の瞳はすっかり鋭さを取り戻し、ボケとも真面目とも取れる一言を放った。

 「何を頑張んの?俺ら」

 グリルをつまみながら、アスキン気怠げな声でこう問う。流れるように、新しいワインボトルが開けられる。

 「たくさん食べよう」
 「給食のスローガンみたいですね」

 やはり真面目一徹。蒼都がこう答えると、キルゲは笑いを含みながら同じくグリルに手を付けた。

 「うわ、懐かしい。七夕ゼリーとかさァ、出た?」
 「ありました」
 「あったな」

  なまえもローストビーフを口でモゴモゴしながら、ウンウン頷く。まるでリス。それかハムスター。
 男ってのは、こういう飾らない可愛らしさに心を撃ち抜かれるらしい。
 誰もが胸をキュンとさせつつ、可愛らしいなまえを横目に見ながら、男共の給食トークが始まる。

 「クレープは出ましたよね?」
 「ああ。苺とオレンジの味のか」
 「いえ。ブルーベリー味です」
 「うっそォ。そんなんあった?」
 「ありましたよ。牛乳に液体のコーヒー入れるやつはどうです?」
 「あった」
 「え、待ってね…。思い出せねえ…」
 「ありましたよね?あれ最初に一口牛乳飲まないと、コーヒーが逆流して溢れませんでした?」
 「僕、毎回一口どころか半分くらいまで飲んでたぞ」
 「………あっ、俺も段々思い出してきた。分かった!チューブみたいなヤツだろォ?」
 「それです」

 男たちのさっきの微笑みが台無しになりそうな会話だ。夜の妖しいムードも一転し、話題は小学生レベルに。そのうちバトル鉛筆やら、匂い付きの消しゴムの話でも始まるのではあるまいか。

 「この給食に出た出ないって、地域差ですかね?世代差ですかね?」
 「僕はソッチ側と世代差がありそうだな」

 蒼都は恐れる事なく、キルゲとアスキンを指差した。

 「そうね。蒼都ちゃんと俺らは世代差あるね」
 「おや。私と幹部役員殿が、まるで年寄りのようですね」
 「いや俺達こんなピチピチじゃねえだろ…」

 蒼都に比べれば、社会の荒波に揉まれて、狡猾さやスマートさ、根回しの大切さやら、落ち着きを得つつある世代である。
 まだ朝ドラの主人公格も出来そうな蒼都に比べれば、ピチピチとは言い難いかもしれない。

 「彼、そんなにピチピチですか?なまえさんならまだしも…」
 「おい。人事部の癖に、それセクハラ発言じゃあないか?」
 「…しまった」

 キルゲはへなへなと頭を垂れた。両手を組んで額を預ける。アルコールのせいだろう、珍しく失言に近いものが口から飛び出てしまった。しかし日頃から思っていた本音かも知れない。
 キルゲは顔を少し傾け、サングラスの隙間から、なまえの顔をチラリと覗いた。

 「…申し訳ありません。なまえさん、先程の発言、忘れて頂けませんか?」
 「忘れらんなくねェか?ねえ、なまえちゃん」
 「なまえ、酒を飲むと忘れられそうだが…飲むか?」

 アスキンは訝しげに首を傾げる。蒼都は何故かキルゲの肩を持つよう、ワインボトルをなまえへ差し出す。
 やっとお皿を空けたなまえは首を横に振って笑った。

 「大丈夫です。すぐ忘れますし、全然セクハラじゃないですよ」
 「いえ、企業倫理ルールブックの7ページ第3項に違反しています…」
 「細かッ!よくそんなに覚えてンね…」

 すっかり落ち込んだキルゲに、「本当に大丈夫ですから!」と焦るなまえ。キルゲの細かさに引くアスキン。また沈黙を守り始めた蒼都。
 次第にテーブルの空気が凪いでゆく。これ、意外と居心地か悪い。アスキンはソワソワしちゃったので、とりあえず紅一点のなまえに話題を振ってみた。 
 
 「つーかなまえちゃん、大丈夫ゥ?なんっかこのテーブル、男多くねェ?」

 なまえの周りには男しか居ない。お隣もお向かいも、斜め向かいも全員男。
 ホントは居心地、悪いのでは?
 しかし他に可愛らしい女の子といえば、遠くのテーブルのバンビーズくらい。あっちはあっちで大いに盛り上がっていて、今は5人で大きなパフェをモリモリ食べていた。

 「いえ、皆さん優しいので全然…」

 なまえは晴れやかな笑顔で、こう答えた。
 なんと可愛らしい事だろう。なんなら「今日はすごく楽しいです」と言うものだから、もう撫でくり回したいくらい、可愛い。
 なんて素直で良い子なの!
 アスキンが「そォ?じゃあもっと何か頼みな?」と言おうとした瞬間であった。

 落ち込んでいたはずのキルゲは、突然ガバッと面を上げた。そして真っ直ぐにアスキンを見据えて、恐ろしい一言を放った。
 
 「では、ナックルヴァール役員に、抜けて貰い〼」
 「え、なんで?」
 「このテーブルに男が多いので、排除致し〼」
 「うそん…」

 焦った。
 アスキン・ナックルヴァールは焦った。
 嘘。この話で、こんな流れになる?
 しかしここに味方は居ない。アスキンの隣に座っていた蒼都はガタ、と椅子を引いて立ち上がる。

 「言い出したお前が悪い。確かに男の割合が高い。排除だ」

 蒼都はスッと音もなくアスキンの背後に回り込み、腕を掴んで立たせる。まさかの退場である。仕立てが良く、光が当たると艶やかに輝くスーツに嫌な皺が寄る。

 「ちょ、ちょっと!普通役員に忖度しねェ!?」
 「陛下以外は皆平等だろう」
 「ええ。逆に平等ですね。抜けて貰い〼」
 「マジかよ!えっ!?」

 蒼都はグイグイ肩を押し、アスキンは遠ざかってしまう。酔った勢いってのは、どうしてこうも嫌な方向に転がるものか。
 驚いたなまえが「そんな…」と名残惜しく立ち上がるも、幹部役員はバンビーズに両手を上げて迎えられた。退場完了。

 「か、可哀想…」

 なまえは一抹の責任を感じたものの、キルゲに「お忘れなさい」とワインを注がれてしまった。
 仕方ないのでなまえは素直に口を付ける。果実酒のような甘さと、爽やかに抜ける炭酸。アルコール度数が高いのに、つい次の一口を欲してしまう。

 「あ、美味しいです」
 「でしょう?その調子です」
 「もうっ」

 キルゲは店員さんにチェイサーを頼み、なまえの前に置いた。
 
 「あの、ありがとうございます」
 「あまり酔っても、困りますからね」
 「…気を付けます」
 「ええ。狼だらけですからねえ、このテーブル」

 キルゲが意味ありげになまえを盗み見る。その意味も分からず、なまえはまたワインを一口。
 飲むたびに頭の奥がクラクラしそうな程、ワインの度数は高い。それでもジュースより甘くて、罪を重ねるようなほろ苦さを含んでいる。唇はグラスから離れず、飲んだワインの赤い色が、皮膚を透かして頬や首筋に浮かび上がるようであった。

 夢見心地に重い目蓋が、視界を遮る。
 流石にまずいと、なまえがチェイサーに手を伸ばした瞬間であった。

 「っあ、」
 「…」

 なまえの指先は、グラスではなく氷のように冷たい指先に触れた。

 いつのまにか、ポカンと空いた席にエス・ノトが座っていた。彼は広報デザイン部のトップだ。何かと名前が聞こえてくる優秀な社員。
 彼は丸い瞳を緩やかに細めて、なまえへチェイサーを押し付けるよう手渡した。

 「ありがとう、ございます…」

 ニコリともしないエス・ノトは、ひとつ頷くのみ。
 なまえは戸惑っていた。何故、彼がここに。冷たい水を飲みながら、なまえは彼の美しい黒髪をボンヤリ眺めていた。

 「おや、結局また男ですね。なまえさん目当てですか?」
 「…」

 黙りこくったなまえを置いて、キルゲは上機嫌にエス・ノトへ声を掛けた。
 ここで彼エス・ノトは、やっと一つ笑った。マスクを外さずとも、その表情は瞳の動きだけでよく分かる。
 彼は細長い指で、遠くを指差した。その先には大声で笑うマスク・ド・マスキュリン。エス・ノトは奴から逃げてきたと、器用にハンドサインだけで示した。

 ヤレヤレ、と言わんばかりにエス・ノトは手で虫でも払うような仕草をした。
 意外にも人間臭い表情をするものだと、なまえは驚いた。
 いつも涼しげな人だと思っていたけれど、今は少し違う。如何にも迷惑そうに眉間に皺を寄せ、静かなテーブルに席を見つけ、ホッと瞳を閉じている。

 「彼方が随分と五月蝿かったようですねえ」
 「鼓膜ガ破レた」
 「重傷ですね」
 「労災、降リる?」
 「まさか」
 「ケチ」

 エス・ノトは丸い瞳を、退屈そうにすうっと細めた。
 知っていたイメージと、違う。この人って、もっと静かじゃなかったかしら。

 なまえは、昔見かけたエス・ノトの姿を思い出していた。

 あれは一年くらい前だろうか。
 なまえは仕事中のエス・ノトを見かけた事がある。彼は広報デザイン部の隅っこで、大きなデスクを1人悠々と使っていた。
 ひっきりなしに手は動くのに、表情は涼しげ。汗臭く働く他の社員とは、明らかに一線を画していた。

 なんだか雰囲気のある人だな、と眺めていると、新入社員らしき男の子が焦った様子でエス・ノト駆け寄った。それからエス・ノトに質問していたようで、指示を貰うと頭を下げて、小走りにオフィスを駆け抜ける。
 他にも数人、似たように焦って彼に助けを求める人が来ては、去ってゆく。
 しかし、当の本人は至って冷静に仕事を捌くだけ。
 
 彼はあまりに淡々としていた。しかも、デスクに積まれた資料の数は膨大で、視線も手元も動きっぱなし。
 彼の事を良く知らないのが惜しくなる程、凄い人だと確信した。あれ程の資料を抱えながら、他人の世話までしているのだ。私と変わらない年齢だろうに。
 恐ろしいまでに、できる人だろう。口を開いたら、何を話すんだろう。私と会話レベルが合うか、そこから疑問だったけれど。

 ついジッと見つめてしまうくらい、なまえはエス・ノトに魅入られていた。

 なまえは思った。
 彼だけ、違う世界で生きているみたいだ、と。
 彼の周りにだけ、誰にも見えない透明な膜が張られているみたいだった。その中には、どこまでも澄んだ、冷たい水が満たされていて、彼はその中にたった1人沈んでいるよう。
 強いて言えば、エス・ノトは1匹の美しい魚だ。無駄のない身体で、滑らかに水中を泳ぐのだ。音も無く、声も無く海の深いところへ潜れる、きれいな魚。
 
 簡潔に言えば、なまえにとってエス・ノトは別世界のすごい人だったのだ。

 突然お近付きになれるチャンスが巡ってきて、嬉しい反面、ひどく戸惑っていた。
 彼に話しかけたい。
 でも、何から話を切り出せば良いんだろう。お酒の話か。それとも仕事の話か。髪の毛、いつも綺麗ですね。いやいや、それはちょっと変。好きな音楽は?着てるTシャツのブランドは?
 これ、いきなり突っ込んだ話題じゃない?
 悩めば悩む程、なまえの唇は渇いて、ますます動きが鈍くなる。

 「デザート、食べた?」

 なまえが思考の渦に呑み込まれている間に、エス・ノトはその黒く潤んだ瞳を彼女に向けていた。
 なまえはそれに気付かなかったものの、エス・ノトは決して見えないマスクの内側で薄い微笑みを湛えていた。

 一対の瞳はまるで夜空の雫を垂らしたよう。店内の照明が反射して、彼の瞳に細かい光が散らばる。
 真夜中、月夜に煌めく海の泡は、きっと此れに似ている。儚くて、冷たくて、目が離せない。時が止まって、なまえの耳の奥で、穏やかな波の音まで聞こえる心地がした。
 しかし、彼にうっとり見惚れている時間は無い。なまえは肩を跳ねさせて、声を裏返しながら反射的に返事をした。

 「えっ!あ、いえ、まだ、ですっ」
 「…ソう」

 焦りを隠せないなまえの表情を見て、エス・ノトはクスクス笑った。しまった。
 なんか、私、ダサい。既にアルコールで赤く染まった頬が、ますます赤くなるのが分かる。
 もう顔を手で覆いたいくらい恥ずかしいのに、エス・ノトに差し出されたメニュー表を両手で受け取ってしまった。
 赤い頬は、隠せない。

 「ドレガ良い?」
 「えっと、」
 「僕、ティラミス」
 「えっ、早い!待って下さいね…」

 プリン、ジェラード、ティラミス、パンナコッタ、カッサータ。
 どれもこれも気になるものばかり。なまえはウンウン唸って「プリン、で」と決めた。しかし。

 「なまえさん。カッサータもありますよ。ドライフルーツが沢山入ってるみたいですね」
 「えっ」
 「パンナコッタ、苺ノソースカカッテる」
 「うそっ」

 エス・ノトとキルゲはなまえを誑かすように、メニューを指さしてゆく。どれもこれも美味しそう。目移りする女の子の瞳の輝きは、さながらダイヤモンド。
 このチカチカ光るなまえの瞳にやられた男は、このテーブルにもう一人。

 「僕もデザートでも食べようか。なまえの気になるやつで良い。俺は一口貰えれば良いから、好きなのを選べ」
 「蒼都さん…!」

 結局、このテーブルにはデザートが4個届けられた。なまえは全員から一口ずつ貰ったり、宣言通りの蒼都から、デザートの残りを貰ったり。
 遠くからその様子を見ていたアスキンは、「愛されちゃって…」と、ウンウン頷いた。(余談だが、彼はバンビーズの生々しい女子トークを聞き続けて、心に小さい擦り傷が付きまくっていたらしい。)

 もし、人が感情を隠せない生き物だったとしたなら。なまえを囲む男たちは全員、嬉しそうに目尻を垂らして、口角をギュンギュンに上げていただろう。
 スイーツを食べる度、美味しいと感激した声を上げるなまえは可愛い。餌付けすると、脇目も振らず野菜を食べるウサギちゃんみたい。
 飾らず、気取らず。お酒のせいで少し奔放に振る舞う女の子が、男心を擽らない筈もなく。

 「美味シい?」
 「はい!」

 エス・ノトはなまえに釣られるよう、薄く微笑んだ。
 ゴールドに近い照明に照らされて、睫毛の影が頬に落ちる。細い鼻先の影が唇にかかる。白い肌は大理石のよう。触れれば冷たく、しかし滑らかなのだろう。
 なんだか、絵の中から飛び出して来たような人だと思った。少し現実離れした顔の整い方をしている。酔ったなまえは、マジマジとエス・ノトの顔を見た。
 見詰められたエス・ノトは数秒なまえの顔を見つめ返して、無感情にひとつ瞬きをした。

 「何?」
 「…えっと、」

 綺麗だなと思って!と元気よく答えようとして、やめた。
 まるで、ありきたりな口説き文句みたいだったからだ。では何と言うべきか。酔った頭はロクに回らない。

 「…えっと、」
 「…」
 「あの」
 「…」
 「、その」

 完全に出口を見失った。同じテーブルの仲間、キルゲと蒼都も助け舟は出さない。ほろほろと酔いながら、ただ成り行きを見守っている。
 全部お酒のせいにしようと腹を括って、なまえは最初に思い付いた言葉を吐き出そうとした。

 「っ、きれ」
 「ア。分カッた」
 「え?」

 エス・ノトはなまえの声に被せて合点した。それから、ヤレヤレと頭を振ってズボンのポケットを漁り始めた。「アッた」と呟いて薄っぺらい革のケースをポケットから抜き取る。

 そこから取り出されたのは、1枚の名刺であった。

 「僕、エス・ノト。広報デザイン部、チームマネージャー。陛下ニ叱ラレナヰヨウ、当タリ障リ無ヰ仕事ヲ心掛ケテヰる」
 「あっ、えっ!」
 「僕ノ名前、忘レテタデしょ?ダカラ、特別ニ教エテアゲヨう」

 彼はニッと笑って、私の手に名刺を握らせる。白地に青い会社のロゴ。そして中央にエス・ノトの文字。

 エス・ノト。私はこの名前を知っている。忘れる訳も、ないのに。
 なまえの胸の奥が、焦げ付くように熱くなった。
 あの日貴方を見つけてから、社内名簿で名前を調べたというのに。いつか話してみたいなと願っていたのに。
 なまえはそう言いたいのを堪えて、「覚えて、ます」と祈るように呟いた。

 「ソう。ナラ、良カッた」

 澄ました顔で、エス・ノトは飲みかけのグラスを持ち上げた。そしてなまえの方へ寄せる。
 
 「乾杯。忘レテタカら」
 「そう、でしたね」

 カチン、とグラスが当たる。店内の喧騒も掻き消えるほど、その音だけが響いて聞こえた。

 

  
 夜も深まった頃、やっと飲み会は解散した。
 そもそも、この飲み会は退社するタイミングが重なった、ノリの良い社員達数人が集まって始まったものだった。そこへ誰々を呼ぼう、誰々も来れるって、と輪が広がり、なまえとキルゲは揃ってお呼ばれしたもので、部署も年代もバラバラであった。
 しかし飲み会は意外にも盛り上がり、解散する時刻は、女の子が夜道を歩くには憚られる時間となった。
 
 なまえはキルゲに連れられて、タクシーに乗った。人の波の中、エス・ノトは音もなくタクシーに寄り、なまえに向かってバイバイと手を振った。
 なまえも車窓越しに手を振り返した。まるで、仲良しの人にやるように。

 「随分と仲良しですね」

 暖かい声色で、キルゲはなまえに声を掛けた。なまえはハッとして振り向くと、静かに頭を横に振る。その度に軽い頭痛がこめかみに響く。

 「いえ。明日には、他人行儀に戻る気がします」
 「そうですかねえ…」

 なんとなく、そう思った。
 だって、あのエス・ノトが自分と明日からも仲良くしてくれるとは思えなかった。
 彼が冷たい訳じゃない。信用出来ない訳じゃない。

 ただ、浮かれたくなかっただけ。
 酔いが覚めた時、彼が何も覚えていなかったとしたら。夢のように、海の泡のように、私を忘れてしまっていたら、少しだけ悲しい。

 彼は今日、気まぐれで此方を向いた。それだけだ。
 そう思わなければ、なまえは何かを取り逃すような気がして、落ち着かなかった。
 

 翌日。
 シュテルンリッター社は繁忙期が終わったばかり。昨日の飲み会の疲れもあり、ゲッソリして定時で上がりたい社員が出口にドッと押し寄せていた。

 企画書の提出を終えて、エレファント級に姦しいバンビーズ。
 定時で上がりつつ、今から取引先との飲み会に参加すべく腕を鳴らしているバズビー。
 あらゆる方面に気遣い根回ししまくってフラフラヘロヘロな幹部役員、アスキン・ナックルヴァール。
 品質チェックの試験を立て続けに行い、静かに瞳を閉じて限界を迎えた安全品質部の蒼都。
 取り急ぎ、元気いっぱいに退社のマスキュリンとジェイムズ。(彼らの役職はスーパースター)
 人事部の優秀な社員、キルゲ・オピーになまえ。そして、あのエス・ノト。

 最近導入された、駅の改札のようにピッとやって退勤するゲートは、以上の社員とその他社員の大勢を足止めし、大混雑を極めていた!

 「ちょっと!アタシ達を先に通しなさいよっ」
 「レディファーストも知らねえのか?このドグサレクソ雑魚社員共」
 「あぁん、僕潰れちゃうよおっ」

 可愛らしいバンビーズは、屈強な男共を肘でグイグイ押し遣る。彼女らのお通りだもの、本来なら誰もが道を開けるべきであった。
 しかし、死にかけでヨレヨレの社員も多数いた。

 「マジ俺もォ死ぬって…頼む、通してくれよ…」

 幹部役員、アスキン・ナックルヴァールである。彼はもう陛下から部下から取引先、各所に気遣い気配り御配慮申し上げて、クタクタになっている。

 「オイ!死にそうな奴、先通れよ。俺ァ急がねえからな」

 そんなアスキンを守り、ゲートへと背中を押す男がいた。通称バズビー。本名、ハザード・ブラック。
 なんたる漢気だろうか。他にもヘロヘロの社員の腕を引いては、ゲートへと押し込む。
 が、その漢気も虚しく、流星の如く現れたスーパースターが無理矢理ゲートに入り込む。

 「スーパースターは輝かしく退社ッ!星(セイッ)!星(セイッ)!星(セイッ)!」
 「ミスター!流石です!」

 マスク・ド・マスキュリン。そしてジェイムズ。2人仲良く騒がしく同時に社員証を『ピッ』とやって、輝かしいアフターファイブへと雪崩れ込んだ。
 
 全員、出口でワタワタ。
 あの人事部のボス、キルゲ・オピーはといえば、上手く人の波に紛れてひと足先にゲートの向こう側へ。ヒラヒラとなまえに手を振っている。
 取り残されてしまったなまえは小さく頭を下げて、軍人のようにピシッと真っ直ぐなキルゲの後ろ姿を見送った。

 前も後ろも人だらけ。なまえは人の波に揉まれて、ジリジリ進む列の遅さに耐えていた。

 「死にそうな奴…あ、オイ!エス・ノト!先通るか!?」

 列の前の方、バズビーの一言でなまえはハッとした。
 エス・ノト。彼が同じ列に居るのかと思うと、少し嬉しくなった。バズビーの視線を追うと、後ろの方で不気味にフラフラ揺れている男がひとり。
 人混みに押されているのに、彼はどこか涼しげだった。水槽の向こうで流れに身を任せる魚のよう。
 視線の先の彼は、バズビーの呼び掛けに首を横に振る。

 「最後デ良い」

 静かなのに、よく通る声だった。エス・ノトは押し出されるように人の波から抜けた。壁に凭れてジッと順番を待つ姿を見て、賢いなと思った。
 なまえも彼を真似して、流れに逆らう。人の波を抜けて、エス・ノトと同じように壁際で待とうと思った。一か八か、だけれど。
 また、もし話せたら。もし、昨日の会話を覚えていたのなら。いいや、どっちでも良い。どっちでも、良いんだけれど。

 列を抜けるのは案外簡単で、なまえはエス・ノトの隣にあっさりと辿り着いてしまった。彼はこちらにに気付くと、糸のように薄く開いていた瞳をゆっくりと丸くした。

 「何?」

 その声は、淡々としながらも柔らかかった。

 「私も、混雑は避けようかと」
 「ソう」

 大理石風の柱に寄り掛かり、2人で人の渋滞の列を見守る。10分と経たず、人混みは引き潮のように消えた。

 「空きましたね」
 「ジャア、行コウか」
 「はい」

 なまえとエス・ノトは社員証をピッとやってゲートを出る。2人の間に会話こそ無いものの、歩くスピードは不思議と揃っていた。
 そのままビルの前の通りまで出て、「では」となまえとエス・ノトは頭を下げあった。
 しかし、帰る方向は同じだった。
 そう、社員の殆どが同じJR線、もしくは地下鉄の駅を利用している。方向は大体同じだ。
 隣を歩くエス・ノトをチラリと見上げるなまえ。彼は何も話さないし、視線も合わさない癖に、なまえの隣をキープするよう歩いていた。なまえが敢えてゆっくり歩けば、エス・ノトも自然と速度を緩める。
 多分、駅まで一緒に歩いてくれるのだ。これはチャンス!
 なまえは少しだけ頑張った。

 「帰り、同じ駅…ですもんね」

 なまえは頑張って話しかけてみたのに、エス・ノトは何も言わない。不安になって彼を見上げると、こちらを見下ろして、マスクの下で笑っていた。
 瞳が不気味に弧を描いている。どういう感情なんだろう、これ。
 なまえが曖昧に微笑むと、2人の間に完全な沈黙が流れた。

 「…」
 「…」

 なんとなく、離れる訳にもいかず。かと言って、これという話題も見つからない。今更、昨日はありがとうございました、なんて言っても変だし。
 沈黙したまま歩いていると、最近通勤路沿いに出来たケバブ屋さんの陽気な「いらっしゃいませー」という大きな声が響いた。
 やっぱり、沈黙は気まずい。なまえは何か言い訳をするかのように、破れかぶれに話題を振った。

 「…最近、出来ましたね。ケバブ屋さん」

 もう独り言で良い。ラジオになってもいいから、場を繋ぎたかった。
 しかし意外にもエス・ノトは返事をした。

 「味ハ値段以下ダッた」
 「え!?…あっ、そう、ですか…」

 行ったんだ…。 なまえはそう思った。

 「量モ少ナい」
 「へえ…」
 「アノ店デ良ヰノハ、愛想ダけ」

 大きな瞳が忌々しいとでも言わんばかりに細められている。食べ物に対して、意外と言う。

 「意外と、言いますね」
 「何モ言ワナヰト思ッた?」
 「…はい」

 見上げたらまた瞳を細めて笑っていた。けっこう、不気味。
 でも、なんだか楽しそう。いつもより生き生きして見える。水の中で踊るように泳ぐ魚を思い出した。

 細長い指が、ビルの2階を指差す。

 「彼処ハ、値段ト味ガ同ジ位」
 「つまり、美味しいんですか?」
 「気ニナる?」
 「はい」

 エス・ノトは迷うことなく階段に足をかける。
 全面がガラス張りの、オシャレなお店しか入っていないビルだ。白く塗られた鉄骨の外階段が付いていて、少し急な勾配になっている。
 ヒールを履いているなまえは、手すりに縋らないと少し怖いくらい。

 一段目に足をかけた時、前を行く彼はピタリと動きを止めた。

 「階段、幅ガ狭ヰカら」

 彼は、振り向いて手を差し出した。
 おいで、と甘くて低い声に誘われる。
 ここでどうすれば良いか。そして、私はどうしたいのか。答えは簡単だ。

 貝殻みたいに薄くて白い手のひらを、わたしは握った。


(つづく)


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