▽くだり線 鈍行
※後半戦で爬虫類ちゃん、虫ちゃんが出演します。文字だけでも苦手な方がいましたらブラウザバックお願いします。
王は吠える。
「俺、何かしたかよ」
シャウロンは、決して瞳を揺らさなかった。凶暴な獣と対峙する調教師のよう、目の前の燃えるような青をジッと見つめて、「女はいつも被害者ヅラをするだろう」と言った。
獣の瞳の炎は、俄に燻った。
「そこまでは言ってねえよ」
「そうか」
「じゃなくて、俺が、アレだ。…なまえに何か…しちまったんじゃねえかと思ってよ」
「…フム」
珍しく弱気に視線を外したグリムジョーは、可愛いあの子の顔を思い浮かべている。シャウロンも同じように、あの子の顔を思い浮かべた。
可愛いよなあ…。じゃなくて!
ひとつ思い当たる事があったので、シャウロンは訥々と語り始めた。
「…例えばだが」
「言ってみろ」
「お前が何もしなくても、相手側から見たら」
「ああ」
「“何もしない”という事を“された”と、捉えられる事もある」
「…あ?哲学者ぶりやがって」
牙を剥いた野獣のよう、グリムジョーは息巻いた。お説教は嫌いなのだ。しかし、シャウロンだってそのくらい知っている。だから調子を崩さず、静かに続きを語った。
古い痛みが、鉄仮面の下に走る。
「違う。私が昔、女に振られた時に言われた言葉だ」
「………」
沈黙。
グリムジョーは低く唸るような「あー…」という声を絞り出し、舌打ちをして頭を掻きむしった。
「……アレだ。肉とか食うか?元気出せよ」
「もう元気だ。だが、あの日から悪夢しか見なくなったな…」
「オイ肉寿司あるぜ。元気出せって」
グリムジョーは珍しく自らメニュー表を持って、シャウロンにおススメした。
しかしシャウロンは今、ぼうっと遠くを見詰めている。意識は過去。古傷が疼いて堪らない。
「私のイチモツは飾りかと、詰め寄られたぞ」
「…ンな事ねえよ。テメェのは立派だ」
「…フム」
「それ出して歩いたら、銃刀法違反で捕まりそうだしなァ」
「…それは、誰でも捕まる。罪名は別だ」
「だから、テメェのは武器みてえって話だ」
「いや、貴様には劣るがな」
「俺だってエドラドには負ける」
「ああ…」
デカいもんな。
エドラドの野郎って、何もかも規格外なのだ。話題が下ネタに逸れたところで、男たちはやっと笑い合った。年を重ねたって、いつまでも男の子のまんま。
「しかし、上手くいっていないのか?なまえと」
「知らねえよ。俺が聞きてえ」
「ダメなのか。…まあ元気を出せ。肉寿司を頼もう」
「るッせェな、クソが!施しは要らねえンだよ」
「ひと皿で良いか?」
「あ?2皿頼め」
王様ってワガママ。でも、そんな所に人々は惚れてしまうのだ。シャウロンだって例外じゃない。
ピンポンを押すと、間も無く可愛らしい店員さんがやって来てハキハキとオーダーを取った。そして去り際にチラリとグリムジョーを見て、足早に立ち去った。
店員さんから甘い視線を向けられた当の本人は、そんな事には気付かず。恋人のなまえで頭が一杯。
王の名に恥じぬ、贅沢な男そのものである。
グリムジョーは少しヤケな気持ちになって、酒を飲み干した。
「クソッ、女ってめんどくせェな」
「昔から女に悩まされてたからな、お前は」
「…今は、昔のアレとは違ぇけどよ」
昔、グリムジョーには色々あったのだ。女の子との修羅場が。
いつも、どこに行っても。グリムジョーにはヤケに女の子が寄ってきた。
最初のうちは良かった。それが楽しかった。しかし年齢を重ねるうちに、煩わしさが増した。
惚れた腫れた、好きだ嫌いだで揉めまくった。グリムジョーにその気がなくても、女の子は必死。だからこそ、あらゆるすれ違いが生まれた。その末にビンタの一つでも喰らうのは、日常茶飯事。
更に三角関係が生まれると大変だった。警察沙汰寸前。女を取られた男って、すごく獰猛。
友達だと思っていた野郎達は、女絡みのトラブルでドンドン離れて行った。間男だとか、寝取り常習犯なんて渾名も欲しいまま。
ひとつの街から追い出されそうなくらい、人間関係が拗れた事もある。
どれもこれも、グリムジョーがカッコ良すぎるが故の出来事だった。
懐かしむような顔をして、シャウロンはグリムジョーを見遣った。シャウロンは王様の苦労を間近で見ていたのだから、色々知っている。
「随分とモテたからな、お前は」
「嫌味かよ」
「まさか」
シャウロンは軽く笑った。その笑顔に偽りの影は見えない。
「本当だとも。ディ・ロイがお前の失態…ではなく、武勇伝を聞いて、会いたいって騒いだのが始まりだろうに」
「そォだ。アイツ、誰から聞いたか知らねえけど、俺と飲みてえって騒いだんだよな」
「男も惚れるグリムジョーだとか、凄い噂だったぞ」
「気持ち悪ィな、その噂」
「火の無いところに煙は立たない」
「ますます、気持ち悪ィ」
女関係のせいで孤独に陥っていたグリムジョーの元に、頼もしい勇者たちが現れた。
奴らだ。あの飲み会のメンバーである。
グリムジョーの元に集った5人のソルジャー。
それぞれ、似たような過去を持つ猛者達である。
あらゆる修羅場を潜り抜け、あらゆる噂話を勝手にばら撒かれて、友人やら知り合いを失い続けた哀しい男たち。
自然と、傷の舐め合いのような飲み会が出来上がったのだ。言わば居酒屋に開かれた、むさ苦しいユートピア。
全てを超越したようなシャウロンの涼しげな顔を見て、グリムジョーはひとつ疑問を投げかけた。
「つーかお前らは女の話、無えのかよ」
「ある訳がないだろう」
「あっそ」
「むしろ、お前となまえの話で持ちきりだ」
「…ご苦労なこった」
「おい、肉寿司が来たぞ。話は後だ」
表面が炙られて、お肉の表面が脂でテカテカ光るお寿司がやってきた。
2人は飢えた獣のように、あっという間にそれをポイポイ口に放り込み、ハムスターのように頬を膨らませた。
そしてグリムジョーはまた、俺、なんかしたっけかなとなまえの顔を思い浮かべた。
グリムジョーは、可愛くて、照れ屋さんななまえが好きだった。
いじらしくて、恥ずかしがりで、すぐ顔が真っ赤になる。礼儀正しすぎて、最近まで“グリムジョーさん”と呼び続けていた。
このお堅さが、グリムジョーの荒んだ心を撃ち抜いた。
たまらん。
今まで寄ってきた女とワケが違う。可愛い。守ってやりてえ。庇護欲は煽りに煽られ、爆発した。今やお姫様に仕える騎士の如く、なまえにアレやコレやと世話を焼いていた。
ご飯に行きたいと言い出せぬであろうなまえに「飯行くぞ」と声を掛けた。定期的に連絡しては、美味しいご飯を一緒に食べた。食べまくった。
電話をして声色を聞いて、寂しそうな時。家に押し掛けは、夜に思いっきり可愛がってやった。次の日に足腰が立たなくなるくらい、それはもう、徹底的に可愛がった。
珍しく雑誌を読んだりして、女の子が好きそうなお店を見つけては誘ったり。そういったものに精通しているイールフォルトに、オススメを聞いたり。
そりゃあ、頑張った。
すごくすごく、頑張った。
まさか、それが裏目に出ているとは知らずに。
そもそも。付き合ってしばらく経つというのに、なまえはかなり控えめだった。
いいや、他人行儀であった。
唇も肌も重ねた仲だというのに、どうにも懐に飛び込んで貰えていない。なまえはグリムジョーと会うたび、不思議そうな、どこか警戒したような顔をしていた。これが1番の気掛かりだった。
会う度に嬉しそうな顔が見れなくて、コッチも辛いんだな。
しかし、いざ恋人らしい事をするとなまえの表情は柔らかく、嬉しそうになった。けれど、時折辛さを押し殺すよう俯く。
そして別れる間際は、寂しさと悲しさを滲ませている。それは単なる別れの寂しさではなく、もっと深い悲しみの色が見えた。
揺蕩う水面のように定まらぬなまえの表情に、グリムジョーは首を傾げた。
何故彼女は、辛そうな表情を浮かべるのか、と。
なまえを抱いたあの夜が、始まりだとグリムジョーは思っていた。
あの日、なまえはグリムジョーの女になったと、そう思っていた。
これは大誤算なのだけれど、愛の告白など今更要らないだろうと、本気でそう思っていた。
グリムジョーは、なまえを彼女だと思っている。
しかし、愛の告白を聞いていないなまえは、グリムジョーの事をセフレだと認識している。
本当は同じ気持ちなのに!
まあ、原因の8割はグリムジョーの落ち度。残り2割は、なまえが単身起こした脱線事故のせい。
お肉を食べて満足げなシャウロンは、ウーロンハイを飲んで「誠意」と言った。
「あ?セイイ?」
「そう。誠意だ」
「それがどうした」
「お前、なまえに対して誠意が足りてないんじゃあないか?」
「…誠意って、足りるもクソもあんのかよ」
ピンと来ていないグリムジョーに、シャウロンは怒涛の質問を浴びせた。
「まず、約束は守っているか?」
「守るっつーか、毎回俺が予定決めてる」
「浮気は?」
「してねえ。ンな素振りも見せねえ」
「割り勘にする頻度は?」
「アイツに財布出させねえ」
「遠出は?」
「まだ」
「…フム」
グリムジョー、受け応えは順調であった。
しかしここから、勢いは失速してしまう。
「ちゃんと褒めているか?」
「………。エロい、とかは」
「最低だな」
「悪ィか?褒め言葉だろうが」
「次から、可愛いと言え。お前の家族構成だとか、職場の話はしたか?」
「………」
「愛してると言った回数は?」
「………」
「ちゃんと車道側を歩いているか?」
「!当たり前だ、舐めんな」
「それは加点ポイントだな。で、なまえが髪を切ったら、気付いてやってるか?」
「………」
「ネイルも見てやっているか?」
「………」
「ホラ。お前のそういう所だ」
「………」
「足りてなさそうだな、誠意が」
グリムジョーは押し黙った。
確かに、色々と言葉足らずだったかもしれない。青褪めたグリムジョーを見て、シャウロンはおやっと思った。
「…お前、まさか」
シャウロンが何か言いかけた時、グリムジョーはそれを跳ね除けるよう口を開いた。いくら仲良しのシャウロンでも、これ以上のお説教は御免なのだ。
「つーかよォ、家族構成とか、職場の話って、要るか?」
「必要に決まっている。私なら、最初に書面にして相手方に提出しているぞ」
「気持ち悪ッ。だからお前、裏で市役所って呼ばれてンだよ」
シャウロンはロボットのように機械的に瞬きをしてから、放心したような声を出した。グリムジョーは、「やっちまったな」と後悔した。
「それは、初耳だが…」
「…忘れろよ」
「今更無理だな…」
「悪い…」
「市役所か…」
裏で市役所と呼ばれていた事を知ったシャウロン。グリムジョーにひとつ聞きたいことがあったのに、すっかり失念してしまった。
『まさかお前、なまえに好きだと伝えて忘れていないか?』
この重要な一言を言いそびれてしまった。
夜は、しんしんと更けてゆく。
グリムジョーは冷静な頭で考えた。
誠意を見せるって、結局手の内を明かす事だろう。職場はココで、家はココで、乗ってる車はコレで…と、なまえに伝える事こそが誠意だと結論した。嘘を付かなければ良いのだ。それこそが誠意。
付き合っているのに、なまえに自分の仕事について話した事が無いなと思った。
確かに良くない。彼女が不安そうな表情を浮かべるのも当然だ。懐に飛び込んで貰えないのも、それが原因の一端かも知れない。
市役所(シャウロン)の言う通り、真摯に職場の話でもすれば、なまえの重い表情は変わるのではないか。
残念ながら、肉食獣の視界は狭い。
縋るような思いで、グリムジョーは「今日、暇か?」とメッセージを送った。暫くすると、また他人行儀なメッセージが返ってきた。
しかしグリムジョーはニヤリと笑って、暗い店内のお掃除を始めた。イグアナと目が合うと、奴はクァっとあくびをした。
「座れよ」
「おっ、お邪魔します…」
なまえは相変わらず、自信なさげに椅子に浅く腰をかけた。古いパイプ椅子がギシっと軋む。狭いレジカウンターの中で、2人は膝頭をくっ付けるようにして向き合っていた。
「悪ィな、狭くて」
「や、ぜんぜん…」
物凄く狭かった。なまえは忙しなく視線を左右にキョロキョロ。色々聞きたいことがあるのだろう。
グリムジョーは自販機で買っておいた、小さいお茶のペットボトルを差し出して、どこから話を切り出すか逡巡した。
「一応、ココ俺の店」
「…あっ、そうなんだ」
「ヘビとか、イグアナとか、亀とか。その辺売ってる」
「たくさん居るね」
要は、ここは爬虫類専門のペットショップ。グリムジョーは、ここのオーナーってヤツをやっている。
なまえはぐるりと店内を見回した。既に閉店後の店内は、照明が落とされて薄暗い。
棚の中にも、夜が訪れているようだった。さっきまでは太陽光を模したライトが、リクガメのケースを照らしていたのだけれど、すっかり仄暗い影が落ちている。その隣はイグアナ、次にトカゲ。下の方の大きい水槽には、色の薄いニシキヘビ。暗がりに光る鱗は、少しだけ不気味だった。
なまえは一通りぐるりと部屋を見渡してから、ポツリと言った。
「お世話、大変そうだね」
「まあな」
確かに生き物の世話は大変。でも男は、時にユーモアも必要。グリムジョーは、ネタにしても良さそうな男の顔を思い浮かべた。
「でもアレだ、酔っ払ったイールフォルトの世話よりはマシ」
「そうなの?」
なまえは少し笑った。
「アイツ、酔うと手当たり次第に口説き始めるからな」
「…あっ!」
なまえは思い当たるフシがあったようで、ウンウン頷いた。
ここでグリムジョーにちょっとした嫉妬心が芽生えたのだけれど、今は俺の女だしと雑念を払った。とはいえ、後日イールフォルトにはケツバットの刑が下されるであろう。
「ヤベェだろ。一回、それで飲み屋の親父口説き落としてよ」
「え?」
「飲み代チャラになった」
「す、すごい」
「しかもイールの野郎、口説いた事覚えてねえんだよ」
「えっ…」
「最悪だろ?」
最悪である。なまえは飲み屋のおじさんに同情した。
「色んなところで無差別に口説いてっからよ、テロだろって話になってよ」
「うん」
「裏でテロリストって呼んでる」
「物騒だなあ」
「アイツ、なんか容疑者ヅラしてねえか?」
「そんなこと…」
そんな事ないと言い切れないなまえ。面白いと言わんばかりに瞳を細めて、笑いを堪えて、頬もピンクに染まっている。そうそう、グリムジョーはなまえのこんな顔が見たかったのだ。
やっぱり職場になまえを連れて来て正解だと思った。
ついでに、もっと自分の職場の話でもしておくかと、グリムジョーはなまえの手を取って席を立たせた。
「コイツ、新入り」
「…寝てる?」
「寝てる」
無骨な指は、トカゲモドキのケースを叩いた。少しぽってりしたフォルムが可愛らしい。なまえは興味深そうにケースの中を見詰めた。
「コレ、知り合いがくれたアロワナ」
今度は真後ろの水槽。
大きな水槽の中で身を翻す度、銀色の横っ腹が眩しい程にギラギラと輝いた。
「アロワナって、大きいね」
「コイツは非売品。展示用ってヤツだな。飼いきれねえって押し付けられたんだけどよ、デケエし、気に入ってんだ」
チラリとなまえを見下ろせば、悲しげに眉を曇らせていた。
「捨てられちゃったってことか…」
「だから、俺のモンにしてやった」
「飼いきれない、かあ」
「ま、イールの世話より楽だな。コイツのが楽勝だ、楽勝。誰も口説かねえし、酒も飲まねえし」
「んっ…ふふ、ちょっと…ごめっ…」
なまえは咽せるようにして笑った。
きっと、笑ったらイールフォルトに対して失礼だとか考えているのだろう。そんなトコロが可愛いのだ、なまえって女の子は。
ゲホゲホ咽せながら笑ったなまえが呼吸を落ち着けると、アロワナが悠々泳ぐ水槽をじいっと見詰めた。
そして、潤んだ唇が小さく開いた。
「なんか、ここだけ水族館みたい」
水族館。初めて言われた。
グリムジョーはビックリして、つい本音をそのまま口に出してしまった。
「何だそりゃ」
「え!あ、ごめん…えと、」
「そんな良いモンじゃねえよ」
水族館といえば。もっとキラキラしてて、水槽の中に色々置いてあって、たくさんのカラフルな魚が泳いでて豪華なやつだろうに。
ただ1匹の魚を泳がせているだけで、水族館だなんて。グリムジョーは何故か小っ恥ずかしくなって、否定してしまった。
「ううん。すごくいいと思うの」
真っ直ぐに言われると、今度はグリムジョーだって照れてしまう。成人済男性の照れ顔を好きな子に見せる訳にいかない。これは男のプライド。
出来る限り冷めた声で「そォかよ」と言って、グリムジョーはくるりと横を向いた。誤魔化し方は、けっこう雑。
そして話題をリクガメに振った。丸い甲羅から顔をニュッと出して、何やら瞑想しているような顔をしている。
「リクガメ。歩くと早えぞ」
なまえも夢から覚めたような眼差しで、ハッとしてリクガメを見た。
「意外、かも。早いんだ」
「ケース狭いからよ、たまに店の床散歩させてる」
「…優しいね」
「ああ、よく言われる」
これ、一応渾身のギャグ。
男の子は、好きな女の子の笑顔が見たいのだ。
でも、なまえはぎこちなく首を傾げてグリムジョーを見つめている。
残念。目論見、失敗。
「うん…?」
「今の、笑うとこだぞ」
「ごめん…」
やっちまった。グリムジョーがため息をついた所で、なまえはくすくす笑った。やっぱり女の子ってよく分からない。
その点、ケースの中の爬虫類達は分かりやすくて良い。飯を寄越す時だけ寄ってくる。飯以外の時なんて、コッチなんて見向きもしない。声をかけたって、迷惑そうに首を傾げるばかり。
でも、そんな素直さが好きなのだ。
なまえは勝手に後ろのケースを覗いたり、足元のデカいケースで蠢くニシキヘビに手を振っていた。
童話のお姫様かよ。と、言いたいのをグリムジョーは堪えた。なまえはニシキヘビを熱心に見つめたまま、ぽつりと疑問を漏らした。
「そういえば、こういうお店って普段何してるの?生き物のお世話、とか?」
チャンス!
誠意ってヤツを見せる時だ。手の内を明かすのだ。グリムジョーは大真面目に答えることにした。
「ああ、そォだな。クソの世話と、掃除と、飯やって…脱皮手伝ったりか?」
「結構、忙しいんだね」
「慣れれば別に。客も固定の奴しか来ねえし。ああ、ソイツらに専用のライトとか、ケースとか、あと餌売ったり」
「餌?」
「生きてるヤツな」
「いきてるやつ…?」
誠意を見せることに気を取られたグリムジョーは、なまえの怪訝な表情にも気付かず、ケースの並ぶラックの裏側、黒い仕切りの向こうになまえを呼び付けた。
そしてケースの中でワサワサ動く生き餌を指差す。
「餌。コオロギとか、マウス。買うと高えからココで育ててる」
「!」
「ヘビもトカゲも、好みにうるさくてよ」
「へ、え…」
「ワームも育ててっけど、」
半歩引いてしまったなまえを見て、グリムジョーはハッとした。
今、けっこうエグい裏側を見せてしまったかもしれない。だって、そもそも虫とか、生き餌とか。こういうのって、好き嫌いが分かれるのでは?
あと、女子って虫って単語だけで仰け反って悲鳴を上げる生き物だった気がする。
しくじった。
市役所(シャウロン)のせいで、誠意にばかり意識を傾けてしまった。
遅れながらも、謝ろうとなまえの肩に手をかけようとした時。なまえは、ふっとしゃがんだ。グリムジョーの手は虚空を掴んだまま、固まる。
ケースの隅で蹲るマウスを見詰めたなまえ。その深い瞳の色は、例えようもないくらい澄んでいた。
「お役目があるんだね、この子達には」
「…ああ」
グリムジョーは心の奥の1番深いところに、優しく触れられた気がした。
今の仕事は結構気に入っていた。命に値段を付けるのは好きじゃないけれど、命と向き合う感覚は好きだった。
ひとつ生かす為に、ひとつ命を奪う。
要はヘビを生かす為に、マウスを殺す訳だ。グリムジョーはこのサイクルを自らの手で行う度、何故か神様という存在を思い出した。喰い合って、強い方だけが残る。そんな単純な法則が、どうしようもなく不思議に思えた。
強いか弱いか。たったそれだけの理由で、ひとつの命は終わる。そして、もう片方は生き永らえる。
その瞬間と向き合う時、どこか深くて暗い場所に、独り踏み入る心地がした。
繋がる先は、遥か彼方だろうか。
不思議な沈黙が2人を包んでいた。
バックヤードからレジ横に戻ると、なまえは小さい花を咲かせるように微笑んだ。
「素敵なお店だね」
「よく言われる」
「…これ、笑うところ?」
グリムジョーはなまえの細い手首を取って、自分の側に抱き寄せた。
「知らねえ」
重なった唇が答えだった。なまえは、薄く瞳を開けてグリムジョーの顔を盗み見て、切なげに眉根を寄せた。
月の光も入らない、ビルの片隅。2人はぴったりと唇を寄せ合っていたのに、心の中はすっかりすれ違っていた。
「ほ、本当に良かったの?」
その週の、お休みの日であった。
なまえは、居心地悪そうにグリムジョーの運転する車の助手席に腰掛けていた。グリムジョーの愛車はガソリン満タンで、高速をブンブン飛ばしてる最中。
「あ?じゃあ今から高速降りるか?」
「…ご、ごめん。おりません…」
不安気に訊ねたなまえの言葉は、バッサリと薙ぎ払われてしまった。
シュンとして足元に視線を落としたなまえを見て、グリムジョーは舌打ちをしてアクセルを踏み込んだ。そうだ、こんな顔をさせるためのデートではないのだ。
「寝惚けた事言ってるとなァ」
「はい…」
「俺も寝るぞ。運転しながら」
「それは…」
「しかも、酒でも飲んでやろうか」
「ご、ごめん、ごめんね…」
「今日を忘れられねえ日にさせてやるよ」
「…やりすぎ、じゃないかなぁ」
やっとなまえは笑った。
そうだ。それで良い。
「今日、そういう顔してろ」
「へっ、あ、うん」
「好きなんだろ、水族館とか」
「…うん」
はにかんで微笑むなまえは一等可愛い。
飾り気の無い水槽を見て、水族館だと言ったなまえの健気さに撃ち抜かれたグリムジョー。なまえを本物の水族館に連れて行こうと決心したのだ。
ちょっと前に「少し遠出すンぞ」となまえ強引に呼び付けて(市役所からすれば、これも誠意が足りないも言われてしまうだろう)、そのまま車で拾って弾丸旅行。
大きい車は2人を乗せて、グングン他の車を抜いてゆく。まるで光の細い筋が高速を駆け抜けるようであった。
車内は仄かな甘い香りに包まれて、時折秘めやかに2つの笑い声を響かせている。
カーブの向こう、左手の方には深い青を湛えた海が広がっていた。
「大人、2枚」
「かしこまりました」
グリムジョーはなまえの財布を鞄に差し戻して、凄い勢いでチケットを買った。係のお姉さんは機械よりも手早くチケットを発行した。
ゲートを潜れば、陸地に開かれた海の底。深い青と、暗い闇がどこまでも広がっている。
「行くぞ。勝手に水槽の中、入るなよ」
「…入らないもん」
申し訳なさそうな顔をしていたはずのなまえだったけれど、グリムジョーの軽口で表情から翳りが消えた。この子は、こうやって前を向いてニコニコしている方が似合うのだ。
「あと、勝手に魚も取るなよ」
「取りませんっ」
「アレ、見せモンだから。気ィ付けろよ」
「…どうやって取るの。水槽の向こうなのに」
なまえのちいさな爪が、大きな水槽をぴっと指差した。その先に光るキラキラしたラメがグリムジョーの目をひいた。
そのキラキラ光る指先を手に取り、グリムジョーは指を絡めて手を繋いだ。
「お前、ほっとくと間違えてアッチに行きそうだよな」
顎でさした先にあるのは、「関係者以外立ち入り禁止」の看板が立てられた扉だった。おそらく水槽の裏側に繋がる扉である。
なまえは唇を尖らせながら答える。
「行かないよ」
「勝手にアッチ行って、中入ったら迷うだろ」
「それは、迷うかも」
「な?んで腹空かしたら、水槽に手ェ突っ込んで魚取るだろ」
「そんな野蛮じゃないもん…」
「だから、手ェ繋いでやンねえとな」
まるでロマンチックな王子様みたいな一言。なまえは惚けたような顔をして、一瞬立ち止まってしまった。
しかし、グリムジョーはこのロマンスを自らの一言で打ち砕いた。
「水族館で大人の迷子のアナウンスとか、聞きたくねえしな」
「迷子にならないよっ」
グリムジョーという男は、昔から力加減というのを知らなかった。だから女の子への意地悪も、フルスロットル。やると決めたらトコトンやり抜く。
ぷっくり頬を膨らませてご機嫌斜めななまえすら、可愛いのだから。グリムジョーも中々重症。
とはいえ、大好きな彼女(だとグリムジョーは思っている)と水族館デート。本当はウキウキしている。足取りも軽い。隣のなまえにもっと意地悪したくなったけれど、流石に我慢。だってなまえの瞳に青が反射して、とっても綺麗。
声を掛けるなんて、とんでもない。そんな感じなのだ。
2人は手を繋いで海を渡るみたいに、水槽から水槽へ。どこまでも続く青は、闇に浮かび上がる夢のようだった。
暗がりの廊下で、グリムジョーはそっとなまえを抱き寄せた。互いの吐息が触れ合うくらい、距離を詰める。
2人のすぐそばの壁には、丸くくり抜いたような水槽があった。中では、海月が互いの脚を絡めながら揺蕩っていた。
「…綺麗、だね」
なまえは、浮つく気持ちを誤魔化すように呟いた。さっきから、やけに瞬きの回数が多いし。俯いたり、視線を逸らす仕草すら不自然。
でも、よく見たら頬も耳も赤くて。
照れてるんだなと、グリムジョーは見抜いた。
きっと距離が近くてドキドキしたんだろうとタカを括って、グリムジョーは雰囲気を壊してみる事にした。だって、破壊は大得意なので。
「ああ。生きてるティッシュみてえ」
「………」
最低。
向けられたなまえの顔にそう書いてあった。思ったよりも冷めた表情。
ミスったグリムジョーは、ひとつ腹を括って誠意を見せる事にした。
「その、悪かった」
「うん」
「許せよ、なァ」
「うーん…」
「許せって」
完全にしくじった。デリカシーってヤツの欠如。誠意不足。
グリムジョーは、あの必殺技を出すしかあるまい。ポケットに突っ込んでいた方の手をニュッと取り出して、なまえの頭を撫でくり回す。
まるで犬を褒めるときと同じ撫で方だった。
そう。なまえは撫でられる事に、すごく弱い。
「これで許す気になったか?」
「う、ずるい…」
髪もクシャクシャ。撫でる力が強過ぎて、頭もグラグラ。なまえが気持ちよさそうに瞳を伏せたかと思ったら、ふやふやと瞳をこじ開けて「ゆるします…」と白旗を上げた。
仕上げのように小さな頬をするりと撫でれば、なまえはすっかりご機嫌。グリムジョーだって、一安心。
先に続く廊下を抜ければ、2人の前には壁一面の大きな水槽が現れた。水族館のメイン、大水槽である。
海をそのまま掬い上げて、美しいガラスの器に注いだかのようだった。ぼんやりと光る青の中で、魚は踊るように泳いでいた。岩礁の海藻は夢見心地に揺蕩い、その隙間から極彩色の魚が飛び出しては、また奥へと潜ってゆく。
水槽の上方、透明に近い青の中で、小さな銀色の魚が群れを成している。天から射す光は鱗に反射して、星のように瞬いた。
水槽の中にぷつぷつと立つ泡は、儚く揺れている。
「スゲェな」
グリムジョーは悔しかった。
こんな時、目の前で揺れる青い光をスゲェとしか言えない自分の不器用さが悔しかった。
本当は、綺麗だとか、海の中に居るみてえだとか、やっぱりスゲェとか。心は波を立てて騒めいていたのだけれど、口には出せなかった。
なまえは潤んだ唇を薄く開けて、「うん」と言った。彼女の瞳は、水槽のてっぺん、揺蕩う水面へ向けられていたものの、どこか別な何かを見つめているようだった。
例えるとすれば、手の届かない月でも眺めるような眼差しであった。
それでも、静かに寄り添えばやっと恋人らしい雰囲気を取り戻す。人に見られぬよう、グリムジョーはなまえの肩を抱き寄せて、ぴったりとくっ付いた。
水族館の中は、ずうっと暗がりが続いていた。グリムジョーは不思議と高鳴る心臓から放たれる音に耳を澄ませていた。
青い光に照らされて、なまえの頬が真珠色に輝いている。細い手首は、もう少し力を入れて握れば折れてしまいそうだった。華奢な肩の線も、触り心地のいい髪の毛も、全てが愛おしかった。
暗がりに、揺れる仄かな光に包まれて2人きり。
グリムジョーは熱っぽい視線をなまえに注いだ。
それに気付いて、ふと此方を向いたなまえは、恐ろしいほどに悲しい色を湛えてグリムジョーを見つめ返していた。
何故。
「…どしたよ」
「ううん。なんでも、ないの」
ふいっとなまえは顔を背けてしまった。
グリムジョーはまるで、冷たい海へと突き落とされたような気分だった。沈む心は底を知らずに、どこまでも落ちてゆく。
好いた女、たった1人すら幸せにしてやれない。
不甲斐ない掌は、力を失って、なまえの手をするりと逃してしまった。彼の手には彼女のぬくもりだけが残ったけれど、それもいつしか冷めてしまう。
暗闇の向こうは、もうすぐ出口。白けた外の光が眩しくグリムジョーの瞳に突き刺さる。
水族館を出てから、2人は海鮮丼を食べに行った。これはなまえのささやかなリクエスト。それなのに。2人の間に流れる空気は、お通夜みたい。会話なんてロクに交わせない。ぎこちなく「おいしいね」だとか「うまい」と呟き合うくらい。
ついでに近くの海岸にも立ち寄った。波打ち際で、時折震えるなまえの細い肩も抱いてやれなかった。
グリムジョーは自分と関わることによって、なまえに何か不幸を呼ぶような気がした。
だから、なまえが漏らす涙交じりの吐息すら、聞こえないふり。彼女の涙目だって、見なかったふり。かける言葉なんて、ひとつも残っちゃいない。
ざざ、と不気味に鳴る潮騒ばかりが2人を包んだ。
高速道路を降りると、ぽつぽつと細い雨が降り注いだ。向かう先の夜空は、星も見えず、墨を流したように不気味に沈黙している。
2人の行く末に、暗い暗雲でも立ち込めているようだった。
無事になまえを家に送り届けたものの、グリムジョーはすぐ家に帰る気にもなれず、また車を走らせた。
たった1人の女すら、幸せにできないのか。
のろのろと運転する若葉マークを追い越して、車は猛スピードで郊外に向かってゆく。明かりのない、暗い夜道だけがグリムジョーの味方をしているようだった。
なまえの切なげな顔が浮かぶ度、それを振り払うようにアクセルを踏んだ。
光も影も、追い付かぬような走りだった。潰される悲鳴も上げずに、軋んだ心は光を手放した。
送られたメッセージを読み上げてから、グリムジョーは小さな液晶をプツリと切った。今更、なまえに返事を送る資格もないように思えたからだ。
車を降りれば、東雲の空が覗いている。
長いドライブの末、やっと駐車場に辿り着いた。朱に染まる空は、憎たらしい程美しい。
朝の小鳥の囀りも、木々のざわめきだって。やがて目覚める世界を待つ、一時の静寂によく響いた。
素晴らしい朝と呼ぶに相応わしいはずなのに。
夜を引き摺りフラつく獣の足取りは、地面を踏み抜きそうなほど重かった。
(つづくのだ!)
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