△のぼり線 特急快速


シーツは熱と湿り気を吸って、大きな皺を寄せていた。窓から差し込む僅かな光は、2人の秘め事を暴くよう、細い筋となって素肌を照らしている。

なまえは、自分の吐いた息がひどく熱いことに気付いた。
服を捲り上げられて、素肌を冷たい空気に晒しているというのに、体の奥は熱く疼いている。
火照る頬を引き攣らせながら、なまえは胸元に顔を埋めるグリムジョーの髪の毛に触れる。固められた毛先が、指の間をすり抜けてゆく。

「何だよ、もっと触れって言ってんのか?」
「…ちが、くて……」
「ちゃんと可愛がってやっから、大人しくしてろ」
「…う、ん」

向けられたのは、獲物を見つけた獣のようにギラつく視線であった。なまえはその鋭さに当てられて、何も言えなくなってしまう。
本当に、私で良かったんだろうか。
後ろ向きな疑問だけを残して、なまえは与えられる刺激に思考を放棄した。

下着の上から胸を揉まれる。大きな掌で揉みしだかれる度、なまえの中で熱が高まった。
谷間に寄せられた唇は、素肌を貪るように幾度となく水音を立てている。くすぐったいような、ほんの少しだけ痛むような感覚に溺れる。
熟れた唇の隙間から、吐息に混ざってなまえの高い声が漏れる。チラリとなまえの顔を見て、グリムジョーは嘲るよう口角を上げた。

「ちっせえ声だな」
「…はずかしい…から…」
「あ?今更だろ」

冷たく吐き捨てる声色とは裏腹に、良い子だと褒めるような優しい手付きで、グリムジョーはなまえの頭を撫でた。静かに昂る感情になまえは胸を震わせながら、唇を強請るよう瞳を伏せる。

落とされた唇との隙間で、水音が響いた。割られた唇の隙間から、熱い舌が捩じ込まれる。逃げ場を失ったなまえの舌先は簡単に絡め取られ、縺れるように熱を交わした。

なまえがその甘い熱に浮かされるうちに、グリムジョーは彼女の細い背中とシーツの隙間に手を忍ばせた。更に深く舌を差し込みながら、片手でブラのホックを外す。決してなまえが抵抗など出来ないよう、無骨な指先は器用に動いた。

「…っ、あの、グリムジョー…さん…」
「何だ」

酩酊に似た感覚から、なまえはどうにか抜け出した。
顔を逸らし、唇を外したなまえは胸元を両手で抑えた。グリムジョーの思惑とは裏腹に、背中の違和感にハッと正気を取り戻してしまったのだ。

ここまで来て、なまえは今更怖気付いた。

「…うしろ、外し…ました…?」
「だったら何だよ」
「その、」

なまえは自信のなさから、つい「やっぱり、やめましょう」と言いたくなった。これ以上は、耐え切れない気がする。
なまえ自身が、何に対して、どう耐えられないのか。それは分からないけれど。
行為をやめれば楽になれると、何故かそう確信してしまったのだ。

不安げに怯えるなまえを見て、グリムジョーは不機嫌そうに舌打ちした。

「今更…、手ェ退けろ」
「……や、その、…」
「邪魔だ」

強引に下着を剥ぎ取られそうになり、なまえは必死に首を振った。

「…だ、だめ……です…」
「あ?満更でも無えツラしてる癖になァ」
「…だって、」
「だってもクソも無えだろうがよ」
「……でも…」

その通りだと思った。
なまえは反論する気も失せて、好きな人の気分を損ねてしまった事への罪悪感に駆られた。
ぼんやりと「ごめんなさい」と捻り出したものの、グリムジョーは不機嫌そうに頭を掻き毟り、なまえの上から身体を退けた。

「…本気で嫌なら、止めてやる」

溜息混じりに息を吐いたグリムジョーは、ドカッとベッドの端に腰を下ろした。すらりと長い脚が窮屈そうに折られている。

どうしよう。
今なら引き返せる。なまえは高揚した胸の内がすっと冷めて、冷静に戻りつつあった。しかしその反面、何もかも忘れて、甘い熱に身を任せたかった。ここで終わってはいけないとも思った。

本当に、どうしよう。
何故か答えを求めて、なまえはチラリとグリムジョーの表情を窺った。
その先に見付けたのは、ほんの少しだけ、寂しげに俯いた青い瞳。
それは、暗闇に燻る青い炎のようであった。

答えなど、この家に足を踏み入れた瞬間から決まっていたというのに。
なまえは高鳴る胸の鼓動を伝えるよう、彼の腕に身体を押し付けた。





粘膜は、どろりとした蜜を垂らしながら熟れていた。最初こそ柔らかい桃色を呈していたそこは、今や充血して、生々しい血の色を浮かび上がらせていた。
グリムジョーの無骨な指が、ナカを抉るように動かされている。なまえは時折仰け反りながら、その愛撫に涙を浮かべた。
強すぎる快感に、譫言のような言葉ばかりが唇から溢れてしまう。

「あっ、…んぅ、…」
「イイ声になってきたな」
「…そう、なの?…ぅ、…」
「渋ってた癖になァ」

ナカで指を動かされながら、親指で小さく膨らんだソコを押し潰されてしまう。なまえは悲鳴に近い声を上げて、足を引き攣らせる。
中も外も擦られて、とめどない快楽の波に侵される。もうダメとグリムジョーの腕を掴んでも、鼻で笑われて一蹴されてしまう。
もうダメ、と頬を紅潮させて高みに上り詰めたところで、あっさりと指は引き抜かれた。

もはや何も考えられず、なまえは瞳を半分伏せてぐったりと力を失った。か細い四肢が、シーツに溶け込むよう投げ出されている。

なまえの溶け切った表情を覗き込み、グリムジョーは満足気に喉を鳴らした。

視界の隅で、グリムジョーが棚から何かを取り出したのをなまえは見ていた。小さな箱から一つの正方形のモノを取り出すと、彼はそれを躊躇いなく破いた。
取り出された透明なゴムを見て、なまえは息を呑んだ。

「ヤベ、脱ぐ前に出しちまった」
「…あっ、そうだね…?」

なまえは、もう随分と前に服を剥ぎ取られて裸になっていた。しかしグリムジョーはまだ上半しか脱いでおらず、まだ下半身は服を着込んだままだった。
ズボンの布を窮屈そうに押し上げるソレをチラチラ見ながら、なまえは起き上がって「わたし、ゴム持ってようか?」と手を差し出した。

「…………」

グリムジョーは、なまえを見下ろしながら首を捻った。
まさか、私、変な事言った!?と不安に瞳を揺らすも、そんな動揺はすぐに引っ込んだ。
いいや、また別な混乱に上書きされたの方が正しかった。

「…咥えてろ」
「!?」
「良い眺めだな」

あろう事か、なまえの可愛らしい唇に、ゴムを挟まれてしまった。フンと鼻で笑いながらベルトを外すグリムジョーの視線が、口元に突き刺さる。
非難の声も上げられず、かと言ってゴム手に取り直す事も敵わず、なまえはただ固まって、自分のキラキラ光る爪を見詰めていた。鼻先に漂うゴムの香りが、生々しい。

ギシ、とベッドが沈む。なまえと向かい合うよう腰を下ろしたグリムジョーは、恥じらうよう俯いたなまえの表情を見て、犬歯を光らせて笑った。

「お前、ビビりすぎだろ」
「…ぅ、……」
「犬みてえだな、犬」

咥えていたゴムは、グリムジョーの長い指に攫われた。付けてあげた方がいいのかな、と少し近寄ると、彼は器用にそれを熱の塊に被せてしまった。

「次からゴム、口で付けろよ」
「…えっ?そんなの、やった事ない…よ、」
「仕込んでやる」
「…はひ、……」

次。その言葉になまえは期待してしまった。
潤んだ瞳は、グリムジョーを見上げる。

「痛くても、止めてやれねェから」
「だい、じょぶ…」

2人が再びシーツに沈むと、足の間にピタリと先端を充てがわれる。硬く凝った熱が、ジワジワと肉を割ってゆく。呼吸すら忘れて、なまえは時折走る痛みに耐えていた。
浅く繰り返される呼吸すら奪うよう、グリムジョーはなまえの唇を啄んだ。薄い唇は、なまえの細い悲鳴ごと呑み込み、熱は最奥まで届いた。

「……っ、はい、った?」
「ああ、根元まで喰われちまった」
「もぉ、言い方ぁ……」
「悪りィかよ」

悪くない、と言い渋ったなまえの唇は再び塞がれてしまった。唇に傷でも付きそうな、荒々しいそれに胸の奥がジリジリと焦げ付いてゆく。
なまえの下半身に感じる圧迫感と、仄かな痛みは、昂ぶる熱の質量を物語っている。
粘膜同士が少し擦れるだけで、つい高い声が出てしまう。ゆるゆると抜き差しが始まると、痛みよりも快楽が勝り、喉がきゅうっと切なく鳴った。

「く、…ぅ…あっ、ん…」
「キッツいなァ……オイ、一人でシてねェのか?」
「…っ、教え、ない…からぁ」
「シてるってカオ、しやがって。バレてんだよ」
「ひゃ、…っ、なん、で…っ」
「お前、俺の事エロい目で見てただろ、なァ」

そんな目で見てないもんと、嘘をつく前になまえは激しい律動に嬌声を上げた。
ずぷずぷ音を立てて、太いソレが膣の上辺を擦り上げる。腰をガッチリ掴まれ、快楽から逃げる術を失ったなまえは、四肢を強張らせる。
脳髄がふやけるような、恐ろしい程の淫楽を叩き込まれて、思考も理性も溶け落ちてしまう。

譫言のように気持ち良いと呟けば、グリムジョーは獣のような熱い息を吐いて笑った。

暗がりに浮かび上がるグリムジョーの肉体は、まるで誰かが絵にでも描いたような、均衡の取れた逞しいものであった。なまえは戦慄く指先が彼の硬い腹や、筋張った腕に触れる度、良い知れぬ興奮に頬を火照らせた。筋の浮き出たグリムジョーの首筋や、額に走る青筋が、ますますなまえの秘めていた熱を高めた。

「い、…ぁあっ…いく、」
「…、締め過ぎンなよ」
「むり、…ぅ……んあ、あっ…」

なまえが仰け反り、腰が逃げるよう僅かに跳ねた。肉壁は無秩序に痙攣し、男から熱を搾り取るよう蠢く。
荒い吐息を残して沈黙したなまえを叩き起こすかのよう、グリムジョーは足の間の神経の膨らみを爪で引っ掻いた。
快感と呼ぶには強すぎる刺激に、なまえは目を見開いた。

「ぅ、あっ!あ、だめ…っ、やぁあっ」
「悪ィけど、まだ俺が終わってねェんだよ」
「やだ、…っあ、あ、ぅ…っ」
「イッてる間、たまんねェな…搾り取る気かよ、大人しそうなツラしてる癖になァ」
「ん、ぁ、…やだ、…っだめ…!」
「中、ヤベェな…」

敏感になったソコは、甘い痙攣が止まらず、グリムジョーの熱を強く締め付けた。その度に形が分かるほど、濡れた肉壁に硬い熱がぶつかり、痺れるような快楽が脳天を貫く。
顔はすっかり真っ赤に火照り、薄い皮膚の下の血管が透けそうな程であった。意地悪く爪で嬲られる神経の集まりは、膨らんで更に感度を増してゆく。一度迎えた絶頂は、また新たな熱を持って高みに至る。
乱暴に抜き差しされるグリムジョーの熱が、奥にゴツンと当たる。その度に視界は蝕まれ、青が乱反射した。

水音は激しく響き、なまえは身を捩って何度も達する。その度にグリムジョーは甘い溜息をついて、遂に限界を迎えようとしていた。

「クソッ……出すぞ」
「…っ、も、…むり、…ぅ、んあ、」

なまえとぴたりと肌を重ねて、グリムジョーは欲を吐き出した。薄い膜の中に、白く濁った本能が迸る。
快楽の虜に成り果てたグリムジョーは、なまえの首筋に顔を埋めて息を整えようとした。呼吸する度、なまえからは男心を擽るような甘い匂いが、漂う。それがまた熱を誘き寄せた。
もう一発、と顔を上げたものの、なまえは美しい瞳を閉じ、意識を手放していた。

獣とはいえ、申し訳程度の理性が備わっていた。
仕返しでもするように、グリムジョーはなまえの首筋に牙を立てる。
コイツは俺の女だと言い含めた、烈しい歯型が白い素肌にひとつ残った。







「オイ、飯ぐらい食って行けよ」
「だっ、だ、…大丈夫!だいじょ、ぶ、だから…」
「つーか、家まで送ってってやるよ。歩けるか微妙じゃねェか、お前」
「だい、じょぶ……す、」
「ジョブス?」
「ちが、あの、ほんとに…大丈夫だから!またね!」
「あ、待て。送っ」

グリムジョーの言葉を遮るよう、なまえは扉を閉めて駆け出した。

やっちまった!
二重の意味で、やっちまった!
大急ぎで廊下を駆け抜け、エレベーターに飛び乗り、エントランスを抜ける。振り返って、高い高い高層マンションを見上げた。

もう、2度とここに来る事はあるまい。

なまえは遅れながら「お邪魔しました…」と弱気に呟いて、爽やかな朝の空気を吸った。
ワンナイトをやらかした女の足取りは、ヒールが地面にめり込む程、重かった。

坂道を降りてゆくと、朝日に照らし出されたビル群が見えた。どれもこれもキラキラ輝いて、まさしく希望の朝と呼ぶに相応しい風景がどこまでも続いている。
頭上で奏でられる小鳥の囀りも、木々の騒めきも、突き抜けるような空の青さも。
何もかもが素敵な朝だった。
それなのに。
なまえの顔だけが、曇っている。

セフレ、確定。

この言葉が、胸の内で何度も高く鳴り響いた。その度になまえの鼻の奥がツンとして、目頭が熱くなる。視界は涙にボヤけた。
あんなに、好きだったのに。
告白とか、付き合おうなんて言葉を交わす前に、体を許してしまった。行為中だって、好きとか、可愛いだなんて、優しい言葉は聞こえなかった。
堪んねえとか、エロいだなんて言葉ばかり。まあ、それはそれで嬉しいんだけれど。
そうじゃなくて!

なまえは憧れていた。あのグリムジョーと正式にお付き合いをして、デートをしたい、と。
夜、突然呼び出されて「仕方ないなあ」なんて言いながら、ご飯を一緒に食べたり。職場に呼ばれて「コイツ俺の彼女」なんて紹介されてみたい気持ちもあった。彼の職場とか、知らないけど。
頭だってたくさん撫でられたい。手を繋ぎたい。セフレじゃなくて、恋人として。
それに、いつか一緒に海に行ってみたかったのだ。水族館だって、手を繋いで見て回るのが理想のてっぺん。

こんな風に夢見ていた。

それなのに。「好きです」とも「付き合ってください」とも言い出せずに、ワンナイト。セフレ確定じゃないか。
私、これから、どんな顔をしてグリムジョーさんと会えば良いんだろう。

答えは見つからないまま、なまえは沈んだ気持ちで、土曜日、日曜日と部屋に引き篭もっていた。
その間、グリムジョーからなまえへ連絡が送られてくる事は無かった。





その次の月曜日の事だった。
時刻は、朝の9時ぴったり。なまえは能面のような顔で、ノイトラ支社長へと切手を差し出した。

「支社長、切手になります。こちら領収書です…」
「…っ、おお……」

彼女の幽鬼のような顔を見たノイトラは、久し振りにギャッと声を上げそうになった。

ヤバい。ヤバすぎる。何があったんだ、この女。
ノイトラは、こう言いたいのをグッと堪えた。
だって彼は管理職。下手な事言うと、全部ハラスメントになってしまう。そもそも存在自体がハラスメントじみているのだから、余計に。

「…その、サンキュな…」
「…」

ペコ、と一礼するなまえからは、苛烈なまでの絶望感が漂っている。
フラフラとデスクに戻り、死んだ魚のような目をして、機械的に指を動かすなまえ。これを見たノイトラは「何も聞くまい」と心に誓った。
触らぬ神に、祟りなし。

なまえは、脳裏に浮かぶグリムジョーの顔を消し去るよう、鬼のように仕事を捌いた。来たメールは全て即チェック、即返信。頼まれた仕事も爆速で仕上げたし、溜めていた仕事もこれ幸いと、現実から逃げるよう没頭して片付けた。
ランチタイムだって、休憩なんかじゃない。ただの栄養補給タイム。貪る様に食べ終えれば休憩もそこそこに、また仕事へと没入する。
気付けば時計の針は、夕方を指していた。

なまえは急に猛烈な疲れを感じて、事務所を抜け出した。急いでトイレの個室に駆け込んで鍵を掛ける。
疲れと一緒に、堰き止めていた感情が溢れ出してしまった。

仕事と仕事の合間に、白昼夢のように思い浮かぶのはあの人だった。
グリムジョー・ジャガージャック。なまえが今1番、恋い焦がれている悪い男。

ちゃんと、彼の恋人になってみたかった。

1番憧れた人の、セフレになってしまった。この悲しさから立ち直れていない。
でも、こんな今がきっと人生のハイライト。だって彼と知り合えた事自体が奇跡だもの。
この、報われない感じこそ私らしいなと、苦い笑いが漏れてしまう。

気合を入れてキラキラさせた爪は、埃を纏って灰色に燻っていた。
涙に滲む視界で、唯一飾り物のラメだけが煌めいていた。

しかし。
こうしてなまえが落ち込んだのも、束の間。
やっぱり、運命は突然に。
ポケットに入れていたスマホは、通知に揺れる。ディスプレイに表示されたのは、王様からの素敵なメッセージ。

『忘れ物届けに行く。ついでに晩飯』

なまえは「えええ!!!」と大きい声を出したいのを我慢した。ヒュッと息を呑んで、スマホから目を離す。何かの間違いかもしれない。息を整えて、またメッセージを確認する。指差し確認、よし。やっぱり間違いない!

また、会える。
しかも、ご飯に誘ってもらえた!やった!
自分がセフレである事すら忘れて、なまえはすっかり有頂天。トイレの個室が、まるで花園に思えるくらい浮かれてしまった。
ああ、なまえったら。簡単な女!

事務所に舞い戻ってきたなまえ、キラキラニコニコしている。
ちゃっかり鼻歌まで歌って、またキラキラした爪と時計を交互に眺めている。浮かれまくっている。

管理職として、元気の無い部下を少しだけ心配していたノイトラは拍子抜けして、なまえを見遣った。

なまえは、男との予定が入っていた週末を過ごしたのであろう。それが、今朝になって死人のような顔をして出勤してきた。おそらくご愁傷様って事。
朝からさっきまでサイボーグみたいに仕事をしたかと思ったら、今頃ルンルン気分でトイレから戻ってきた。
何故。まさか!

「オイ、なまえ」

念の為。ノイトラは悪い予感が外れる事を祈りながら、ひとつ問う事にした。

「はい?」
「お前さァ、もしかしてトイレでシャブ打ってきた?」
「え!?…あっ、えっと、違います…」

なんか、すみませんと頭を下げるなまえ。その表情は、咲いた花が恥じらって閉じようとする姿と似ていた。

「…あっそ。なら良いわ。大麻とかコカインもやってねえよな?」
「大丈夫です」
「MDMA、LSDは?」
「やってません」
「なら良し」

管理職としては、部下が元気に仕事してりゃあ良いのだ。ノイトラは引っ掛かりを覚えながらも、またパソコンに向き合った。仕事のできる男は、切り替えも早い。

この様子を見ていた稼ぎ頭の営業マン、テスラ・リンドクルツはおもむろに席を立った。そうして後ろ手に書類をひとつ隠す。

「シャブとか言わないで下さい、ノイトラ様。コンプライアンス違反ですよ」
「あ?うるッせェな。格下が俺に指図すんな、ダボが!」
「随分じゃないですか」
「るせェ!何の用だよ、コラ」

上司を揶揄うように、テスラは薄く笑う。ノイトラからの暴言だって右から左。あらゆるハラスメントに慣れているのが、この男。
テスラは、切り札のように隠していた書類を取り出す。

「報告です。この契約受注しました」
「…マジ?」

最近、業界で話題の大型案件である。
ノイトラは切長の瞳を見開き、満足げに笑った。
なまえはこの会話を聞いて「すごい!」と、小さく拍手をした。

「マッジかよ…やるじゃねえか、テスラ。枕でもしたのかァ?」
「ええ。そりゃあ、もう」
「カッケェな。次も頼むわ」
「お任せを」

枕!
この一言で、なまえは鉛でも飲んだような気持ちになってしまった。それに近しい事をしてしまったんだった、私ってば。
スマホはまた、グリムジョーからのメッセージを受けて揺れた。今更だけれど、返信すら憚られる心地がする。

そういえば、彼と、どんな顔をして会えば良いんだろう…。

なまえが気まずさに冷汗を滲ませたまま、時計の針は着々と刻まれてゆく。
運命や、如何に。





繋いだ手のひらから、ジリジリと熱が伝わってくる。赤面して、なまえは少しグリムジョーを見上げてから、また俯いた。
ダメだ、心臓が持ちそうにない。
街の騒めきより、煩く鳴る自分の心音の方が、ずっとうるさく感じた。

グリムジョーとなまえは、手を繋いでイタリアンのお店に向かっていた。

退社後のなまえはグリムジョーの言う通り、会社から出てすぐのコンビニ前で待っていた。キョロキョロして待っていると、なんと後ろから肩を叩かれた。薄く微笑まれたかと思うと、「飯、行くか」なんて気安く手を取られる。
頭は、臨界点突破。思考は完全に停止。
高鳴る鼓動と震える指先だけが、現実を捉えていたような気がする。

チラリと見上げれば、作り物みたいに綺麗な横顔が目に入る。見詰めていられる時間なんて、一瞬。それでも閃光のように眩しい姿が、心に焼き付いて離れない。

「悪いな、急に呼び出して」
「ううん。会社まで、迎えに来てくれて…嬉しかった、よ」
「女迎えに行くのは当然だろ」
「…!え、あ、…そ、っか…」

女の子扱いされて、なまえは嬉しさに飛び上がりそうになった。
もう良い、セフレでも全然良い。
彼に会えるなら。女の子扱いされるなら。関係性はなんでも良いやと思った。
惚れた弱みって、多分こういうこと。

「あー、肉食いてえ」
「お肉…。ステーキとか、あると良いですね」
「肉パスタとかあっかな」

無いと思う。
捻りのないネーミングセンスに、なまえは笑いを堪えた。こんなにカッコいいのに、たまーに抜けてるから、胸の奥がキュンキュンと鳴って止まらないのだ。罪作りな男に、惚れてしまったらしい。

「ある…かなあ」
「洒落た飯、あんま食った事ねえから分かんねえな」
「そうなんですか?今日行くお店、グリムジョーさんの行きつけなのかと…」
「違え。イールフォルトの行きつけ。良い店らしいぜ。俺は得意じゃねえけど」
「あ、そうなんですか…」
「定食屋以外、あんまし行かねえし」
「へえ…」

会話はここで途切れた。
本当は、聞きたい事があったのだけれど、なまえは勇気が出なくて、つい当たり障りなく流してしまった。

どうして、あんまり得意じゃないお洒落なお店に連れて行ってくれるんですか。
しかも、イールフォルトさんの行きつけのお店を教えて貰ったかのような口振り。

まさか、まさかとなまえは頭を振って、甘い期待を捨てる。
そうじゃなければ、舞い上がってから、奈落の底に叩きつけられてしまう気がして。
これ以上、傷つきたくない。自分がセフレってだけで、身体中に痛みが走るくらい傷付いているのに。

「あ、ヤベェ。店、通り過ぎたかも」
「…えっ」
「悪い、場所調べる」
「その、…なんだか、すみません」
「あ?俺が誘ってんだ。謝ンじゃねえよ」
「そう、ですよね。そっか。……ごめんなさ…あっ!」

また謝ってしまった!
ああ、もう、バカ!私のバカ!
なまえは、また謝りたくなった。でも、そしたら失敗の上塗りになってしまう。
どうしようもなくて、なまえは気まずく唇を結んだ。

グリムジョーさん、呆れちゃったかもしれない。
怖くて、彼の表情を見上げることも出来ない。なまえは亀のように首をぎゅっと縮めて、瞳を瞑った。
しかし、聞こえてきてのは柔らかい笑い声だった。

「どんだけ謝ってんだよ」
「…えっと、その…」
「謝罪会見か?」
「ちがくて…」

鋭い瞳は、意外にも優しく細められていた。注がれる視線だって、不思議に暖かい。なまえは吸い込まれるように、その優しい表情を見つめた。

盗み見る事しか出来なかった瞳をなまえは真正面から、見詰めている。

一歩前進。なまえはやっとの思いで「いろいろ、ありがとう」と、ぎこちなく言った。

「…別に。あ、店まだ先だったわ」
「え!あ、良かった…」
「腹減ったな。肉パスタ食いてえ」

グリムジョーは、なまえの手をぎゅっと握り直した。そこでハッとしたなまえは、また顔を真っ赤にして、ダンゴムシみたいに背中を丸めて「おなか、すいたね」とボソボソ返事を返す。道のりは、長い。

路地裏の奥、ビルの一階でオレンジのランプが輝いている。まるで映画に出てくるお店みたいに、オシャレだった。アーチ状の入り口の扉を引けば、カランとベルの音が鳴る。

真っ白なテーブルクロスが引かれた席に通されると、グリムジョーはおもむろになまえに顔を寄せた。
そして悪戯に笑って、ひとつ呟く。

「なまえ。お前騙されてっから、言っておくけどよ」
「…えっ!?何?」

なまえは動揺して顔色をサッと変えた。
騙されてるって、何のこと!?まさか、この間ワンナイトしたのってドッキリ?いや、まさか…。一体どんな企画よ、ソレって…。
と、トンデモない勘違いが暴走した。なんなら、勝手に思い詰めてハラハラして吐き気すら催してしまった。
雪だるま式に、悪い予感は大暴走。まさか、セフレ関係を解消しようなんて話だったりして!?
グリムジョーはニヤニヤ笑って、一人百面相をするなまえを焦らした。
しかし告げられたのは、別れの言葉でなかった。

「お前、忘れ物本当にしたと思うか?俺ン家に」
「…え?」

なまえは確かに、心当たりが無かった。忘れ物を届けると言われて、ついでに晩御飯を一緒に食べれると知って、浮かれてノコノコやって来ただけなのだ。
忘れ物なんてしたっけ?でも、私のことだからウッカリしたんだろうと納得していたのだ。

どうやら、それは違うらしい。

「忘れ物なんか、無えよ」
「うそっ」

じゃあ、何故。
グリムジョーは何故、真っ赤な嘘を吐いたのだろうか。なまえはパニックで頭が回らない。何故だろうと、疑問だけが頭の中をグルグルしている。

こんな感じだから、目の前のグリムジョーの含み笑いにも、愛おしげに注がれる視線にも、気付かない。
だって、恋は盲目なのだから。

「なんで…?」
「野暮だよなァ、意外と」

なまえったら、グリムジョーの慈しむような瞳から目を逸らしているから、真実に気付かない。
頭でっかちに悩んで、答えも、手も足も出ないんだから。

夢のようなディナータイムは始まったばかり。なまえは焦げ付く胸の奥を詰まらせながら、オシャレなパスタを飲み込んだ。
この先の事はあまり記憶にない。肉パスタなんてメニューがあったかすら、思い出せなかった。
去り際に、頭を撫でられたのを夢現に思い出すのみ。

お風呂に浸かりながら、なまえは今日の出来事を反芻していた。
何故、という疑問が尽きなかったからだ。

まず、忘れ物を届けるという口実で、突然ご飯に誘われた。
蓋を開けてみれば、忘れ物なんてしていなかった。つまり、グリムジョーがなまえをご飯に誘う口実を無理矢理作ったように思える。

何故。
セフレって、セックス以外に用事は無いはず…。
もしかして、グリムジョーさんて、暇人なのかも知れない。お友達が居ないのかも。
いやいや、それにしたっておかしい。セフレとご飯に行くだなんて。しかも、あんな素敵なお店に行くだなんて!

何故、私なんかと。

なまえは「きっと何か裏があるのだ」と訝しみ、ウンウン考え抜いて、悪い閃きを得た。

わかった!
グリムジョーさんには、本命の彼女が居るんだ!
その人の為に、今日はお店の下見をしたんじゃない!?私を使って!

こんな勘違いが、腑に落ちてしまったなまえ。
考えを巡らせるほど、悲しくも筋道が通ってしまう。

きっと、記念日か何かが近いから、私で一旦デートの予行演習をしたんだ!
多分、お店の下見って早い方が良いに決まってる。だから忘れ物だなんて口実まで作って、急遽呼び出されたんだ。

なんてこった…!

なまえは、グリムジョーの好意をこう曲解して落ち込んだ。お風呂のお湯にいくら浸かっても、体は暖まりそうにない。

涙を流して布団に倒れ込んだなまえだけれど、果たして本当にそうなのだろうか。

グリムジョーが、そんな失礼を働く男に見えるだろうか。
確かに辻褄の合う解釈だけれど、彼がそんな不義理をするとは思えない。
わざわざ嘘の口実を作ってまで、グリムジョーがなまえを晩御飯に誘うだなんて。
一端のロマンスを感じでも、良いような気がするではないか。

病的な自信の無さと、悪い噂のせいで、なまえは真実を捻じ曲げては居ないだろうか。

なまえはこうして、脱線事故のような勘違いを覚えてしまった。


(つづく!♡)


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