△のぼり線 各駅停車


グラスの中で、泡が弾けた。
店内を照らす金色の柔らかい光は、なまえのカールした睫毛に反射して、シャンパンゴールドに煌めいた。

夜の帳が下りる頃、居酒屋の個室はアルコール混じりの生ぬるい空気に包まれていた。
隣でスマホにメッセージを打ち込むシャウロンを見上げて、なまえは「誰か来るんですか」と聞いた。

「ああ。これからグリムジョーが来るそうだ」
「あ、噂の!」

なまえは「どんな人なんだろう」と潤んだ唇で呟いた。
シャウロンは真面目な顔をしたまま、なまえに「お前は、まだ会ったことが無かったのか」とぽつりと呟いた。

「はい。まだですね…」
「まあ、一度会ったら忘れられないだろう」
「そんなに凄い人なんですか?」

シャウロンは、黙って頷いた。
なまえはその真剣な眼差しに圧倒されて、「なるほど…」と小さく呟いて視線を逸らした。

そんなに、凄いんだ。
どんなふうに凄いんだろう。
なまえは考えた。そして、辺りをぐるりと見回した。
この人たちから一目置かれるだなんて、よっぽどの人なんだわ。と、こう思った。

この飲み会は、古い友人のディ・ロイくんに誘われてから参加し始めたものだった。メンバーは、いつも大体5人くらい。なまえ以外は、全員男というハードボイルドな感じ。

何故、こんなに濃いメンバーが集まったんだろうと不思議に思うくらい、皆揃ってノリが良くて、男気みたいなものが溢れている人ばかり。うっかり惚れちゃいそうになる瞬間が多くて、正直危ない。

なまえは素敵な今日の飲み会のメンバーを一人一人端から見遣った。

その、グリムジョーさんって。

あのエドラドさんよりも、キャラが濃いんだろうか。
ナキームさんくらい、物知りなんだろうか。
まさか、シャウロンさんよりも紳士だったりして。
あのディ・ロイくんよりも剽軽者かしら。
いいや、シンプルにイールフォルトさんよりも王道なイケメンなのかも知れない。

こんな風にウームと考え込むなまえを見たシャウロン、ひとつの悪戯心が疼いてしまった。

「奴に会う前に、一つだけ忠告がある」
「?はい」
「決して惚れるなよ」
「えっ?」

シャウロンは、笑いを堪えて頬の内側を噛んだ。なまえの驚いた顔に、吹き出しそうなのを我慢している。
しかし。側から見れば至極真面目な顔であった。まさか人を揶揄うときの表情には見えない。
なまえは当然のように、それ間に受けた。そして、辺りの喧騒をシャットアウトするよう、彼の優しい忠告に耳を傾けた。

「良いか、気をつけるんだぞ」
「…あの、そんなに女たらし…なんですか?」
「いや…ただ…」
「ただ?」

酔いどれのシャウロン、実はこの先の言葉なんて考えていなかった。
グリムジョーは単純にカッコよくて、モテすぎるだけの男であると、いつネタバラシをしたら良いのだろうか。
そう思いながらも、忠犬のように言葉の続きを待つなまえが可愛くて、モゴモゴと「アイツはな…」と言葉を続ける。

すると、また別な酔っ払いが勝手に続きを語ってしまった。

「アイツ、女100人斬り達成しちまったからなァ!」
「うわあ!ロイくん!」

ディ・ロイである。悪ノリ総大将といえば、コイツ。根も葉もない悪いイメージを植え付けて、悪魔のような声でひゃひゃ、と笑っている。

「ひゃくにん、ぎりって…」
「多分な、多分。500人だったかも知れねえし」

ディ・ロイの言葉に不安げに眉尻を下げたなまえ。そこへ追い討ちをかけるよう、エドラドはまた根も葉もない噂を流し込む。

「ああ、それホントだからよ」
「えっ」
「あそこの店員さんいるだろ?」
「…はい」

個室の飾り窓は、格子になっていて、廊下とその先のカウンターが見える。丁度、そこでは女の店員さんがビールを注いだり、忙しげにお皿を運んでいた。2、3人くらいが忙しなく廊下を行き来していた。

「あの辺、全員抱いてるぜ」
「ええ…」

流石に嘘だろうけれど、なまえは半信半疑にその言葉を受け止めた。
今、ここに居るメンバーだって、すごくすごくモテる男のひと達だった。そんな凄い人たちが、こんなに大袈裟な冗談を言うくらいなんだもの。
きっと、グリムジョーさんって、彼女を常に5人くらい抱えているんだわ。家に帰ると、毎日違った素敵な女の人が玄関に出迎えに来ているんだわ。
なまえはそう早合点した。

訝しげに眉根を寄せたなまえを見て、遠くで盛り上がっていた筈のナキーム、イールフォルトも赤ら顔で、悪ノリの波に乗った。

「なまえ!グリムジョーに抱かれて居ない女の方が少ないぞ」
「うそだあ…」

イールフォルトは白い歯を光らせながら、とろりと酔った瞳をなまえへ向けている。

「俺はな、獣と人間の恋愛はオススメしない」
「そんな…。いや、どんな人ですか?」

ナキームはつぶらな瞳をそおっと伏せて、首を小さくふりふりした。

なんだか、良い印象がこれっぽっちも見つからない。とにかく、グリムジョーさんとは仲良くならないようにしよう。
そう決意したなまえを唆す悪魔がいた。イールフォルトだ。奴はするりと席を抜けて、なまえの耳に唇を当てながら囁く。

「まあ、兎に角会ってみろ。ただ、アイツに惚れる前に、俺にも惚れておけ。絶対損させない事を約束してやろう」

そう言って更になまえと距離を詰めるイールフォルト。まるで王子様のような相貌に、うっかり恋しちゃいそう。
でも。その美しい瞳の奥に、妖しい企みがチラついている。

「…遠慮します!」
「おっ、フラれてしまったか…」

なまえはうっかり堕ちそうになった、不埒な心をどうにか抑えた。
わざとらしく悲しそうな顔をして見せて、イールフォルトはシャウロンに泣き付いた。しかし、シャウロンは蝿でも追い払うよう、それを「やかましい」と、跳ね除けた。
仲良しの男同士の距離感って、かなりドライ。

なまえはディ・ロイにこっそり耳打ちするよう「そんなにカッコいいの?」と聞いた。
ディ・ロイはニンマリ笑うだけで、何も答えちゃくれない。
もう、なんで!教えてよ!と、なまえがディ・ロイの腕をぺちぺち叩いていると、やけに色っぽく、気怠い声がして個室の扉は開かれた。

「何だよ、随分出来上がってんじゃねェか」

運命って、突然あっちからやって来る。
なまえはその人を見て、心臓を鷲掴みにされたような気がした。

グリムジョーの瞳を彩る澄んだ青は、氷よりも、宝石よりも、鋭く煌めいた。
引き締まった口元は、ディ・ロイの「待ってましたァ!」という声で、片方の口角だけを吊り上げて笑った。

少し微笑むだけで。
歩くだけで。
席に座るだけで。
何もかもが絵になる男だった。

彼を見つめるだけで、なまえの心臓はドキンドキンと高鳴った。呼吸も忘れて、見惚れてしまった。
なまえの丸い頬に、血の気がさした。そのまま甘い熱は唇と、耳の端を上り、全ては色付く花弁のように赤らんだ。

グリムジョーと視線が合うと、なまえは堪え切れず、瞳を逸らしてしまった。
自分の指先を見つめたまま、なまえは全身の骨まで軋むような痛みを感じた。
まさかこれが、恋の始まりだとは思わなかった。

グリムジョー・ジャガージャック。まるで呪いにかかったよう、なまえはこの名が頭から離れなかった。
青い稲妻が一瞬にして、目の前を走ったかのような衝撃だった。








すみれの花でも映したように、美しい瞳が輝いた。
アイシャドウのラメは宝石を砕いたような輝きを放っていたし、瞳を縁取るアイラインは春の夜空から色を取ったみたい。
パチパチと瞬きをするたび、星屑でも散りそうにロマンチックな眼差しは、彼女の手元と、壁に掛けられた時計を交互に写していた。

日本、都内、某オフィス街。
こじんまりと慎ましく佇むビルの5階。OA機器を扱う会社の一角で、なまえは夢見がちに瞳を揺蕩わせていた。

あの運命のひとに恋をしてから、早数ヶ月。参加する飲み会は、毎回ドキドキ高鳴る胸が苦しい程だった。

早く早く!定時にならないかな。
なまえは誰がどう見ても分かるくらいに、ソワソワしていた。
だめだめ。まだ仕事中だもの、落ち着かないと。ああ、でも落ち着いていられるわけがない!
こう思ったなまえは、やはり浮き足立ったまま、伸び切ってしまったネイルを指で優しく撫でた。
今日は金曜日。いわゆる華金で、ハメを外すには持って来いの夜が待っていた。
なまえも御多分に洩れず、ちゃっかり飲み会の予定を入れている訳で。

しかも、好きな人も参加する飲み会だ。
今すぐキャーっと叫んで、支社長の肩をバチンバチンと叩きたいくらい浮かれていた。少しくらいなら、叩いても良いかしら。
彼をチラリと見上げた瞬間、鋭い声が矢のように飛んできた。

「オイなまえ」
「は、はいっ」

支社長、ノイトラ・ジルガ。まだまだ若いのに、管理職を務めている。自称、仕事の出来るイイ男。
ノイトラ支社長の鋭い眼光が、なまえを射抜く。

「男だろ」
「えっ」
「今日、男との予定が入ってんだろ、お前。なァ」
「…えっと」

彼がスッと立つと、モデルにでも見えるような痩身長躯。キリリと引き締まっていたはずの唇をひん曲げて、ノイトラはなまえのデスクに手をついた。

「浮かれやがって、オイ」
「そんな事…ないですよ」
「ンな訳ねえだろうが。さっきから時計ばっか見やがって。今日、ぜってー定時で上がらせてやんねーから」
「!そんなぁ」

なまえはへにゃ、と眉を曇らせてノイトラを見上げた。
なんて意地悪なの、この人って!
可愛らしく困った表情を浮かべたなまえを見て、ノイトラは鼻で笑った。

「定時になったら、すんげェ書類渡してやっからよ。覚悟しとけよ」
「ええっ」

悲しい悲鳴は、ただノイトラを喜ばせるのみだった。口笛まで吹いてご機嫌な支社長を見て、なまえは後悔した。
ああ、大人しく仕事に集中すれば良かった…。
後悔、先に立たず。
なまえがしょんぼり肩を落としたまま、時は刻々と流れ、ついに定時を迎えようとしていた。

「なまえ、来い」
「はぁい…」

叱られた仔犬のようにしょぼくれたなまえ。ああ、浮かれていた罰なんだな。きっと高層ビルみたいに積み上げられた書類を任されてしまうのだ。
こう覚悟しながら、ノイトラのデスク横にちょこんと立った。
ノイトラはそれを横目で見て、走り書きのメモを一枚握らせた。

「切手、買ってこいよ」
「え?今からですか?」
「そォだ。枚数これな」
「84円、いちまい…だけ、ですか」

ノイトラは不機嫌に頷いた。

「それ買ったら、月曜の朝9時キッカリに俺に渡せ」
「!は、はい」

つまり。
おつかいついでの、直帰って事だ!
定時より15分も早い退社である。
やっぱりノイトラ支社長は、仕事の出来るイイ男だったのだ。なまえは聞き分けの良い可愛いわんちゃんみたいに瞳を輝かせて頷いた。

「領収書、貰い忘れんなよ」

ニヒルに微笑んだノイトラ支社長。なまえは、うっかり惚れそうになる心を抑えて、鞄を持ち、スキップするように退社した。

会社のトイレでしっかりメイクを直して、近くのコンビニで切手を買う。領収書は仕事用のポーチに突っ込んだ。
いざ向かうは、なまえ行きつけの駅ビルである。
行きつけのネイルサロンで、新しいネイルに塗り変えてから件の飲み会に挑むのだ。
指先に仕込むラメが、あの人の目を惹きますように。
祈るような気持ちで、なまえはネイリストさんに「今日も、可愛いやつでお願いします」と言った。

爪がゴリゴリ削られてゆく。ネイリストさんは「少しくすんだピンクにしましょう」と言ったきり、あとは殆ど無言を貫いていた。
何故なら。

「で、そのティロリラって男の子が、なまえの高校時代からのセフレ…だっけ?」
「違います!何もかも違います!」
「あ、ゴメーン」
「高校受験の時からの塾仲間で、ずっとお友達のディ・ロイくんです!」

なまえが憤慨しながらキャンキャン吠えると、シャルロッテは頬杖をついてウンウン頷いた。これは、どうでも良い話を聞いている時の相槌の打ち方である。

「ああ、そうだったわね。アタシ、そのシャウロンさんっていう紳士意外の名前以外は覚えられないのよ。青臭くって」
「ひ、ひどい!」

自称、カリスマエステティシャンのシャルロッテが、なまえに絡みまくっていたからだ。
(カリスマなら、何故こうして無駄口を叩く時間があるのだろうか…。これは、人類史上最大の謎である。)

「アタシ青臭いのも、乳臭いのも嫌いなのよ。なまえもよく知ってるでしょ?」
「まあ、はい…」

そもそも。
何故、シャルロッテがなまえに絡むのかといえば。
このネイルサロンはエステ部門も併設されていて、スタッフが入れ替わり立ち替わり受付を行っていた。
昔、なまえの受付担当をしたのがシャルロッテ。初対面で「あら可愛い女の子」なんて微笑まれてから、すっかり仲良し。
今じゃ仲良しを通り越して、姉妹みたいな距離感である。

シャルロッテは心底どうでも良さそうに、「で、これから何しに行くんだっけ」となまえに聞いた。

「飲み会に行くんです。えっと…好きな人も、参加するやつです。さっきのディ・ロイくんとかも居て…」

なまえは、片想いをしているグリムジョーの顔を思い浮かべてはにかんだ。
グリムジョー・ジャガージャック。名前までカッコいい素敵な男のひと。
ある日、ディ・ロイに呼び出されて参加した飲み会で見つけた、なまえにとって運命のひとだった。

好きだからこそ、距離を縮められず。なまえが少女みたいな顔をしてモジモジ足踏みしたまま、半年が経つ頃であった。
シャルロッテは、失礼にも小馬鹿にした笑みを浮かべて、なまえの肩をちょこちょこ突いた。

「ああ!まだなまえが一回もテイクアウトされてない、男だらけの飲み会ね」
「も、…もうっ!」
「事実でしょ。ねえ?」

シャルロッテはネイリストさんに話を振った。ネイリストさんは「確かにいつも、好きな人の隣に座った…という報告しか、なまえさんから聞いてませんね」と言って、ジェルを馴染ませ始めた。

「…だっ、だって、……」
「気合いが足りないのよ。好きな人の隣に座ったら、そのまま肩でもちょこちょこ当ててやれば良いのよ。分かった?」
「で、できませんよお…」
「どうして」
「…………か、」
「か?」
「カッコよすぎて…!」

そう。グリムジョー・ジャガージャック、カッコよすぎ問題である。
なまえの言うところには。
まず、顔がカッコいい。とにかく、カッコいい。少女漫画のヒーローだって、少年漫画の主人公だって、絶対敵わないようなカッコ良さがあるらしい。
ちょっと強面だし、無愛想だし、あんまり喋らないけど、その渋さが“堪らない”とか。
まるで猫みたいに気まぐれに微笑む所とか、はたまた、犬のように律儀に「女は10時前に帰れ」と必ず誰かをくっ付けて家に帰してくれるところとか。
隣に座れば「美人ゲット」と微笑まれるし。美味しいおつまみを見つければ、毎回「やる」ってあーんしてくれるし。

彼を心に思い浮かべるだけで、なまえの頬はデレデレと緩んでしまうのだった。

シャルロッテは「重症だわ」と冷たく呟いて、なまえの頬をつまんだ。

「いひゃい」
「そんな事言ってるうちに、他の女に取られちゃうわよ」
「…ほれは、れふねえ」

「それは、ですねえ」と言ったつもりのなまえは、ふっと思い出したのだ。
ディ・ロイ含む、飲み会仲間から聞いた話である。

あの日の噂を始め、彼の過去の武勇伝を聞くと、おいそれと近づけないのだ。女の影が色濃く付き纏う、忌まわしき武勇伝である。
どんなに彼が距離を縮めてくれても、こちらからは一歩も踏み出せない。

今まで聞かされた武勇伝といえば。
「百人斬り達成」とか。「女抱くついでに、俺も抱いてもらった。あの夜は忘れられねえ」とか。「俺の歴代彼女、全員グリムジョーの元カノ」とか。「ていうか俺が女と別れる原因、全部グリムジョーのせいだから」とか!

そんな話を聞く度、なまえは「嘘でしょ」と言いながらも、服の下で滝汗をかいていた。
火の無い所に煙は立たないって、昔から言われているじゃないか。
胸の内で彼らの噂を反芻するうちに、「そんなモテモテな人が、私なんかを好きになるはずがない!」と、強く確信してしまった。

ふと表情を暗くしたなまえを励ますような声色で、シャルロッテは逞しくもセールストークをふっかけた。

「ま、この美容液でも付けて、女っぷり上げると良いわよ。悩みもブッ飛ぶわよぉ。今なら小さいオイルも付けちゃうから、ねっ!」

涙で少し揺れる視界に、シャルロッテのセールススマイル。眩しすぎる。なまえはキッと口元を引き締めて、勇気を出した。

「…いりません!」
「アラ、残念。今美人になるチャンス、逃したわよ。もう売ってあげないんだから」
「…そう言われると……」

ちょっぴり欲しいかも。
決心って、すぐに揺らぐ。
本音は胸の奥にしまって、なまえは「大丈夫です」と、2回目の勇気を出した。

気付けば指先が、可愛らしくキラキラ光っていた。ネイリストさんは満足げに「いかがですか?」と微笑んでいる。もちろん、ばっちりですとも。

まだしつこくオススメされる美容液を跳ね除けつつお会計をすれば、飲み会まであと少し。
なまえはドキドキ高鳴る胸を押さえて、待ち合わせ場所へと足を進めた。
お気に入りのヒールが、まるでシンデレラのガラスの靴みたいに思える。
ロマンチックな足取りで、なまえは憧れの王様に会いに行くのだ。





ウキウキで席についたなまえ、とんでもないニュースを耳にした。

「えっ!今日、グリムジョーさん来ないの!?」
「多分な。時間、間に合わねーってさ」

ディ・ロイはビールをチビチビ飲みながらヘラヘラ笑った。
なまえは衝撃のあまり、ポカンと口を開けて、固まってしまった。
せっかくネイル、変えたのに。
なんなら、お洋服だって新しいやつだし。ついでに言えば、下着だって…その、新品だし。頑張って買ったカワイイやつなのに!

なんてこった…。

魂でも抜かれたようにボンヤリ瞳を暗くしたなまえだけれど、ハッと正気に返った。
せめて理由くらい、リサーチせねばとディ・ロイの方へ向き直った。

「な、なんで!?」
「知らね。女でも抱いてんじゃね」
「そんなあ…」
「今頃3人目の女でも抱き潰してっかもなァ」
「またそんなこと言って!」

ディ・ロイの口調からして、冗談と分かっていても、なまえは胸の中でモヤモヤとした気持ちが広がった。

あの日から聞かされ続けた、彼にまつわる噂。それはいつしかなまえの中で、真実に変わっていた。

きっと本当に、たくさんの女の人と関係を持っているのだと。要はたくさんのセフレに囲まれて生活しているんだろう、と。家に帰れば毎日別な女の人が出迎えるような、現代版ハーレムでも築いているんでしょ、だなんて。
なまえの中で、そんな確証が芽生えていた。
全部、周りの悪い男たちのせいである。

「…今日、お仕事なのかな」
「じゃね?アイツ、意外と真面目なんだよな」

しょぼくれたなまえを見て、やれやれと言わんばかりのディ・ロイ。
でも、この男も根っこは意外と真面目。
「そっか…今日会えないんだ」と、寂しげに俯くなまえを放っておける訳もなく。

ディ・ロイはなまえに「ま、そんなに落ち込むなよ。お前が寂しい時は、俺が抱いてやっからな」と、最低な慰め方をした。「いらない」となまえが顔を背けているうちに、グリムジョーにひとつメッセージを送る。
少しで良いから顔出せという、簡単なメッセージだ。

果たしてその男は、ここへ来るのであろうか。





ほろ酔いのなまえが、トイレに立った頃であった。
ディ・ロイに「泣くなってば」とくしゃくしゃに撫でられた髪の毛やら、涙でよれたアイシャドウを直して、鏡の前で気合を入れていた。
だって、ついさっき、ディ・ロイくんが「グリムジョー来そう」とボソッと言ったのだ!

それを聞いた途端、ポーチをひっ掴んでトイレに駆け込んでしまった。
廊下だってスキップで渡ってしまったし、鼻歌も歌ってしまった気がする。そう、舞い上がっております。
せめて可愛い自分で居たくて、なまえは鏡の前で必死に指差し確認。
前髪、良し。目元、良し。リップもお直し完了。
さて、あとは大好きな彼の到着を待つだけ。と、扉を開けた瞬間だった。

「あ?なまえじゃねえか」
「えっ」
「アイツらどこだ?店員居ねえから、席分かンねえんだよ」
「…あ、あのっ」
「連れてけ」

グリムジョー・ジャガージャック。
恋焦がれた人が、目の前に立っていた。
あまつさえ、なまえの肩に腕を回して「この店、店員少なくねェか?」なんてぼやいている。
なまえ、パンク寸前。譫言のように「すくない、ね」なんて言うしか出来ない。もう目も合わせられない。
そもそも、ちゃんと彼の目を見つめた瞬間なんて無いけれど。

「こっちの、個室に…」
「あァ、男くせェから分かってきた。左の手前だろ?」
「…正解」
「俺ァ鼻が利くんだよ」

グリムジョーは、筋肉の詰まった重い腕をなまえの肩に預けている。2人の距離はゼロ。なまえの心は溺れそうに悲鳴を上げていた。
隣から仄かに香る、男の人らしい香りや、布越しに伝わる体温。それに、近いところで響く甘い声。
ふと見上げれば、流星を閉じ込めたような瞳と鉢合わせ。

嬉しさに耐え切れない心は、軋みを上げていた。

「随分大人しいじゃねえか。飲みすぎたか?」

ぐっと顔を近づけられて、なまえはとうとう心臓が破裂しそうになる。
いけない。何か、何か言葉を返さなきゃ。変って思われないようにしよう。つまらない女って、思われないようにしよう。
こうして焦れば焦るほど、唇は戦慄いて動かない。
かろうじて動く首を小さく縦に振ると、グリムジョーはフッと笑って個室の扉を開けた。

せっかくの2人きりの時間が終わろうとしているのに、なまえは何故かほっと安心していた。
肩から腕を下ろされたのも、寂しいけれど、心地よかった。

好きでいればいるほど、苦しくなる。
こんな恋やめちゃえと、何度思っただろうか。今日限りにしようと、何度決意しただろうか。
捨て切れない感情は、今も心の真ん中で沸騰しそうに血を滾らせていた。

「あっ!遅えぞ!何してたんだよ」

ディ・ロイはグリムジョーを非難しつつも、安心したような笑顔を見せていた。しかも隣には問題のなまえを連れているじゃないか。どこか嬉しそうに目を細めつつ、ディ・ロイは声を荒げた。
他の4人も「主役だからって遅れすぎ」だとか「お前だから許した」なんてヤンヤ騒いでいる。
グリムジョーはディ・ロイの飲み掛けのビールを奪って飲み干し、チラリとなまえを見遣った。

「悪い。女、口説いてた」

沸騰したように、その場が沸いた。むさ苦しい雄叫びが個室に響き渡る。
なまえは目を白黒させてグリムジョーの背中を見つめる。待って、今、なんて?
可愛らしい女の子を置き去りに、グリムジョーは腕時計を見た。

「オイ、そろそろ時間だろ。誰かなまえ送ってってやれ」
「!」
「…って言いてえけど、お前ら、今日酔い過ぎだな」

個室に詰め込まれていた男たちは、全員判を押したように真っ赤な顔でヘラヘラ笑っている。こりゃあ大事ななまえを任せられん。
会計用の小さいバインダーをシャウロンの内ポケットに捩じ込むグリムジョー。テーブルから離れるついでに、ディ・ロイのオデコをピシャリと叩く。
そして、隣に置いてあったなまえの鞄を持ち出して、手渡す。

「おし、帰ンぞ」
「えっ、あっ、はい!」

ロクにお酒も飲まず、男共とも話さず。忙しい中、わざわざ呼び出しに応じて、なまえを家に送り届けると言ったグリムジョー。
彼の内心が分からないまま、なまえはその逞しい背中を必死に追いかけた。
シンデレラの靴は王様を追っかけて、なまえをどこへ連れて行くのだろうか。






「狭くて悪いな」
「いや、ぜんぜん…」

語尾は尻窄まりに消えた。
なまえが手を引かれるがまま、連れて来られたのはココ。
グリムジョーの自宅であった。

まさかの事態だけれど、期待していた展開ではあった。何度も寝る前に妄想したシチュエーションだった。
でも実際にこうなると体はカチカチに固まるし、声は震えるし、不安と動揺に駆られる心が、忙しなく揺れるだけだった。

「俺、飲み足りてねェから付き合えよ」
「うん…」

家に向かう途中、立ち寄ったコンビニで買ったチューハイを開けて、無言のカンパイ。なまえは怯える心を紛らわすよう、大きな一口目をごくりと飲み干した。

「…男相手に飲むのもダリィし」

ビールを飲んだグリムジョーは、珍しく言い訳じみた口調でそう言った。

「そうなの?いつも、楽しそうなのに?」
「あ?あンなの、腐れ縁だ。腐れ縁」
「うそ!」
「じゃなきゃ男同士集まって飲む理由が無えだろ。男くせェ」
「ええ、そうかな…」

少し乾いてしまった唇に指を添えて、なまえは考えた。男の人同士って、よく分からない。あんなに仲良しなのに、腐れ縁で済ませちゃうのかな。
そう思うと、グリムジョーにとっての自分は、一体どんな立ち位置なんだろうと不安に眉を曇らせた。

「じゃあ、なまえは何しに来てたンだよ」
「えっ」
「あんな男くっせェ飲み会だぜ?」
「それは…」

答えられない。まさか最初は楽しいだけで参加してたけど、いつしかグリムジョー目当てになったとは言えない。
沈黙を許されるはずもなく、なまえはジロリと鋭い視線を浴びせられてしまった。

「言ってみろ」
「それは…」

それは。
1番言いたくて、1番言えないのだ。
なまえは、破れかぶれに唇を震わせる。

「……ないしょ、です」
「おし、もっと飲め」
「え!?」
「酔えば本音言えるだろ。吐かねえ程度に飲め」
「やっ、やだ!いらないっ」
「あ?微温ィ事、言ってんじゃねーよ」
「うう…」

グリムジョーはなまえの缶を勝手に手に取り、小さな手にそれを握らせ、口元に運んだ。

「オラ、イッキだイッキ」
「アルハラ…」
「飲まねえお前が悪い」
「…ますます、アルハラだっ」

ぐいぐい押しつけられるそれを、仕方なくなまえは飲む。グリムジョーは満足げに笑って「やれば出来るじゃねェか」となまえの頭をわっしわっしと撫でる。

それが心地良くて、なまえはつい瞳を伏せてしまった。アルコールが誘った眠気のせいでもあった。いけない、目を開けないと思っても、目蓋の重みに抗えなかった。

なまえの頭を撫でていたはずの手は、するりと落ちて頬に添えられた。あれっと思って、ぱちりと瞳を開ければ、深く澄んだ青い瞳が、もう目の前。
金曜の夜、好きな人の部屋で、2人きり。

なまえはお酒のせいだと言い訳をして、冷たい鼻先同士を触れ合わせた。


(つづく♡)


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