株式会社シュテルンリッター社。
超カリスマ敏腕凄腕最強スーパー社長であるユーハバッハを中心に、優秀な社員たちが昼夜を問わぬ勢いで、懸命に働いていた。
企画室のバンビーズを始め、広報デザイン部のエス・ノト、営業特攻隊長のバズビー。
最近は(株)藍染商事から引き抜かれたリューダースさんやイーバーンくんが大活躍。
勿論、社員を“手駒”と呼んでは現場へ送り込む統括部長のキルゲ・オピーだって並ではない。監査役員のぺぺ様だって、頑張っているらしい。多分…。きっと…。

アスキン・ナックルヴァールも、その精鋭の内の一人であったそうな。
上から数えて、だいたい5本くらいの指の中に入る感じ。会社の重要な事を決めている、うんとエラい人。通称親衛隊とも呼ばれている幹部役員なのだ。
艶やかな髪の毛をオールバックに纏めたナイスガイ。
今日もカフェオレ片手に、優雅にご出勤。

「おはようございます!」
「おはよん」

アスキンが通るだけで、ペーペーの営業マンは席を立って朝のご挨拶。それを軽く交わし、会社のロビーを抜け、その先に広がるオフィスを横切る。
横並びのデスクの中、気になるあの子がパソコンのディスプレイに向かっているのが見えた。相ッ変わらず可愛いよなァと、総務課の中で抜きん出て可愛らしい彼女を横目で盗み見た。
すると視線でも感じたのか、なまえはふと顔を上げる。2人の視線がパチ、と絡むと彼女は嬉しそうに席を立った。

「アスキンさん、おはようございます!」
「おはよ」

そう。この2人、仲良しさんなのだ。
まるで小さいワンちゃんみたいに駆け寄ったなまえは、アスキンの慈しむような視線の前で、ピタリと足を止めた。

「どお?忙しい?」
「ぼちぼちです」
「そォ。つか、アレどーだった?」
「…あのですねえ、」

なまえはうふふと顔を赤らめて、アスキンと並んで人気のない廊下へと向かってゆく。長い睫毛の隙間から覗く、夢見がちな瞳が揺れている。頬なんかは可愛らしくピンクに染まっていて、ぷるぷるの唇なんて、嬉しさを隠せずキュッと口角が上がっている。
アスキンはなまえ、やっぱり可愛いな、こン畜生!と、半ばヤケクソな気持ちで彼女を見下ろした。

アスキンは腹を切るような覚悟をして、あの男の名を口にした。

「で、なまえちゃんはハッシュヴァルトをご飯に誘えた訳?」

ホントはこんな事、聞きたくない。しかし彼女と2人連れ立って話す事といえば、これしかなかった。
アスキンはなまえが好き。
でも、なまえはハッシュヴァルトに惚れている。

そう。アスキン・ナックルヴァールはどんな因果か、片想いしている女の子の恋を応援する立場に立たされていた!
しかも、なまえの好きな人は自分よりも偉いユーハバッハの右腕、ハッシュヴァルトくんである。
なんか、こう…勝てない気がする。

上擦りそうな喉を低く鳴らして、アスキンは彼女の答えを待った。

「はい!再来週の金曜日に、一緒にディナーの予定です!」
「そりゃあ良かったねェ」

全ッ然、良くない。
まるで毒でも飲み下したような、酷い気分であった。ちょっと吐きそう。
でも、こんな心中は彼女に決して悟られたくない。カッコ悪いトコロは、絶対に見せない。これがアスキンの美学。
無理に人の良さそうな笑みを浮かべたアスキンは、嬉しそうにモジモジしているなまえを見下ろした。

「…で、アスキンさんにひとつ相談がありまして」
「またァ?」

彼女が嬉しそうに微笑む度、心がどんどん冷えてゆく。
そうか。想い他人とイイ感じなのね。
彼女が嬉しそうにした分だけ、アスキンの心には、寂しさが募った。まるで木枯らしでも吹き荒んでいるかのようだ。
冷めたカフェオレを一口飲んで、軽く息を吐いて心を落ち着かせた。
アスキンとは対照的に、なまえはピカピカの笑顔で話を続けてゆく。

「あの、ディナーの日のお洋服とか…選んでいただけたらなって…」
「それ、ホントに俺で良いのか?バンビ達じゃなくてェ?」
「だって、男のひと目線のが必要ですもん、今」
「あ、そォ…。じゃ土日のが良い?よな?」
「お願いしても良いですか?予定…は、無いですよね?」

ね?と念を押されるとアスキンは、つい寂しさも忘れて笑ってしまう。確かに予定は無いけれど。
ああ、なまえのこんな茶目っ気が堪らんのだ、男って生き物は。

「ちょっとちょっと、言ってくれるじゃねェか」
「アスキンさん、彼女居ないですもんね。カッコいいのに」
「余計なコト言われるとさァ、俺、土日に1人キャンプの予定入れちゃうけど…」
「だめだめ!お願いします!あの…ランチ、奢るので!」

今度は眉尻を下げて、必死にお願いする健気さが可愛らしい。断れるワケもない。そもそも、なまえと休日にお出かけって…。
口実はなんであれ、願ってもないチャンスだった。

「……じゃ、仕方ねェな。俺って困ってる女の子、放っておけないタイプだからさ」
「いつもすみません…」
「全然」

アスキンは「そろそろ戻らねえとか?」と話を切り上げた。なまえも「そうですね」と来た道を戻ってゆく。
前を歩く彼女のふわふわと髪が靡く姿すら可愛くて、ウットリとしてしまう。
ホントは話している間すら、「可愛いねェ」なんて言って、滑らかな頬を撫でてあげたいくらいだった。しないけど。だってソレ、セクハラじゃん。
総務のデスクへと戻ってゆく彼女の可憐な後ろ姿を見て、アスキンは叫びたくなった。

ホントは、俺のが先に好きだったのに!

もうウワーッと叫んで河川敷に走りたい気分だった。
今すぐにでも泣きながらスーツを脱ぎ捨て、裸足になりたい。そのままジャージにでも着替えて、勢いに身を任せてアスファルトを駆け抜けたい。
そうして草が茫々生い茂る河川敷にでも行って、この気持ちを吐き出したかった。キラキラ輝く水面だけが、この切なくも悲しい激情を受け止めてくれる気がしたのだ。

しかしアスキンは社会人。そんな気持ちを理性のブレーキで抑えて、大人しくデスクへと爪先を向ける。
心なしか、その足音は荒んでいる。

中途で入ってきたなまえは、俺が最初に狙ってたのに!
アラ可愛い子って、わざわざ総務まで顔を見に行ったのに!しかも、何回も!
用事もなく、総務に長時間滞在して怒られたってのに!

アスキンはデスクにドカッと腰掛けた。
ノートパソコンをガバッと開いて、電源ボタンを陥没させる勢いでギュゥウと押す。

横断歩道渡る時に小走りになる君が好きなのに!通勤途中にそれを見かけて心がギュッと鷲掴みにされたってのに!
コピー用紙をすぐ補充する君が好きだったのに!
シュレッダーのゴミも率先して片付けてくれる君が、ステキだと思っていたのに!

脳裏に浮かぶ彼女の姿を振り払うよう、パスワードをダカダカッと打ち込み、エンターキーを強かに、ッターーーンと音を立てて叩いた。

食堂で、何回わざと隣の席に座ったことか!どれだけ神経を張り詰めて、あらゆる話題を彼女に投げかけたことか!
だから、こんなに仲良くなれたのに!
あんまりだぜ、神様ってのはよォ!

回覧で回ってきた業界紙を裂けそうな勢いで開く。バサ!と音を立てて開いた紙面に顔を突っ込むようにして、アスキンは小声で呟く。

「もう話聞くの、終わりにしようぜ、俺…」

そうだ。もうやめよう。
好きな女の子の恋を応援するなんて、馬鹿げてる。

いつも思うのだ。
いっそ奪えたら、と。

しかし!
甘えるように「ねえねえ、アスキンさん」となまえに懐かれると「どしたの」と、ついつい親戚のお兄さんみたいな顔をしてしまう。
だって、あんなに可愛い女の子だもの。周りにケダモノみたいなオスがウジャウジャ居たっておかしくはない。
その中で、1人のニンゲンの男として一線を画する為、被った仮面であった。ホラ、俺はこんなに理性的ですよと言いたかったのだ。だからガツガツせず、とにかく穏やかに、親戚のお兄さんとしてじわじわとなまえへの距離を縮められたワケだ。
作戦通りではあった。

だが。今ではその仮面が邪魔で仕方ない。
まさかハッシュヴァルトへの恋を応援するハメになるとは!
もう外したいんですけど、コレ。

「………ハッシュヴァルトくん、ゲイだと嬉しいンだけど」

アスキン・ナックルヴァール、こんな独り言を漏らす迄に、追い詰められていた。
なまえがハッシュヴァルトにこっ酷く振られたら良いのに。本気でそう思う。
そうなれば、失恋ショックに陥った彼女を優しく慰められるだろう。その時になって漸く、上手にお兄さんの仮面を外せそうだなと踏んでいる。

どうか、彼女が失恋しますように。
もういっそ、御百度参りとかしようかな。失恋祈願である。
そうだ、京都あたりとか。良いんじゃないか?男ひとりの京都旅行。神頼みの巡礼。
現実逃避するよう、有給どこに入れよっかなァと卓上カレンダーを盗み見るうちに、アスキンは突然ふと我に返った。

好きな子の幸せを願えないオトコって、最悪じゃね?
余裕の無さ、最高潮。
男として、いいや、人間として致命的に終わっている!

「〜〜〜ッ、致命的だァ!」

紙面をバサッと机に叩き付けてしまった。
それを見ていた、モヒカンの男の子がひとり。

「うるせー」
「……ゴメンねェ」

通りすがりの営業特攻隊長、バズビー。怖いもの知らずに、幹部に向かって毒を吐き捨てた。アスキンの席の近くにあるホワイトボードに『カチコミ』と乱暴に書いて、颯爽とオフィスを出て行く。
いやいや、営業活動をカチコミって呼ぶのやめなさいよ。

こんな風に正気に戻って、ガックリ肩を落としたナイスガイ。
致命的に表情が冴えていない。普段はあんなにカッコいいのに。残念極まりない。
ステキな女の子に言い寄られても、スマートに断る術を100通りくらい持っているというのに…。
何故か、本命の女の子の前では手も足も出ない。

こんなはずじゃなかったのに!

まるで燃え尽きたよう、全ての感情を手放したアスキン・ナックルヴァール。そこから先は、まるで機械の如く淡々とお仕事をこなしたという。
ハンコもポンポン押したし、飛んできたメールだって、脊髄反射でお返事をした。
ああ、なんかもうイヤになっちゃう。
気付けばスケジュール機能のアラームが鳴って、お出かけの時間だ。執行役員は、今日も今日とて、外部のお偉いさんとご挨拶。
今から出れば、会社に戻ってくるのはお昼頃か。アスキンは立ち上がり、ホワイトボードに『カチコミ』と書いてから、すぐ消した。
やっぱ俺、そんなキャラじゃない。
いつも通り『(株)XCUTION 12:00まで』と書いて鞄を持った。

「行ってきまァす」

隣のリジェさんだけが「気を付けて」とウインクしてくれた。ありがとね。
執行役員、今日も頑張りますか!




素敵な革靴が、石畳を蹴っていた。艶やかな革は水面のように光り、5月の陽射しを天に向かって跳ね返している。
アスキンは汗ばむ額を指でなぞり、長く息を吐く。そして、さっきまで対峙していたあの人の顔を思い起こした。
今日も、銀城さんの圧が凄かった。
なんかこう、あの人スゴいよなァ。ちょっとゴールデンカムイにも出てたんじゃないのって言いたい。
アスキンはバキバキ鳴る首を鳴らして、ブラブラ歩いていた。
会社に戻るには惜しいような晴れ間が、ビル群の隙間からのぞいている。
空に揺蕩う雲の流れは、恐ろしい程に早かった。

ああ、こんな日になまえチャンと一緒にランチでも出来たら良いのに。今週末にランチするけれど、そうじゃなくて。
今週末の方は、あの子の恋に一躍買う為であって、俺にとっては損失だし。
そういうんじゃあない。普通の楽しいランチがしたいのだ。

なァんか、上手くいかないんだよね。
世の中って。

そう思いながら、会社近くのカフェの扉を開けた。カフェオレが美味しくて、ご飯も美味しくて。店員さんが爽やかで、とっても素敵なお店。当然、アスキンのお気に入りだ。
店員さんは元気に「いらっしゃいませ!お一人ですか?」と言った。アスキンは頷き、カウンター近くの席へと腰掛ける。

手渡されたメニューを眺めて、ナスとトマトのパスタにするか、雑穀米ときのこのハンバーグにするか悩みながら、アスキンは店員さんの言葉を反芻した。

「そ。お一人なんだよね、俺」

誰にも聞こえないよう、また呟いた。
寂しい響きは、店内の喧騒に飲み込まれて消えた。
扉が開く度、爽やかな風が吹き込む店内には、次第に客が増えてゆく。
アラ、混んできた。急いで決めないとねとメニュー表に目を落としたものの、おやっと思い、アスキンは顔を上げた。視線は入口の方に向けられている。

なまえだ!
なまえが珍しく、この店を訪れているではないか!しかも、アスキンと同じように、店員さんから「おひとりですか?」と聞かれているッ!

「…うそん」

惚けたように、なまえしか見えなくなった。彼女もこちらの視線に気付いたのか、ふとこちらを向いて、あっと驚いた。
朝といい、昼といい、この2人はよく目が合うらしい。

「あ!アスキンさん」
「…え、なまえチャン、おひとり?」
「はい!今日、会社の食堂混んでて、ここでひとりランチです…」
「マジ?」

2人のやり取りを見ていた店員さんは「お席、ご一緒にしますか?」なんて気を利かせてくれた。アスキンは「お願いしまァす!」と言うか、少し躊躇った。
男の上司と2人でランチって、OLのお姉さん的に最悪なのではと、ハラハラした。アスキンは嬉しいに決まってるが。
なまえちゃんはどうなのさと、不安に心が翳った。

しかし。
なまえは「お席、ご一緒します!」と小走りにアスキンの向かいの席にちょこんと腰掛けた。あまつさえ、ニコニコしているじゃあないか!

「良いのかァ?俺と一緒で」
「はい!ラッキーです」

ハキハキ答えたかと思うと、なまえは、すぐメニューに視線を落とす。そして10秒と経たず、「私、ハンバーグにします。アスキンさんはパスタにしてください。分け合いっこしましょう」とお茶目に笑った。
ハイハイ。全部お姫様の言う通り。
彼女の前で、アスキンはいっつもお手上げ状態。
店員さんを呼ぶ前に、アスキンはメニュー表の下の方、デザート欄をスッと指差した。

「デザート頼まねえ?俺、甘いの食べたい気分なんだよ」
「良いですねぇ。私、プリンにしようかな」
「偶然だな。俺もプリン」
「お揃いですね」

お揃い。
そう言われると、心がむず痒い。
照れそうになるけれど、アスキンは大人風に構えてグッと堪え、「そうね」と流し、そのまま店員さんを呼んだ。
どうしよう。なんか照れ臭くて目の前のなまえの顔が見れない。
チラリと彼女を盗み見れば、呑気に空を見上げて「今日、晴れてますね」なんて言っている。
ごめん、俺、それどころじゃない。
ふと視線が合って、にっこり笑ったなまえの顔を最後に、アスキンの記憶は幕を切ったよう、そこでブチンと途切れた。



気付けば定時を回っていて、隣のリジェさんが「お先」と、颯爽と立ち上がっていた。
俺、午後って何してたんだろう…と、アスキンは不安に駆られた。
恋は盲目。恋は病。付ける薬など、あるもんか。

午後の記憶を取り戻そうと、あちこちの書類をめくってみたり、メールの履歴を辿ってみた。意外にも、マトモに動いていた形跡が残っていた。
安堵に胸を抑えると、丁度胸ポケットに入れていたスマホがメッセージを受け取り、通知を鳴らした。

「!」

なまえだ!
「お昼は、奢っていただいてすみません。でも、ありがとうございました!今週の土曜日も、よろしくお願いします!」とニコニコの絵文字付きでメッセージが送られてきたのだ!

今まで呆けていたようなアスキンの瞳は、打って変わって、ダイヤモンドの如くキラキラ輝いた。
いくらオシャレで、余裕のあるカッコいい男だって、好きな子の前では、超が付くほど単純になるのだ。

お昼ご飯、ちゃんと奢ってあげてたんだ、俺。再々に安堵の溜息を吐きながら、アスキンは「よろしくね」と書いてあるスタンプを彼女に送った。

何にせよ、土曜日はなまえと楽しいデートである。
ああ、少しでもカッコよくエスコートして、気持ちが俺に靡いてくれたら嬉しいンだけど。
アスキンも仕事はやめにして、「お疲れ様でしたァ」と席を立つ。営業特攻隊長、バズビーはまだカチコミから帰ってきていないらしい。ご苦労様であります。

会社を出て見上げた空には、一番星が銀色に輝いている。

果たしてこの恋、叶うのであろうか。







デート、当日。

「コレ食べるの難しくね?」
「切り方、難しいですよね…」

アスキンとなまえは、またしてもおしゃれなカフェで、オシャレなランチを食べていた。
オープンサンドである。
アスキンがサンド系を好きなのを知っていたなまえは「オープンサンドってやつ、ありますよ。私、コレにしようかなぁ」なんて微笑むのでメニューは即座に決まった。
いつもより近い距離感でなまえとのお食事。
キュンと音を立てる胸の内を悟られぬよう、「カフェランチって感じだねえ」とアスキンは涼しい顔をして答えた。
その皮膚の下には、沸騰しそうに熱く滾る血液がドクドク音を立てて流れていた事を、なまえは知らない。

お待たせしました!と言って店員さんが運んできたのは、正しくカフェランチって感じのもの。
白い大きいお皿に、ちょこんとパンが乗っている。その上にアボカドやらトマトやら、クリームチーズやら。オシャレにイタリアンパセリまで散らされている。アスキンはエビのやつ。なまえは生ハムのやつを頼んだ。
ナイフとフォークを使うにも、素敵に散らされた具材を避けたりするので、非常に食べずらい。
アスキンもなまえもナイフとフォークを構えたまま、首を傾げて固まってしまった。

「これ…半分に折って、ハンバーガーみたいに、紙に包んで貰いたいですよね」
「ソレ、天才だな」
「オープンサンドの意味、無くなりますけどね」

周りに聞こえないよう、そっと顔を近づけて話すなまえ。ドキンドキン鳴る心音が彼女に伝わるんじゃないかと、アスキンは気が気では無かった。
可愛い女の子って、いくら見ても慣れない。
普段の日とは違って、なまえのメイクはキラキラしてるし、髪の毛だって可愛く巻いてある。揺れる度キラキラ光るアクセサリーなんか、馬鹿みたいに目で追ってしまう。彼女の華奢な手首に巻かれた細いブレスレットが目に入るたび、「これ、ズイブン細っこいなァ」なんて口実をつけて、その手首に触れたかった。

可愛すぎる!
俺じゃない男に恋してる女の子が、可愛すぎる!

つい頭を抱えたくなったものの、ナイフとフォークを空中に漂わせていたことを思い出して、どうにか端っこからトーストに切れ目を入れてゆく。

「思ったんだけどさァ」
「はい」
「オープンサンドって、サンド名乗る資格無いと思わねえ?」
「…たしかに」
「これはトーストだと、俺は思うんだけどさァ…」
「トースト…ですね…」

なまえは手元のパンに視線を落とした。その俯いた表情を見て、アスキンはハッとして声を上げた。

「あ、待って、ゴメン。今の無し」
「え?なんでですか?」
「今の俺さァ」
「はい」
「細かすぎてイヤな男だったよね…?」

アスキンは、緊張に語尾が震えてしまった。

やっちまった!
よくバンビちゃん達に「ナックルヴァール、細かすぎ」とか「小姑?」とか「ママ気取りですか?(笑)」と言われていたのを思い出して、サッと青褪めた。
女の子って、男のこういうトコロにイラッとするんだよな!?
致命的にやらかした!と冷や汗を垂らすも、なまえは口元を覆って笑っていた。

「えっと…、アスキンさん、けっこうキッチリしてますもんね」
「…書類の端っことかねェ、キッチリ揃えないと、ソワソワしちまうんだよな」
「ああ、分かります」
「小姑みたいって思わねェ?大丈夫?」
「…すこし、だけ…?」

まだクスクス笑うなまえを見て、アスキンは「だよねぇ」と肩を落とした。
ああ、カッコよくエスコートするつもりだったのに。
小姑っぷりを発揮してどうするのさ、俺ってば。んもう!

「今日から小姑って呼んじゃおう、アスキンさんのこと」
「いやん…」

悪戯な瞳のなまえは「小姑さんは、生ハム好き?」と、フォークを差し出した。

「大好きだぜ、生ハム」
「なら、良かったです」

アスキンは間接キスじゃん!と今すぐにでもスキップしたい気持ちを抑えて、ぱく、とそれを食べた。
味がしない。
全ッ然、味なんてしない。
間接キスしちゃった!という淡い気持ちで、心がいっぱい。
味覚なんて、どこかに消えちゃった。強いて言えば、鼻の奥にレモンみたいに爽やかな香りが漂っているくらいだ。
初間接キスはレモンの味ってな。やかましいわ!

お裾分けをゴクンと飲み込んで、少しだけ冷静に戻ったアスキン。お返しは必要よね、と、興奮の手汗で滑るナイフとフォークを握り締めて、エビの乗っている部分を切り分けた。
なまえにあーんするよう、フォークを差し出した。

「良いんですか?そっちも気になってたんですよ」
「あ、そォ。なら良かったぜ」
「いただきまーすっ」

間接キス、2回目。
彼女は「おいしいです!」と瞳をキラキラさせているではないか。良かったね。
俺も嬉しいよ。もう、脳みそ沸騰しそうだけど。
ドキドキ高鳴る胸を落ち着けるよう、アスキンはコーヒーを飲んだ。

この調子で、この子と一緒に夜まで過ごすのか。
心臓は持つのだろうか。血圧は平常値を保てるのか。呼吸は乱れないだろうか。
ああ、それでも椅子から転げ落ちそうに、目眩がする。

興奮って、オトコの体には毒だ。

お次は駅ビルでお買い物である。
大丈夫。冷静に、余裕のあるオトコを演じれば良いんだ。
あまり深入りしないよう、少しだけ心を置き去りにしようとアスキンは企んだ。そうすれば、自然と冷静になれる。余裕だって生まれる。
そのくらい、朝飯前だねと高を括ったアスキン。それが計算違いだと気付くまで、あと数時間である。



ピンクゴールドの、毛足が長いファーの丸いラグの上になまえは立っている。
アスキンは座っていた、ちんまりとしたソファから、ガバッと立って思わず声を上げた。

「カワイイ!すっげえカワイイよォ〜〜〜ッ!」
「ほんとですか?さっきのスカートと、どっちが良いですか?」
「…もっかい、さっきの履いてみてくんねェかな」
「もう、それ3回目ですよ!」
「ウソウソ、ゴメンね。今のやつが1番良いと思うぜ」

素敵なお洋服をお着替えして何回目だろうか。まるでリカちゃん人形みたいにキュートななまえは、何を着たって可愛いから、困っちゃうんだな。
アスキンの言葉を聞いたなまえは、照れたように笑って、後ろ手にカーテンの端を持った。

「……じゃあ、コレにしますね」

店員さんは「ありがとうございます!」と可愛らしい声で言った。

試着室ひとつとっても、夢みたいに可愛いショップに辿り着いたアスキンとなまえ。
最初こそ、冷静にと自分に言い聞かせていたアスキンだったのだけれど…。

なまえが可愛いお洋服を纏うたび、冷静さは欠けてゆき、いつしか「カワイイ!カワイイよぉ〜〜」としか言えなくなっていた。
本音がダムの放流の如く、溢れ出てしまう。本音放流警報でも、発令すりゃ良かった。

店員さんは、なまえが着替えている間に「素敵な彼女さんですね」とアスキンに微笑んだ。「そりゃあどうも」と答えたものの、ふっと寂しくなった。

あの子、俺じゃない男の子に夢中なのよね。

まるで、胸に虚の孔でも穿たれたような気分だった。何を浮かれているんだと、自分の頬を打ちたくなった。
カーテンの向こうでゴソゴソやっているあの子が、俺の彼女だったら良いのになと、涙が出そうになる。

嬉しそうに頬を赤らめて会計をするなまえの横顔が、月よりも遠くにあるように思えた。






「かわいかったなあ…」

1人、帰り道。
アスキンは長い腕をブラブラさせていた。ビルのてっぺんで赤く点滅する灯りを見て、ふうと溜息を吐く。
晩御飯まで一緒に食べちゃった。嬉しい。まだ彼女と遊んだ余韻に浸って、湯上りのようにホカホカする心が揺れている。

お買い物も終えて、「じゃあ帰るゥ?」と言いかけたものの。なまえに、「わたし、お腹すいちゃいました」なんて恥ずかしそうに囁かれてしまって、テンションは大気圏を突破。
ウッカリお寿司を奢ってあげちゃった。
美味しそうと呟いて、潤んだ瞳が愛おしかった。柔らかそうな唇がふにゃ、と笑うのなんて、目の毒も良いところだ。

畜生!やっぱり最高に可愛い!
こんな子に好かれているハッシュヴァルトが、羨ましい!

アスキンは何度も何度もそう言いかけては、シャリと一緒に飲み込んで、誤魔化すように「次何にしよっか。季節のオススメとか気になるよなァ」と彼女を惑わせたのだ。
その度にあの子は「どうしよう、アスキンさんは?何にします?」と眉尻を下げながら微笑むので、またハッシュヴァルトが羨ましいぜ!と、口から溢れそうになる。
本音を無理矢理お茶で流し込み、「どうしよっかな」と嘯いた。
途中から、お寿司の味なんてしなかった。理性と自我を保つので精一杯。

やっぱり、彼女は素敵な子だった。
今日なんて、うっかり惚れ直してしまったじゃあないか!

だからこそ、あの子がハッシュヴァルトとうまくいっても、素直に喜べるかもしれないと思った。
しばらく涙は流すだろうけど。

アスキンが見上げた先には、チカチカ瞬いて飛んでゆく飛行機があった。
夜空を飾るような、果敢ない光がビルの向こうに消えては、また別な光が遠い空を横切ってゆく。
すれ違い続けるそれは、何かに良く似ていた。





あの子とハッシュヴァルトのデートを翌日に控えた、木曜日。
終業後、社内ロビーにて。

アスキンはキリキリする胃に耐え切れず、胃薬をラムネ菓子みたいにポカポカ口に入れては、自販機で買ったお水でそれを流し込んでいた。
歯を食いしばり、時計を睨み、24時間後に訪れるであろう悲劇を想った。

まずい!あの子、カワイイから、明日にはハッシュヴァルトとくっついちまう…!

あの朴念仁みたいなハッシュヴァルトだって、可愛いなまえに微笑まれたら、即、「結婚を前提に付き合ってくれ」って切り出すだろ!
俺がハッシュヴァルトのポジションなら、そう言うね!絶対!
しかもなまえちゃんなんか、感激しちゃって、涙目になりながら「嬉しい…」って奴の大海原みたいに広い胸板に飛び付くんだ!畜生!

そして、俺はそれを木陰からハンカチを噛み締めながら、見守るのだろう…。
キイィ!何よ、ちょっとなまえに好かれてるからって!
俺のが先に、好きだったのに!

きっと半年後には社内報でハッシュヴァルトとなまえの結婚を知るのだろう、俺は。
仲人役を務めるであろうユーハバッハと一緒の円卓に座って(接待みたいに居心地が悪いんだろうな)、2人の馴れ初めから始まる、新郎新婦お披露目ムービーを見せられるんだ!
帰りには引き出物を貰って、1人ヒッソリ泣くハメになるんだ!

センチメンタルな男の妄想は、地平線まで届きそうなくらい、どこまでも悲観的に続いた。

こんな風にゲッソリして項垂れるアスキンを見ていた、広報デザイン部のエス・ノト。
流石に心配になって、チョンチョンと肩を突いた。
燃え尽きて灰みたいになってる偉い人を見捨てられるほど、エス・ノトは冷たくなかったのだ。ホントは早く帰りたかったけど、流石に放って置けない。
聞こえないはずのSOSが、うるさい程に鳴り響いている。

「…生キ、テる?」
「…死にました……」

普段よりも、20%くらいゲッソリと痩けた頬が痛々しいアスキン・ナックルヴァール。まるで幽鬼のような表情である。
エス・ノトは笑いもせず「其レハ残念」とアスキンの隣に腰掛けた。
まるで野良猫の優しさと一緒。
黙って寄り添うだけの心地よさって、弱った心に効くんだな。少し持ち直したアスキンは、ソワソワする心に耐え切れず、隣のエス・ノトをチラリと盗み見た。

「…あのさァ」
「何?」
「エス・ノトくん、今日、暇?」
「…」
「何か奢ってあげるからさ、俺の話…聞いてくんない?」

縋るように向けられた瞳は、あまりに痛々しくて見ていられない程であった。やっぱり放っておかなくて良かった。
エス・ノトは仕方あるまいと頷いて、フラフラ歩き出すアスキンの後を追っかけた。

ひょろひょろと細長い男2人組は、くぐるようにしてお店の入り口を抜け、静かなカフェのソファ席に落ち着いた。
バナナショコラケーキと、自家製クラフトコーラをチョイスしたエス・ノト。向かい側のアスキンはカフェオレをちびりちびりと啜っている。
アスキンには覇気が無かった。あのエス・ノトよりも元気が無いように見える。
珍しいこともあるものだ。
エス・ノトがどうしたのと問いかける前に、アスキンは「これは、友達の話なんだけどね?」と、切り出した。
アスキンは事のあらましを、まるで消えかけの灯火のように、途切れ途切れに語った。

「…片想ヰシテル相手ノ、恋ヲ応援シテルンだ…」
「…俺じゃなくてね。友達の話ね」
「大変ソう」
「そォなんだよ!…って、友達もボヤいてたな」
「へぇ」

エス・ノトはモグモグとケーキを食べて、ぼんやりと天井を見上げた。アスキンも釣られて同じように天井を見上げる。

「難儀、ダね」
「難儀なのよ」

会話は途切れて、沈黙が続いた。
アスキンは細かく揺れてしまう自分の膝を見ながら「俺も見てらんなくて」と、付け加えるように呟いた。

「其ノ女ノ子ハ…好キナ人ト、付キ合エソウナの?」
「分かんねえな。でも、スッゲェ可愛いからなァ…」
「可愛ヰンだ」
「スッゲェ可愛いぜ。しっかも、性格だって可愛いンだから手に負えねえワケさ」

アスキンは、自然となまえの顔を思い浮かべて頬を緩めた。
エス・ノトも同じように、社内で可愛いで有名で、アスキンの身近にいるなまえの顔を思い浮かべた。
多分、というか確実に。さっき聞かされたのは、あの子と、目の前に座っている男の身の上話だろう。

「素敵ナ子、ナンダね」
「そりゃあ、もう」

すっかり自分の話のように、ウンウン頷くアスキン。面白すぎる。何が”友達の話”だ。
これは、揶揄いたい。
エス・ノトはまるで某ランプの魔人みたいに、質問を重ねてゆく。

「年下?」
「まァ」
「綺麗系ナの?」
「いんや、どっちかつうと…カワイイ系かな」
「へぇ。其ノ子、モテソウダね」
「そォなんだよ!ファンが多くてさ、ヒヤヒヤするぜ」

すっかりなまえを思い浮かべて、デレデレするアスキン。
エス・ノトは笑いを堪えながら、そろそろ核心に触れようと駒を進めた。

「其ノ人ハ、営業?トカ、ヤッテルノカな」
「いんや、総務」
「総務…ヤッパリなまえチャンダね」
「そ!ビンゴ。大当たり!」

アスキンが、膝を打って、ウインクをしながらエス・ノトを指差す。
ニューッと瞳を細めて笑ったエス・ノトの表情を見て、アスキンはハッとしたように視線を外した。
向けられた指先はのろのろと降ろされ、地を指し、「…これ、友達のハナシよ?」と、苦しい言い逃れを続けた。
そんな訳、無いだろう。
エス・ノトは沈黙を守ったまま、ケーキを頬張った。

「……俺のハナシ、じゃ、ない…よ?」

エス・ノトはそれを無視して、クラフトコーラを飲む。スパイスが喉の奥でビリビリと粘膜を灼く。

しばしの沈黙の後、薄氷を割るよう、エス・ノトの薄い唇はゆっくりと開かれた。

「此レハキット、君ガ遥カ昔ニ失クシテ死マッタ物だ」
「…えっ、と?」
「記憶ヲ辿ッテゴ覧」
「…はァ……」

まるで胡散臭い宗教の勧誘でも始まったような雰囲気である。エス・ノトの目の前に大きい水晶か、怪しげな壺が置いてあれば完璧であっただろう。

「大人ニナッテ、駆ケ引キヲ覚エテ、相手ニ本心ヲ悟ラレヌヨウ、君ガ必死ニナッテ、回避シテキタ行為だ」
「あのう、」
「長ク忘レテヰタ感情ダロう?」
「!」

それの心当たりに、アスキンは居心地の悪さを感じた。

「嫌ワレタクナイ、デモ、近クニ居タい」
「…」
「保険ヲカケテ、安全地帯カラ、自分ガ傷付カナヰヨウ、アノ子ニ近付ヰタね?」
「…おっしゃる通りです……」
「デ、なまえハ、ハッシュヴァルトニ、好意ヲ持ッテヰる」
「あれ?なんでそこまで分かるの?」
「君ハ、負ケ戦ニ挑マナヰダロう?」
「はい…」

まるで丸めたティッシュみたいに顔をクシャクシャにしたアスキンは、エス・ノトの千里眼の前で項垂れた。
為す術もない。

「エス・ノトくん…」
「何」
「俺、どうしたら良いと思う?」
「玉砕」
「じゃなくて!」
「切腹」
「ヤだよ!」
「指詰め」
「なんでだよ!」

良い加減にしてくれ!とアスキンは天を仰いだ。

「ジャア、告白スレば。切腹ニ比ベタラ、痛クモ痒クモナヰダロう」
「…でもさァ、」

猫みたいに涼しい顔をするエス・ノト。
相対して、まだウジウジするアスキン。
それを制するよう、エス・ノトは持っていたフォークをビッと向けた。尖った先端は、アスキンの目玉の直前でピタリと静止している。

「ウワァ!」
「腹デモ括ッタら?」
「…怖いンだけど…」
「何が?」
「全部…。お前も…その、今後のことも…」

向けられていたフォークはゆるゆると下げられ、残り少ないケーキに突き立てられた。

「不安ガ尽キナヰダロう」
「まあ、そうね」
「臓腑ガ捩レソウニ、苦しヰヨね?」
「認めたくはねェけどな」

花が綻ぶよう、ふっと微笑んで、エス・ノトは鏡面のように滑らかな瞳をアスキンに向けた。

「恋トハ、然ウヰウモノダよ」

これを聞いたアスキンは、どんな顔をしていたのだろうか。
これは、言うまでもないだろう。
皆さんのご想像の通りであったそうな。





決戦の時が来た。
即ち、金曜日。終業後である。

アスキンは女子トイレの近くで、終業後にメイク直しをしているなまえを待っていた。
ハッシュヴァルトとの待ち合わせ前、あまりに緊張するので、側にいて欲しいとかナントカ。なんてカワイイお願いなんだろう。ウッカリまたお兄さんヅラをして「仕方ないねェ」なんて快諾してしまった。
幹部役員、暇じゃないンだけどさ。
それでも、なまえに付き添ってあげちゃうもんね。

アスキンは昨日のエス・ノトとのやり取りを思い出して、ピカピカ光る革靴の爪先を見詰めた。

恋、か。
そうだよ。してるよ、恋!
年下の可愛い女の子に参ってんだよ。しかも、俺じゃない男に恋してる、一頭可愛いあの子に目が眩んでんだよ、馬鹿野郎!
ちょっぴりヤケクソなアスキンだけれど、腹は括れているつもりだった。
心の片隅で、悲しさは沈黙を守っている。

「ごめんなさい!お待たせしました」
「いいえ。今日もまた一段と可愛いじゃねェかよ」

声のした方を見遣ると、アラッと声を上げそうに成る程、素敵な女の子が立っていた。
彼女は、はにかんで首を傾げた。

「アスキンさんは、優しいですね。いつも褒めてくれるもん」
「そォか?俺、嘘付けないオトコなんだよな」
「…またなんか言ってる」

でも、ありがとうございますと、瞳を潤めたなまえは、とびきり可愛かった。
我慢なんて、できるもんか。
なまえの細い背中をアスキンの大きな掌が、優しく叩いた。

「マジで言ってるっての。ったく、ハッシュヴァルトが羨ましいぜ」

やっと捻り出した本音は、なまえの「そうですか?…はあ、緊張します」という吐息に流されてしまった。アスキンは肝心な時、いつもこんな感じだった。いざ!という時にバシッと決まらない。なんてこった。
ロビーを抜ければ、浮かれて騒めく喧騒は、もう目の前。

愈々、決戦前である。
なまえは少しキリッとした顔で、アスキンのお高いスーツの端をキュッと握って「行ってきます」と言った。
行かないでくれ。
そう言えない唇は、静かに弧を描き、結ばれたままであった。





「…終わった」

あれから。
失意の中、家に直行したアスキン。
家に帰るなり、「はァ〜ッ」と、デッカい溜息を吐きながら、早速スウェットに着替えた。
こんな夜は、酒でも飲まなきゃやってられんのだ!
オシャレな観葉植物や、この間買ったばかりの一点モノのラグが敷いてあるキレイな自宅だったけれど、空気だけは殺伐としている。やけに白々しく光る蛍光灯が、目に痛かった。

グラスに乱暴に注がれたウイスキーは、アスキンの喉を灼いた。
焦げ付いたような心の内と同じよう、喉はジリジリと痛み、赤く爛れてゆく。
毒みたいにアルコールは回り、焦燥感に急き立てられるよう、脈が次第に早まってゆく。

出来るだけ、期待はしないのが大人の掟だと、アスキンは思っている。
万に一の可能性とは分かっていても、どうしても願わずにはいられなかった。

ああ、神様!どうかあの子が、こっぴどく振られますように!

お願いします。神様、仏様。ご先祖様。あの夜空を横切る流星にだって、お願いしたいくらい。
それこそ、今からでも間に合うのなら。どこかの神社に駆け込み、御百度参りをしたら、この願いが叶うのなら、やる。絶対に、やる。
そう意気込んで、アスキンはまたウイスキーを流し込んだ。

恋した男の思考回路って、何故かこんな風に大回りをしちゃうらしい。
もっと近道があるのに、全然気付いちゃあいない。
ああ、アスキン・ナックルヴァールよ。
なんて致命的なんだ!

世の中には急がば回れ、なんて言葉もあるらしく。
親戚のお兄さんヅラをしてきたアスキンのスマホは、1つの通知を受け取った。
まるで暗い夜空を照らす、一条の月明かりのように、四角くて小さなディスプレイは光った。
何の考えもなしに、通知欄を見たアスキンは、やや充血した目を大きく開いた。




部屋着のまま、適当に突っ掛けたサンダルで、色男は人混みを駆け抜けてゆく。
アスキンの長い脚は、サラブレッドのように地面を蹴った。前のめりに風を切る横顔なんて、獅子の如く精悍である。ペッタンペッタン鳴るサンダルだけは、ご愛嬌。
さあアスキン・ナックルヴァール、走れ走れ!カワイイあの子の大ピンチ!

さっきディスプレイに写ったのは、これから会えますかと、絵文字もスタンプもなく送られてきたなまえからのメッセージ。それって、まさかとアスキンは大急ぎで家を飛び出した。
待ち合わせは、アスキンの自宅の最寄りの地下鉄駅。
息を切らして辿り着いた改札前には、さっきまでキラキラ輝いていた女の子が、しょぼくれて立っていた。

「…さっきぶりだな」
「さっきぶり、ですね」

その人の瞳は涙に飾られて、チラチラ光った。
ペタペタ鳴るサンダルに、カッコつかねえやと思いながら、アスキンは彼女の小さな頭を撫でた。

「…どしたの?」
「あの…なんか、予定流れちゃって」
「マジ?」

俺ならそんなこと、しないのに!
未曾有の大災害があったとしても、俺なら待ち合わせ場所に駆けつけるけどな!と、言いたいのをグッと堪えた。
アスキンの声色に滲む憤りを感じたなまえは、慌てて首を横に振った。

「でも、なんていうか、違うんです」
「そォなのか?」

溢れた涙もそのままに、なまえは俯いた。

「あの人に会えなくて、残念…っていうよりも、安心しちゃって」
「…どゆこと?」

俄に、アスキンの胸は高鳴った。
まさか。まさか!

「待ち合わせのお店に行くまで、ずっとアスキンさん優しいなって、素敵だなって、思ってて…」
「…アラ、嬉しい」
「だから、予定キャンセルになった時、じゃあ、これを口実に…アスキンさんに会えるなって、」

なまえはゆっくりと顔を上げ、動揺と期待に表情を歪めるアスキンを見詰めた。

「ちょっとラッキーって…思って。あんなに協力して、くれたのに…ごめんなさい…」

この先の言葉は要らなかった。
自信なさげに、お祈りでもするように組まれていたなまえの手を取る。アスキンは、溶け落ちそうに熱く火照った指先を彼女の細い指の隙間に絡ませてゆく。

「じゃあ、親睦会?ってコトでさ、俺の家上がってく?」

涙目の女の子を連れてどこかのお店に入れる程、アスキンは野暮ではなかった。それに、アスキン自身も部屋着にサンダルだったし。
いきなり部屋に誘うなんてとは思いつつ、他にいい案も浮かばなかった。
なまえは、ぽっと頬を赤らめた。

「良いんですか?」
「どーぞ、お嬢様。俺さァ、一人暮らしじゃねェから安心してよ」
「あれ?そうでしたっけ」
「ウン。観葉植物とルームシェアしてンのよ」
「それ、1人暮らしの典型じゃないですか!」

なまえの涙は、次第に熱を帯びてゆく頬の上で、跡形もなく消えた。
すっかり余裕を取り戻したアスキンがお兄さんの仮面を外すまで、あと1分も掛からないだろう。

街の浮かれた喧騒だって、今だけは喝采にも聞こえてくる。
夜風に当たり、冷えた皮膚の下で、ジワジワ熱を帯びてゆく血肉は、アスキンの心中を雄弁に物語っていた。
高くかかる夜空に、小さな流れ星が横切ったのをアスキンは気付きもしなかった。





夏の夜空は、日も暮れてから暫く経つというのに、まだ薄明るかった。遠くの空は夜から抗うよう、水色に光ったままだった。
薄明るい空の下、漸く仕事を終えたハッシュヴァルトは小走りにカフェの扉を潜るようにして入った。
中の小さな個室で、約束していたなまえと落ち合う。
アイスコーヒーを一つ頼んで、向かい側に座るなまえを見遣った。

「作戦は、成功したようだな」
「うん。名前借りちゃってごめんね。しかも、話の流れでさ、デートの約束をドタキャンする男にさせちゃったよ」
「構わない。どうせその話、ナックルヴァールにしか伝えていないのだろう?」
「そりゃあね」

おやっ。
この2人、何か秘密がありそうだ。
どうやら、アスキンがウジウジしている裏側で、何かが計画的に行われたのではあるまいか。
主犯はどうやら、なまえらしい。

「しかし、ナックルヴァールは既にお前に惚れていたように思うが…」

訝しげに眉根を寄せたハッシュヴァルトを見て、なまえは声を上げて笑った。

「何、その顔!んもう、分かってないなあ。ホント、朴念仁」
「分かりたくもない」
「だってさ。このくらいしないと、アスキンさんってさ、付き合ってすぐ離れていくタイプだよ」
「…そうなのか?」
「そうに決まってるよ」

なまえは細いストローでオレンジティーを飲み、随分遠回りしたっけなとハッシュヴァルトの瞳を見つめた。

多分、アスキンとなまえはほぼ同時期に互いに惚れ抜いていた筈だった。なまえはそう確信している。
あの多忙な幹部役員がやたら総務に顔を見せるようになったのも、きっとそういう理由。やけに食堂で隣になったのも、アスキンの企み。
でもこの人、こうしてちょっかいかけるだけで、何もしてこないじゃない。
なまえはもどかしかった。それと同時に、アスキンの心に張られた警戒線を見つけた。
決して本音は語りたがらず、飄々として人の好意も悪意さえも受け流している。この人、懐に誰も入れないつもりなんだなとなまえは悟った。

そうなれば、こちらにも手札が一枚だけあった。大学の同級生、ハッシュヴァルトの存在だ。同じ講義を受けていて、仲良くなった秀才。まさか転職先のお偉い人になっていたとは。
アスキンの懐に入る為、ハッシュヴァルトに恋をしていますと嘘をついたのだ。神様だって、仏様だって見逃してくれる可愛らしい嘘は、毒よりも覿面に効いた。
アスキンの嫉妬心は煽れるし、秘密を介する事で、より仲良くなれる。更に失恋したと嘯けば、あとは簡単な話だろう。
なまえは野生のチーターよりも、ハイエナよりも、百獣の王ライオンよりも慎重に、執念深く瞳を光らせていた。
虎視眈々と狙った獲物は、すっかりなまえの虜らしい。

ハッシュヴァルトは、遠い目をしたなまえに「これは浮気にならないのか」と聞いた。

「ならないよ。わたし、アスキンさん以外は男って認めてないから」
「そうか」
「あ、そうだ!名前借りたお礼にさ、ケーキ奢ってあげるよ。何が良い?」

なまえはメニュー表を差し出して、「オススメはショコラバナナケーキだよ。タルトみたいになってるの」と言った。
少し考えて、ハッシュヴァルトは「それにする」と言った。

「おっけえ。あ、持ち帰りのが良い?」
「そうしてくれ。2つ欲しい」
「…まさか、彼女にお土産?」
「そんなところだ」

ハッシュヴァルトは、ルームシェア相手のバズビーの顔を思い浮かべている。よく互いの家を行き来しているうちに、一緒に住んだ方が早くね?と話がまとまったのだ。それはつい先月のことで、誰にも知らせていないナイショの話だった。
なまえは「朴念仁のくせに、意外」と言いながらも嬉しそうに笑っている。

カフェを出たなまえは、1人で夜道を歩いていた。共に居たハッシュヴァルトはあと5分くらいしたら出てくるようにお願いしていた。
だってここは会社近くのカフェだもの、誰かに見つかって、変な噂が立ったらお互いに困るのだ。
なまえは、まだ残業している恋人にメッセージを送った。『もう終わった?』と送ると、クマちゃんが燃え尽きているスタンプが送られてきた。
まだ時間がかかるのねと思ったけれど、ディスプレイは切り替わり、彼からの着信を告げている。

「もしもし?」

愛しい恋人は、色っぽい声を涸らして『パソコン壊れたァ』と涙混じりに嘆いている。あーあ、ホント可愛いひと。
なまえは小悪魔。「じゃあ、帰っちゃえ」と、イイオトコを唆した。

合流まで、あと少し。
見上げた先のビルの一室から、明かりが消えた。
なまえはこの間、大好きな彼に買って貰ったネックレスの位置を直して、到着を待った。
大手町の夜は、夏らしい湿っぽい風が吹き抜けている。


(おわり)

オマケ(現パロ詳細設定)


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