3.今宵の月のように


「お前、コレ何?ケツバットな」
「…あの、申し訳ありません!」
「いや、俺が謝らせてるみてェだろ。顔上げろ。ケツ出せ」
「………はい…」
「冗談に決まってンだろ」
「あいたあ!」

大株主、ノイトラ・ジルガ。でっかいビルに本社を構える、この会社の代表取締役でもある。
今日も今日とて、テスラと少しだけ似ている営業マンに絡んでいる。ついでにお尻まで蹴り上げちゃった。
そう、裏紙に回せる書類をシュレッダーにかけようとした罪は重いのだ。

最近、買収した会社にマメに顔を出しては経営状況の確認をしているノイトラ。経理のスゴい女史だとか、営業の鬼のオジサン達、なんか偉い幹部たちと一緒に、小難しい書類と睨めっこ。
それに飽きると、フロアに飛び出しては新入社員をイビッたり、営業マンのケツを文字通り蹴り上げている。(女子社員にはお菓子をばら撒いているという噂も…。)

「テメェ営業だろうが。謝るばっかじゃなくて、なんか面白え事言ってみろ」
「あえ、…あ、あっ、あっ、」
「お前、リアクション芸向いてんじゃね?」

こうしてパワハラをかましていると、経理の女史に呼び出しを食らってしまった。新入社員の肩を叩いて「じゃな」とだけ言って会議室へと戻ってゆく。
残された社員さんは、お尻を摩って呆然と立ち尽くした。
パワハラ、ダメ、絶対!

女史から手渡された資料を見て、ノイトラはウーンと眉間に皺を寄せ、薄い瞼を閉じた。パチ、と瞳を開けてまた資料を見て、ウムと頷いた。
会社の粗方の事が分かってきたので、ノイトラは退社。重役はいくら席を外しても怒られないらしい。
夕暮れのオフィス街の雑踏は、未だに慣れない。スーツばかりの人だかりって、なんかイヤ。
早く家に帰って、なまえの可愛いツラでも拝まねえとやってらんねえと、ノイトラは足を早める。

ノイトラ・ジルガ、最近、なんと真面目に社会人をやっていた!

昔は名ばかり役員として、酒を引っ掛けた頭で適当に会社に顔を出していただけなのに。今や、午前中には会社にやってきて、難しい資料をパラパラ捲っては「あ?」と書面にガンを飛ばすのがルーティーン。
お昼で帰ることもあれば、夕方まで居る日もある。たまに、夜遅くまで残っている。

ノイトラは本気だった!
マトモな社会人になろうと必死であった!
そう、彼女からかけられた「もしかして、実家が太いだけの、酒飲みニート?」という嫌疑を晴らす為だ。

いやいや、なまえちゃんが本気でそう思っている訳ではない。
ただ、なまえが「会いたいな」と言えばノイトラはすぐに会いに来る。それが朝でも夜中でも応じてくれる。嬉しいけど、おやっと思う。
なまえが「まだ帰りたくないな」と甘えれば、いつまでも居ろよ。会社なんてサボっちまえと悪魔の如く囁くのだ。
こうして暇そうなわりに、お金はジャブジャブ使ってくれるし。
当然、不安にもなる。

なまえはノイトラの素性というか、今の収入源については粗方理解していた。しかし、あまりにも自分の生活とかけ離れているものだから、たまに疑ってしまうのだ。
本当は、脛齧りのニートではあるまいかと。

だから、日曜日に2人でテレビを見ている時にチクリと刺したのだ。

「そういえばさ、会社の役員?やってるんだよね?」
「あー、籍だけな」
「え、もったいない。スーツ着てるの見たい」
「俺ァな、スーツ嫌いなンだよ。残念だったなァ」

ノイトラはスウェットにTシャツで人がダメになるクッションに、だらりと凭れかかっている。ヘラヘラ笑ってはテーブルに置かれていたレモン味のチューハイを流し込む。
その姿は、ヒモともクズとも呼べそうなものだった。
それだって当然カッコいいけれど、なまえは少しだけ物足りなかった。だから、ちょっとだけあの人の名前をお借りしたのだ。

「…私、シャウロンさんのスーツ姿、たまにキュンとするよ」

ノイトラはムッとしてなまえを抱き寄せて膝に乗せた。向かい合うと、ノイトラの長い髪がなまえの頬にかかりそうになる。
不機嫌そうにつんと尖った唇は、少し躊躇ってから開かれた。
ノイトラの赤らんだ頬は、酒のせいか。それとも。

「…何だよ。浮気か、浮気ィ」
「そ。浮気」
「マジかよ。じゃ俺、シャウロンの職場に放火すっからな」
「どうぞどうぞ」
「いや止めろよ」

なまえの浮気。嘘と分かっていても、胸のあたりがモヤモヤした。そんなの絶対嫌だ。なまえの隣に自分以外の男が立っているのを想像するだけでイラッとした。
そう、ノイトラはやきもち焼き。
ホントは他の男の名前を聞くだけで、耳を塞ぎたくなっていた。プライドが高いので、そんな事おくびにも出さないけれど。

「女子って、なんで男のスーツ好きなんだよ」
「えー、しらない」
「とぼけンな」
「じゃあ、ノイトラがスーツを着こなしたら教えてあげるよ」
「…あっそォ。そしたらお前アレだ、秘書みてえなスーツ着ろよ。等価交換だ」
「えー…どうせそれでお尻触るんでしょ」
「当たり前だろ。ケツってなァ、触る為に付いてるンだろうが」
「そんなことないよ」
「あ?そうに決まってるだろうが」
 
ノイトラの大きな手が、なまえのお尻を掴んで、わっしわっしと揉みしだいた。
たまんねー、と掠れた声が漏れる。
少しずつ熱を帯びてゆくそれを太腿に感じながら、なまえはノイトラの首に腕を回した。

「ねえ、ヤダよ。スーツ似合わないひと」
「るせェ」
「だって、ノイトラがシンプルに実家の太い、酒飲みのひとって言われても信じちゃうもん」
「俺、違えからな。ちゃんとした収入源あっから。ゼッテェ分からせてやるから、覚えとけよ」
「…わかった。覚えとくね」
「あとな、ンな男に言い寄られたらシカトしろ、シカト」
「………シカト、ね」

なまえは笑いを堪えるよう唇を噛んで、ふいっとノイトラから顔を逸らした。そしてお尻に回された手をぺちぺち叩いて振り解き、膝の上から退けようとする。

「ァア゛!?それ俺じゃねえっつってんだろ!シカトやめろ!」
「…………」
「こっち向け!」
「…………」
「あ、笑ってんじゃねえよ!」
「………んふ、…あはは、必死な顔、かわいー」

へにゃ、と笑うなまえの顔を見て、ノイトラはつい言葉を失ってしまった。大好きな彼女に言われる「可愛い」って、嫌じゃない。
むしろ、ちょっと嬉しい。
昔なら、女から可愛いなんて言われた途端に席を外したノイトラなのに。

「あ、ねえアイス食べて良い?」

なまえは小さい手をぱち、と合わせてノイトラに聞いた。
こんな可愛い仕草を見たら、さっきまでの焼きもちだって空気が抜けたように潰れてしまった。
なまえにとって都合の良い男に成り下がっていることに、ノイトラは気付いていない。

「良いぜ。お前の好きなやつ買っといた」
「やった!」
「そォだ、ウイスキーかけてやろうか」
「良いの?でもちょっとで良いよ」
「ダメだ。意識失うまでかけ続けてやる」
「こわっ」

お高いバニラアイスに、ちびりとウイスキーを垂らす。なまえはまずノイトラに一口、あーん。もっと寄越せと言いそうな顔をしているので、二口目をあーん。なまえはその顔を見ながら、やっと一口目のアイスを頬張る。

「おいしっ」
「うめぇ」

西陽が傾き、影が街を覆った。
2人はベランダからそれを見下ろして、今度は熱いコーヒーを飲む。
秋が始まるような、冷たい風が吹き抜けてゆく。





ビルの隙間から吹く風が、ノイトラのコートを翻した。まるで死神のような黒づくめのノイトラは、突風に一度足を止めるも、少し白い顔を歪めてまた石畳をのしのし歩いてゆく。
ノイトラが取引先のお偉いさん見送られ、会社に戻る途中の事であった。

オフィス街を歩いている間、ノイトラは無意識にお仕事のことを考えていた。
あの書類とこの書類をアレして、あっちもこっちも数字をアレして、それから取引先のアレやコレやをアレして、アレの申請を承認してアレに繋げて………。
代表取締役って、実はすンげえ忙しいのだ。真面目にお仕事やるって、大変。

ポケットの内側でスマホが鳴る。ディスプレイには、世界一可愛い大好きな彼女の名前が。
ノイトラはビルとビルの隙間に入り、いそいそと電話を取った。嬉しさを隠すよう、咳払いまでして、低い声で電話を取った。

「どした」
『急にごめんね。ワイヤレスのイヤホン、そっちに忘れちゃったみたいで。お家入ってもいい?』

やった!
ノイトラは全てをかなぐり捨てて、今すぐ家に走りたくなった。しかし、責任感の3文字がそれを押し留めた。

「あー、良いけど…」
『なあに?浮気相手でも連れ込んでる?』
「ああ、そんなとこだな」
『さいてーだ、さいてー』

なまえは笑いながら言葉を返した。
ノイトラも釣られて笑ってしまう。

「俺、ちっとやる事あってよォ。俺が帰るまで家で待ってろよ。その間、浮気相手と喧嘩しても良いぜ」
『そしたら浮気相手と一緒に、ノイトラの悪口大会開いちゃうもんね』
「おお、そうしろ」

電話を切り、黒いディスプレイに映る自分の顔が、思ったよりも緩んでいた。
この顔で会社戻ったらヤベェな。そう思って、ノイトラは頭の中でマ●シマム・ザ・ホルモンの音楽をかけ、眉間にギュッと皺を寄せ、早足で会社に戻った。
全部、確実に、30分以内で終わらせる!
決意はコンクリートの如く、カチコチに固まった。





「悪い…クソ待たせた…」
「おかえりなさい。忙しかったんだね」

ノイトラは、黒にも見える濃紺のネクタイを緩めた。決意とは裏腹に、会社に戻るとアレはどうした、コッチはどうしたと気になる事が膨らんでゆく。
ふと気付いた頃には1時間くらい経っていて、ノイトラは「ァア゛!?」とデカい声を出して席を立ったのだ。
そのまま書類をガサっと仕舞って、ダッシュで帰宅したのが、さっき。

「疲れたァ…」
「仕事を頑張ってる男のひとは、かっこいいね」

なまえは頬に手を当てて、ノイトラを見詰めている。その瞳には、柔らかい光が宿っている。

「マジ?俺カッケェ?惚れ直したか?」
「うん。もう帰るのが勿体ないくらいカッコいい」
「は?帰ンのォ!?」
「うん。家事溜まってるし。明日もお仕事だし」

よく見たら、なまえは上着まで着ている。帰る準備万端ではないか。ノイトラは、忙しい中待っててくれてありがとうとか、待たせて悪かったと言いたかったのも全て忘れて、ついなまえの細い肩を両手で掴んだ。

「帰るなんて言うんじゃねェよ!泊まってけよコラァ!」
「えっ!」
「化粧道具とか、着替えとか、コッチに少しあるだろ、なァ。家事、今度手伝いに行ってやるし」
「…え?ほんと?」
「……。クソ気合い入れてやる…から……」
「うん、でも……」

でも、と視線を外すなまえ。
その表情には、満更でもないと書いてある。これはイケる。
怒涛のアピールタイム、開始!
ノイトラは猛攻撃を仕掛けた。

「なあ、前から思ってたンだけどよ、もう一緒に住もうぜ」
「……えっと、嫌じゃない…けど、」
「じゃ良いだろ。それになまえとメシ食うの、俺、クソ好きだし」
「…ありがとう。でも、私の家のが職場に近いし…」
「何でだよ!ここ、Wi-Fi繋いであるし、電気水道光熱費使い放題だぜ!?ネ●フリもデッケェテレビで観れるし、部屋、クソ余ってるし!職場以外のアクセスなら最強だぞココ!」
「あの…」
「アレだ、家賃要らねえから。それに、ベッドもクソデカいやつに買い替える。あと、あとなァ、…絶対、なまえの気に入る巣を作っからよォ」

なまえはここまで、モジモジしながら話を聞いていたのに、巣を作ると聞いた瞬間に顔を覆って笑い始めた。

「巣って、なにそれ!」
「愛の巣に決まってんだろうが!最後まで言わせんなよ!」
「……そっ、か…ふふ、巣かあ…」
「そうだよ。来いよ」

いつになく真剣な眼差しは、なまえの心を射止めたようだ。

「まずは、週末だけでいい?」
「毎週金曜の夜、迎えに行くわ」
「…よろしくね。じゃあ、今日は帰るね」
「あっ、ヤベ、帰るな!」

ノイトラの抵抗も虚しく、なまえは「ほんとに家事溜まってるの、ごめんね」と眉尻を下げて帰ろうとする。
ヘトヘトだったはずのノイトラは「せめて送って行かせろ」と車のキーを掴んだ。
交渉成立。良かったね、ノイトラ・ジルガ。
作戦、大成功!




程なくして、半同棲生活が始まった。
本当は週末だけという約束だったのに、策士のノイトラは、まるで餌を与えるように「寿司買いすぎた。食うの手伝え」とか、「高い肉貰った。食おうぜ」と言っては平日でもなまえを呼び出し、家に泊まらせた。それが週に2回もあると、段々訳が分からなくなってくる。
自宅とノイトラの家を短いスパンで行き来しているうちに、なまえは自宅に帰る意味が薄れてきたように思えた。

だから、可愛いなまえが「あのね、もう今のアパート引き払おうかなって」と肩に頭を預けて来た時。
ノイトラの脳内で、大きくファンファーレが鳴り響いた。




ノイトラは毎日が最高だった。朝も晩も、可愛いなまえの姿が家の中をウロチョロ。
彼女の気の抜けた部屋着も見れるし、寝顔も見放題。彼女の留守に、下着の類もマジマジと観察できる。なんなら匂いを嗅いでも怒られない。ムフフ。
あまりノイトラの家に私物を置いていかなったなまえだから、彼女が居なくなった家に1人残されると途轍もなく寂しかったのだ。
だが今は違う。洗面所に行けば化粧品がちょこんと置いてある。クローゼットにはなまえのお洋服。食器も可愛い感じの物がちょこちょこ増えている。ラグだって、白くてふわふわの女の子好みのモノに変えた。
最ッ高じゃねえか!

これ以上ないくらい、ノイトラは浮かれていた。
同棲開始後、1ヶ月目の事だった。

実は、会社の事業も少しずつ手を広げ始めていた。だから物凄く考える事も多かったし、判断力だって試された。
それでも毎日ウキウキで営業マンのお尻を蹴り上げられたのも、全部全部、なまえのお陰であった。(残念だが、月島さんのおかげではなさそうだ…。)


先に眠ってしまったなまえをベッドに残し、ノイトラはベランダから月を見上げて酒を飲んでいた。
まん丸の大きな月だった。
冬の冷たい空気はどこまでも冴え渡っている。ふと息を吐けば、吐息が白く残った。
それは、なまえと付き合ってから辞めていた煙草の煙と少し似ていた。

「……してえ、」

ノイトラはつぶやいた。
封印していた、あの言葉である。薄ぼんやりと思っていた事である。その為にノイトラは彼女があまり好まない煙草だってやめたし、会社にも顔を出し始めていた。嫌いなスーツも何着か買った。朝から飲むお酒もやめた。昔の話を出されても「マジであれは悪い」と言えるようになった。

「けっ………」

いや、しかしここは飲み込んだ。明日が待っている。
彼女に直接ガツンと伝えねばなるまい。
なんならこの決意の証は、随分前に用意したのだ。ダイヤが光るアレを用意している。

月よりも高く鎌首をもたげるかのよう、ノイトラはグッと背筋を伸ばした。
戦闘、開始!






「結婚しようぜ!」
「えっ、早くない?」

次の日の朝、ノイトラはなまえと朝ごはんを食べながら、我慢ならなくなって、こう叫んだ。
付き合ってから約9ヶ月。2人が出会ってから、約1年目の事であった。

シンと静まり返ったダイニングテーブルは、時が止まったかのようだった。ノイトラは「無理待てねえ」とソーセージを頬張った。

「え、え、あの…すごく嬉しい。嬉しいの。でも、」
「だろ?俺、スーツ似合うよーになったし。マジメに会社行くし、昼間から酒飲まねえし。もう充分だろ。なまえだって、他の誰にもやりたくねェんだよ」
「………」

なまえは、スクランブルエッグをフォークから零して赤面した。突然の直球な告白って、心臓に悪い。
でも、どんな顔をしたら良いのか分からなくて、お行儀が悪いと知りつつ、俯いてスクランブルエッグをフォークでつついた。

「…すごく、うれしい。私も、そう思うの」
「じゃ明日婚姻届出すか。あとなァ、今日、結婚指輪見に行かね?」
「ま、まって、…あの、嬉しいけど、急に……どうしちゃったの…?」
「……我慢の限界?」
「なんで疑問系なの…」
「割とずっと思ってたンだけどなァ、こっちはよォ」

ノイトラは、隠していたゼクシィをバサッと取り出して机の上に置いた。しかも大分読み込んである。

「え!?それ買ったの!?読んだの!?」
「あ?参考書ぐれえ買うだろ、フツー」
「……」

なまえの心臓は音を立ててドキンドキン鳴っている。顔に熱が集まり、嬉しさに瞳が潤んだ。

「うれしい………よろしくお願いします…」

まるで消え入りそうな、小さくて可愛い声だった。ノイトラは不敵に笑って「頼むわ」と言って、ポケットから何かを取り出した。
ベルベットで出来た小箱である。
本当は夜に行く予定の素敵なレストランで渡すつもりだったけど、我慢出来ねえんだな。

この先は、もう何も言わずとも知れた事である。
あとは、彼女の細い指を手に取るだけ。

「俺と結婚してくれよ」

鋭い瞳に宿った光は、柔らかく崩れてなまえを捕らえた。







ハッピーアワーが終わった時間帯である。
落ち着いた居酒屋の個室に、テスラは呼び出されていた。
既に焼酎のボトルを頼んでいたノイトラは、それを水割りで飲んでいた。おつまみの、いぶりがっことクリームチーズが美味しそうである。

「遅くなってすみません」
「別に。座れよ」

ノイトラはテスラに、自分と同じように焼酎のお湯割りを作って渡した。陶器のグラスがカチンと当たって、ぐいとそれを飲む。

「テスラ」
「はい」
「近くに可愛い女が居るとなァ、クソ楽しい」
「そうでしたか…」

嬉しさを隠せないノイトラの顔を見て、テスラはあの日のハッピーアワーを思い出した。
あんなに愚痴っていたノイトラは、もう居ない。どこを探しても、2度と会えない気がした。手の届く距離に、そう、目の前に居るのに。
なんだか腹立たしくて、この話の続きを聞きたくなかった。テスラは、そうだと話題を切り替えることにした。

「実は僕、最近部屋に観葉植物置き始めたんですけど」
「いや、俺の話、深掘りしろや」

結婚しないと言ってたのに!
最近のノイトラの話を聞く限り、予感はしていた。あんなに1人の女の子にメロメロになったの、初めて見たワケだし。

「ご結婚ですよね?何というか…手のひら返しが鮮やかですね」
「まァな。結婚最高っつー話だ。あ、つかお前に言おうと思ってたんだけどよォ、イルミネーション悪くねえ。この間行った。写真見ろ」
「うっわあ…」

最悪だ、この男。テスラは分かりやすく仰け反った。
すると、個室の扉を控えめにノックする音が聞こえた。

「なまえだな、入れよ」
「お邪魔します。…あの、テスラさんですよね」
「!初めまして…」

テスラはつい席を立ってしまった。
なまえがあんまりにも綺麗で可愛くて、素敵な女性だったからだ。
あのノイトラが惚れ抜くのも頷ける。
その美しさ、嫋やかさの前でついつい起立してしまうのは、男子のサガである。

「ま、座れよ」
「はあい」

冗談抜きでキラキラと光ようななまえが隣に座った瞬間、ノイトラは嬉しそうに頬を緩めた。
さっきまでの、ふてぶてしい表情はどこへ消えたと言いたい。

「何飲む?竹鶴か?」
「それノイトラが飲みたいやつでしょ。私、ウーロン茶」
「お前、酒飲むと面白えじゃん」
「テスラさん居るのに、そこまで酔えないよ」
「見せつけてやれよ」

デレデレしやがって…。
テスラは舌打ちしない自分を誰かに褒めてもらいたかった。
彼女のウーロン茶が届き、一通り挨拶が終わると、テスラは徐に口を開いた。

「なまえさん、差し出がましいようですが、もしモラハラとかを受けたら僕にご相談くださいね。凄いんです、この人…」
「ア゛!?テスラ、テメェ!」
「あっ、出た!」

テスラは肩透かしを食らった。テスラが神妙な顔をして放った言葉など、なまえは相手にもしていない。
これを間に受けて焦ったのは、ノイトラだけである。席も立って、気付けば焼酎のビンまで手に取っている。怖すぎる。

「みんな、ノイトラの事イジるの好きだよね。見た目怖いのにさ、意外だよね」

何か大きな誤解が生じている気がした。
ノイトラは焼酎のビンを静かにテーブルに戻して、「俺、イジられキャラなんだよ、親父の代から変わんねえ」と嘘を重ねた。
テスラもコレに合わせるしかなく、「つい、イジりたくなってしまって…男子校のノリかよって感じですよね」と頭を掻いた。

「テスラさんは、ノイトラの弟みたいだよね」
「ええ、よく言われます。実際悪い兄貴を持つと大変で…」
「誰が悪い兄貴だ、コラ」

また朗らかに笑って「良い弟じゃん」と言ったなまえの穏やかさは、何かに似ていた。静かな夜の海であろうか。はたまた、満点の星空に漂う静寂か。
テスラの心に浮かんだのは、明方の空に残る青い月であった。







「テスラさん、素敵なひとだったね」
「…そォでも無えだろ。俺のがカッケェし」
「…はいはい、その通り」
「あ?テキトー抜かしてんじゃねえよ」

お店を出た帰り道、2人はゆっくりと歩いていた。夜空には大きな月がぽっかりと浮かんでいる。
ノイトラはなまえに甘えるよう、彼女の細い肩に腕を回した。なまえは慣れたようにノイトラの腕に抱かれ、こてんと頭を寄せた。

「なんか、ノイトラって犬みたい」
「分かった。ドーベルマンだろ」
「ううん。ポメラニアン」
「…ポメラニアンに失礼じゃね?」
「あ、自覚あるんだ」
「るせえ」

どうしても俺が1番じゃなきゃ気が済まないノイトラは、やっぱり犬みたい。
さっきからなまえにキャンキャン吠えてうるさいのなんの。
満月の夜は、犬も狂ってしまうんだっけ。
見上げた先に浮かぶ月を見て、ノイトラはまたひとつ吠えた。

「お、デケェ月だな」
「…食べちゃダメだよ?」
「誰が食うか!」

手を伸ばしたら、届きそうな月だった。
何もかも思い通り。ノイトラは現実主義者の癖に、今日だけは一つ素敵な夢を見た。

軽くジャンプでもしたら、あのデカい月すらも手に掴めそうだな、と。
しかし月は夜を渡るよう、高く高く昇ってゆく。そのまま何処かへ飛んで行かないよう、紐でも結えて、この手に引き寄せられないものかと思った。

儚い夢は吐息に溶けて、風に攫われた。

「な、遠回りして帰ろうぜ」
「…仕方ないなあ」

胸の奥が甘く軋むほど、ロマンチックな夜はまだ始まったばかり。
腕の中のなまえの熱を感じて、ノイトラの瞳は嬉しげに細められた。それは月面の如く、柔らかく光を反射している。

見上げれば、遮る物など何一つ無い。
高く聳えるビルの向こう、目玉焼きみたいにまんまるな月の明かりを受けて、2人の影はチラチラと揺れた。


(おわり)

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