ああ可愛い。何したって可愛いんだから反則だ。
いっそ食べちゃいたい。いいや、それって野蛮だなぁ。却下!
ああ、でも本当にどうしてくれようか。
なんて、想い人についてツラツラ考えていた。仕事中のことだった。

宇佐美時重、ガラにも無く恋に溺れている。

現在進行形。お相手は職場の同僚で、そりゃあ可愛らしいお嬢さん。
仕事してたって少し浮つく。当たり前だ。好きな女の子を目の前にして平然としていられる男は居るはずがない。
宇佐美なんて、彼女に書類を回す時はいつも頭が沸騰しそうになる。(これは異常の域に入るが本人は気付かない。)

僕ってもう、本当にお馬鹿さんになったんじゃないかしら。
そう思ったけれど、まあいっかと開き直った。
愛より貴い物って、ありますか?

宇佐美という男の真髄は、こんな感じに熱烈で純粋だった。





「宇佐美さん、コーヒー好きですか?」

可愛らしい声がした。
想い人から声をかけられてしまった!
宇佐美は興奮で飛び跳ねたい気持ちを抑えて、あくまで冷静に、いつも通りの声を出した。

「どしたの?急に」
「実は、間違えて多く作ってしまって…」
「あーッ僕ちょうど喉乾いてた!頂戴頂戴ッ」
「あ、ほんとですか?良かったぁ…」
「いやほんとタイミング良すぎてビックリしちゃった」
「あはは、宇佐美さんに声掛けて良かったです」
「普段から声掛けてよ」
「いいんですか?」
「いいって。え、もしてかして、僕、とっつきにくいですか?」

宇佐美はふざけたように上目遣いで笑って見せた。
警戒しないでね、というポーズ。
これは宇佐美の得意技で、多方面に使ってそれなりに人脈を確保してきた。

さて、ウケるだろうか。

想い人はぷっと吹き出してから、花を咲かせるような笑顔を見せた。
とっつきにくくないですと、笑って首を横に振った。
宇佐美は「ですよねぇ」と気の抜けた声を出して、更に笑いを誘った。
好感触。
宇佐美はこれを取っ掛かりに、彼女を攻略しようと大きな地図を描いた。




「ねえねえ、内緒の話したいから、定時になったら廊下で待ち合わせしません?」

宇佐美は全く普通の声の音量で彼女に話しかけた。
これは男性陣への牽制でもある。僕、この子狙ってますよ!と全身でアピール。悪い虫ってのは付く前に振り落としたい訳で。
突然こんな会話が始まるので、周りに居た何人かが訝しげにこちらを見た。

「え?それ、どんな用事ですか?」

彼女の周りのデスクから抑えたような笑い声がした。
この見せびらかし、実はもう一つ意味があった。
「なんだかあの2人、良い雰囲気ね」という噂を女子側で流して欲しいんだな。幸いこの部署、彼女以外の女性陣は皆既婚者だから、このアピールの仕方は余計なやっかみを生みにくい。(多分ね)
男という害虫の駆除。女の噂という外堀の埋め立て工事。これら同時にやるのが楽でよろしい。
宇佐美は常に頭の中でソロバンを弾いている。

「え?だから内緒話ですって」

またクスクスと笑い声が上がった。
宇佐美はアッと声を上げて、大きく首を動かして周りを見渡した。

「みなさん盗み聞きですかッ!?ボク、今、内緒話してるんですけどッ」
「内緒話になってないじゃないですか」

アハハと笑いに包まれる。
宇佐美はこの既婚者組から可愛がられる「カワイイ弟分」的なキャラなので、雰囲気は和やかだ。
シメシメ。
悪い笑顔は心の中に留めておいて、宇佐美は彼女を立たせる。

「やばいやばい、バレちゃいましたよ」
「隠す気、ありませんでしたよね?」
「隠す気しか無いよーッ!まずい、一旦外に出ましょう」
「えーっ」

まるで逃避行だった。
ロマンチストの思考回路はぶっ飛んでいる。
全く業務妨害みたいに彼女を呼びつけて連れ出すなんて、中々出来ない芸当だ。しかし宇佐美は2人きりになれれば何だってよかった。

静かな廊下で向き合う。
真正面から向き合うので緊張したけれど、グギッと頬の内側を噛んで昂る気持ちを抑える。血の味が口の中に広がった。

「はい、内緒のお土産です。」

宇佐美は大きい紙袋を彼女に渡す。
行列必須の有名な製菓ブランドのものだ。

「わっ!すごい…!」
「貰い物なんだけど、良かった女の子みんなでどうぞ」
「ありがとうございます!」
「どういたしまして」
「…えっと、あの、」
「なに?」
「どうして、これが内緒話だったんですか?」

結局みんなに配るのに?と、彼女は首を傾げる。
宇佐美はわざとアレ?という顔をして見せた。

「なんでだろ?」

なんなんですかあっと彼女は笑った。
宇佐美はゴソゴソと紙の束を取り出した。

「ゴメンゴメン。お詫びのしるしに…」
「?」
「ハイこれ」
「えっと、経費の?領収書…」
「これは鯉登課長からもぎ取った今月分の領収書、全部です」

宇佐美はフフンと鼻を鳴らした。
これは結構なお手柄だった。
と、いうのも。

鯉登課長は領収書溜め込みの常習犯だった。
(弁解すると、彼は悪くない。とっても優秀な鯉登課長の元に仕事が集中してしまうから領収書なんて処理している暇が無いのだ)

経理の女の子が「締切近いので…」と、領収書を取り立てると「キェエッ忘れてたァッ!」と、猿叫の洗礼を浴びなければならないし。それから、本当に土下座しそうな勢いで謝られるので、ちょっと敬遠されていたのだ。
しかも切腹しそうな青褪めた顔をして謝るので、此方が申し訳なくなる。
では今度。上司の鶴見さんから話を通せば「自分が情けなかッ」と2、3日は塞ぎ込む。3日目には血反吐を吐いた過去さえ持つ。

それさえ無ければ眉目秀麗、エリート育ちの一目置かれるべき美丈夫なんだけれど。

「えっ!ど、どうやって?」
「秘密です」

バカ正直に「鯉登課長の鞄からデスクまで、一通り漁って盗み取ってきました」とは言わない。
宇佐美だって(一応)常識くらいは持ち合わせているし、そんなカッコ悪い裏側なんて見せる訳がない。
彼女は「すごいですねぇ」と繰り返した。
宇佐美は「まあ、ね」と返事をしておいた。
完全に調子に乗っている。
放って置いたら、多分社長室に上がり込み、社長なんて「シッシッ」と追い払い、どっこいしょとその椅子に座りかねない。
偉い人の席に勝手に座る、というのは鯉登課長の席でやった事がある。調子に乗るとそう言う事をするのだ、この男は。

彼女はそんな宇佐美を可愛らしく見上げて、悪戯っぽく笑った。

「今、調子に乗りました?」
「全然乗ってないよ。
まぁ…でも?これくらいは朝飯前ですかねぇ…」

ヤレヤレと首まで振って見せた。
彼女は「もうっ」と笑って、軽く宇佐美を叩いた。
その瞬間に宇佐美は「ハァッ(ハートマーク)」と言って膝から崩れ落ちそうになったのを理性だけで留めた。
本当はもう出そうだった。宇佐美汁が。

多幸感でボンヤリしていると、自分の手が彼女に触れそうになっているのに気付き、急いで引っ込めた。それから脳内で「ドビーは悪い子!」と叫び自分の不埒な手をグッと握り締め、思いっきり爪を立てた。即座に皮膚が破れて血が滲んだ。

いやはや、彼女の小さくて可愛い手を握りそうになっていた。
危ない危ない…。
しかし。
狙ったあの子と仲良くなれるのは最高に気分が良いッ!


宇佐美時重、ここで足速に彼女と別れた。
とっくに定時は過ぎていた。
お疲れ様ですという声がポツポツ聞こえる。

宇佐美は笑顔を浮かべたまま男子トイレに駆け込んだ。
そう。たったあれだけのボディタッチで宇佐美は勃起していたからだ。汁は出発準備も整えている。
コイツを鎮めねばなるまい。

中では後輩の野間が用を足していた。宇佐美は黙ってその背中にピタリとくっ付いた。変質者そのものだった。
男の背中にくっ付くと、なんだかむさ苦しい匂いがした。それを嗅ぐと宇佐美のソレはみるみる縮んだ。人体の不思議。生命の神秘。はたまた神の悪戯か、神の導きか…。
前の方でジョロジョロ水音がしている。

抱き付かれた野間は動くに動けないし、出していたものも引っ込められない。動揺しながら「え、何…」と首だけで振り向いた。
真正のヤバい奴、宇佐美時重がピッタリくっ付いているので「うわ゛ッ」と声を上げた。

「ドビーは悪い子!!!」

野間の背に顔を埋めて、宇佐美はそう叫んだ。スーツに顔をつけているので声はくぐもっていた。

それから「ウワァア!」と情けない声を上げて野間の背中をドムドム叩いた。
これは彼女と触れ合えた“喜び”を発散しているらしい。嬉しさのあまり野を駆け回るワンちゃんと同じ心理状態だった。
野間は「ちょ、飛び散る」と低く呟いた。


野間がジッパーを締め、振り向く頃。
後ろには「悟った」顔をした宇佐美が虚空を見つめて立っていた。
菩薩の慈悲の表情にも似ていた。皮肉だった。


しかしまぁ、気持ち悪い事、この上ない。
野間は宇佐美に強めの肩パンをしてからトイレを後にした。野間はちゃんと“やり返す派”だった。
宇佐美はドテッと尻餅をついて「これが、痛み?」とロボットみたいに呟いた。
訳わかんねえよ、お前。野間は少し笑った。





あれから…。
宇佐美はあの子と、とっても良い感じだった。

宇佐美は好きな子の前では常識的で、気の利いた、優しき青年だった。
この一面を見れるのは鶴見さんか、この子しか居ない。
仕事中も話しやすくなったので、何かと用事を付けては、いそいそ彼女のデスクに向かった。野間はそれを見ていつも眉間にシワをギュッと寄せていた。(その仕草が渋いと女子の間で人気が出るのは、また別なおはなし)
彼女も彼女で、営業チームに直接頼みにくい事は宇佐美を介するようになったので話す機会は爆発的に増えた。
「今度ランチ行こうよ」と誘ったら「いいですね」と明るい笑顔が返ってきた。
それを取っ掛かりに夜のご飯だとか、まあ、デートみたいな。そんな所にまで漕ぎ着けた。

あの日の彼女はどのくらい可愛かったかしら…。

改装したビルの中に新しく出来た喫茶店に行きたいと彼女は言うのだ。
宇佐美は「そこ僕も行きたかったんですよう!新作のコスメも気になってたんだぁ」と女子みたいな返事をしてデートの約束を取り付けた。
当日も結局キャアキャア言って、楽しくお別れをした。もう殆ど女子会みたいなものだった。宇佐美は何故か女心に優しく寄り添えた。毎日aikoを聴いているからだろうか。aikoと同じくらい、マリリン・マンソンも聴いているけれど。


仕事中目が合うと、彼女はニコニコしてくれた。

コレ、軌道に乗って来たぞ。

あと一押し。
その加減も、タイミングも、難しいけれど大丈夫。
宇佐美は今無敵だった。

何故なら…。

いつもより多くaikoを聴いていたから。
もういっそ、僕、女の子になれるかもしれないワ。
グロスでも買ってみようかと心の片隅で思った。






さて、恋路ってのは邪魔が入る運命にあるらしい。

は?おかしいだろッ
宇佐美はこう叫び、唸り、爪を立てて阿修羅となり、その男を八つ裂きしてやろうかと思った。

菊田杢太郎、その人である。

最近同じプロジェクトで顔を合わせるようになった、なんか、偉い上司。
多分大したタマじゃねえな。なんとも気に入らねえ野郎だな。と、宇佐美は彼を良く思っていない。
これは相性の問題だから、嫌ってしまうのは仕方ない。

しかし宇佐美の評価が正しいとも限らない。

つまり菊田さん、彼自身はズバ抜けて素敵な紳士だった。仕事も出来る。当然、頭も切れる。更に持つのは女好きのする甘いマスク。
ほんの少し唇の端を吊り上げるだけで、絵になる美丈夫だ。
それに加えて何とも言えない色香が濃く漂うのだ。
ダンディズムとやらが服を着て歩いたら、こんな感じ。これに酔わない女は居ない。

男からしたら最悪の敵だろう。

そんな親の仇よりも憎むべき敵が、想い人と仲良く話してるじゃないか!

一回目。目を疑ったが、まあ、よろしい。許す。
二回目。偶然だろうから、許す。
三回目。菊田、その笑顔は何だ?まあ、しかし。ギリギリ許そう。

四回目。さては菊田、アンタは僕の恋敵だな?

確信した。
許せなかった。

今もコピー機の前で2人はニコニコ話をしている。
この間は、給湯室でボソボソ10分も語り合っていたし。その前だって資料室の廊下で何やら神妙な顔をして2人語り合っていた。
他にも、仕事中だってあの2人だけで、アイコンタクトしては頷いたり、どうにも怪しい。
宇佐美はスパイの気質を持っていたらしく、当人に気付かれぬようその人の周りをコソコソ嗅ぎ回れる特技があった。(これはストーカーとも呼べる)

宇佐美はイライラしていた。
菊田さん、アンタ、彼女の何になったつもりだ?
それに僕というものがありながら、他の男に軽々しく可愛い笑顔を振りまく想い人。彼女も一体どういうつもりだろうか。
僕というものがありながら!
宇佐美の血管は、どこがどう切れてもおかしくない程膨張していた。
怒りという感情が神経まで支配し、誰にも止められない。
恋の暴走機関車、超特急にて、地獄行き。

悪鬼も逃げ出す般若の形相を湛えている。
宇佐美はマグマみたいに熱い息をフーッ吐き出した。






「何のつもりだよッ!」
「いやそれ菊田サン?に直接言ってやんな」
「叩っ斬ってやるッ」
「シャレになんねえなオイ…あ、お姉ちゃん、ホッピーおかわりね」

宇佐美は菊田さんに突っかかろうとテロを企んだが、失敗に終わった。
多忙な彼はアレやコレやと男共に話しかけられ、最終的には偉そうなオジサンたちに捕まり、ネオンのギラつく夜の街へ連行されたのだ。
今頃テキーラでも飲んでいるのだろう。
それすら絵になるんだろうな。
ああ、憎い。憎たらしい。2、3箇所刺したろか?

やり場を失った怒りは収まらなかった。
こんな時こそ、飲まなきゃやってられない。
と、そんな訳で近くに居たこのタレ目のオジサン(門倉さんという優しき御仁である)を引っ捕まえて、愚痴の相手として隣に座らせた。
安いカウンターテーブルの角はささくれ立っている。
宇佐美はビールを流し込んでまた喚く。金曜日の喧騒に宇佐美の声は馴染んだ。

「なんであの野郎は…あんなに親しげに…話しているんだ…」
「女は年上が好きらしいぞ」
「僕だってッ!一応あの子より年上ですッつまり同じ土俵ですよッ」

絶対に違う。
門倉はそう思ったけれど黙ってタバコをふかした。
女の子って、ホントに不思議な生き物なのよと教えたかった。
しかし、それを素直に聞くような男じゃないので諾々と述べられる愚痴に頷いた。

「だって、グスッ、僕は久し振りにこの子だ!って思ったんですよ。可愛くて、優しくて、なんか良いなって思って。だからアピールもしたし、多分、デートもしましたよ。ウゥッ…なのに、なのに、チンポのデカそうな、それしか取り柄の無いオッサンに取られるのは我慢ならないッ!」

ダン!とビールジョッキが置かれる。
泡が少し溢れた。みっともなくて、今の宇佐美そっくりだった。

「逆に聞くけどよ」
「なんですか」
「今のお前を彼女が見たらどう思うんだろうな」
「ハ!幻滅でしょうよッ」

ヒステリックに宇佐美は叫んだ。
自覚あるのかよコンチクショウと門倉は頭をポリポリ掻いた。
どうにも言葉を使って慰めるのは難しい。

「いや、宇佐美よ、そんなに決めつけるのも良くないだろ」
「この期に及んで僕に気を持たせますか?どうせ失恋するんですよ僕はァ」
「そんなの、決まってねえよ」
「そうに決まってる」
「あのな、もし事実、その好きな子が菊田さんを想ってたとしよう」
「ヴルルル」
「威嚇すんなって!でも、お前それで諦めんのかよ。」
「………諦めない、です」
「だろ」

そう言うと思ったぜ。

宇佐美は蛇みたいな執着心の持ち主だ。
恋敵が鶴見さんでも無い限り、コイツは白を黒に変えてでも全部自分の思い通りにするような奴だ。それが、こんなに弱るとはね。
門倉は宇佐美にこんな一面もあったのかと驚いた。

恋ってのは、勢いと熱だけで出来た喜劇だと門倉は思っている。せっかくなら燃え尽きでも良いんじゃないの。折角なんだし。若いんだし。

「宇佐美よ。諦めらんねえなら、ちゃんと噛み付けよ」

宇佐美は青い瞳を蛇みたいに細めた。
締まった瞳孔の奥で青い炎がカッと火を噴く。

戦闘開始。






戦闘を開始したのは宇佐美だけではなかった。

「あの、菊田さん…」
「あいよ。何だ?」

菊田は手を止めて、控え目に呼びかけて来た女の子を見上げた。
その子は「ちょっとした事なんですけど」と書類の小さなミスを教えてくれた。

「あ、ホントだ。ありがとな。直しとくわ。細かい所も見てくれてるんだねぇ…」
「すみません。こちらでも直せたんですけど、一応確認で…」

菊田はオヤ?と思った。
なんだか返事の歯切れが悪い。書類の話が済んだのに、彼女はここを動こうとしていない。
それでピンと来た。
多分。
書類のミスは口実で、他に用事があるぞ、と。それを切り出せなくてモジモジしているんだな。
菊田は勘が鋭い。と、いうよりも観察眼に長けていた。イイ男って大体の奴らがこの目を持っている。
特に鶴見さんは恐るべき観察眼の持ち主だ。いっそ千里眼かしら。

さて、用事は一体何だろうかと聞き出そうと思った。

菊田は「そういえばさ」と呟いた。
その子は少しホッとしたような顔をして、はいと返事をした。

「あの、備品のストックってどこにあるっけ?」
「下の階の給湯室の横です。」
「あそこって鍵必要だったよな?ちょっと教えてくれないかな…」

オジサンそういう細かいの苦手なのよと、菊田は微笑む。
どんな女の心も撃ち抜けそうな、優しくてキザったらしい笑顔だった。



「でさあ、何か俺に用事あったんじゃない?」

階段を2人でコツンコツンと降りる途中だ。
ここは誰も居ないし、足音が響くから、他に人が来たらすぐ分かる。
内緒話には打ってつけの場所だった。

その子は、あちゃー、という顔をしたけれどすぐに持ち直して、バレてますよねと微笑んだ。それから、ゴメンなさいと謝った。
アラ、素直じゃないの…。
菊田は急にこの子が可愛らしく思えてきた。

「あの、宇佐美さんて居るじゃないですか」
「居るね」

宇佐美。あの生っ白い顔を思い出した。
普段は取り澄ましてる癖に、ふとした瞬間に宇佐美を見ると、ギュッと締まった瞳孔がギロ、と動く蛇みたいな男。
侮れないヤツだね、知ってるぜ。

「どんな女の子が好き、とか、ご存知かなって…思いまして…」

消え入りそうな声だった。
俯いた顔は赤いし、瞳は少し潤んでいた。
微かに、甘酸っぱい恋の匂いがした。

「知らない、けど…」

けど。
菊田は脳みそをフル回転させた。
こんな風に純粋に恋してる女の子を放って置けない。
そう思った。

相手は宇佐美。
素直にオススメできる男ではないなと思った。でも人の恋路を邪魔した者の末路って、馬に蹴られて死んじまうらしい。嫌だねえ。
確かに恋は女の子を幸せにも不幸にもする。
しかし。どちらに転んだって、女は魔法にかけられたみたいにどんどん美しくなる。傷付いても、愛されても、美しくなる。
カット面の増えた宝石が、より煌めくのと同じ原理。

つまり恋は応援すべし。

宇佐美の鶴見さんへの態度を見る限り、惚れた相手には盲目で献身的で良い子になってるんだろう。
普段の宇佐美なんて菊田に対して「あハイ」「すいませーん」「チッ!」「うわチンポでかっ」しか言わないけれど…。

菊田はそういや最近、宇佐美とこの子、良い雰囲気だったなと思い返した。
宇佐美はバカみたいにこの子に話しかけていたし。

では自分はどうすべきか。

菊田はフムと息を吐いて、一言。

「応援してるぜ!」

結局これに尽きるのさ。

誰か近くに恋の悩みを零せる人が居れば良い。
下手なアドバイスは恋の妨げにもなるので要らない。相談なんてのも横道に逸れてしまうのでダメ。
愚痴やらのろけを黙ってウンウン聞いてくれる人がいたら、恋なんて大抵すぐ成就します。恋は雑草と同じくらい逞しく育つ訳で。
一番厄介なのは、女の子が弱気になって男を遠ざけちまう事だな。
それだけは防ぎたい。

「ノロケなら、いくら聞いても飽きないからさ」

菊田はそう言って彼女を送り出した。
彼女は、つまらない事で呼び出してすみませんと再三謝っていた。しかしそれと同じくらい感謝された。
職場恋愛なのに応援していると言われてホッとした事。これはずっと悩んでいたらしい。確かに気まずいよなぁ。でもまあ良くある話じゃねえの?と菊田は笑って返した。

そんなやり取りがあって、彼女は信頼できる紳士に、宇佐美のノロケ話を何度も聞いてもらっていたのだ。
菊田も菊田で、ヤダ、ドラマみたい…!と楽しくなっちゃって恋の一進一退を真剣に聞いた。
それが宇佐美の誤解を生んでしまったのだけれど、大した問題ではなかった。

怒り狂った宇佐美を治められるのは想い人だけ。
菊田に「いける」「やれ」「甘えるんだ」「でも突き放せよ」「恋とプロレスは同じ」「でも最後は甘やかしてあげてネ」と応援され、励まされ続けて、美しく逞しくなった彼女だった。
きっと大丈夫。

根拠の無い自信だって糧にはなる。


明日どうなったっても良い。
そんな金曜日に宇佐美に声をかけた。
昼休みの事だった。

緊張して心臓がバクバク音を立てる。
ヒールから踵がずれ落ちそう。
ダメダメ、しっかりして!
自分をどうにか律して、ボケッとベンチで項垂れていた宇佐美に声をかけた。

「うさみさん」
「え?あ…、アッ!お疲れ様ぁ」
「お疲れ様です」

沈黙。
宇佐美、実は心に蟠りがあった。
アナタ、ほんとは菊田さんの事、好きなんじゃないの?
僕みたいな青臭い若造より、プレミア付きの熟成されたウイスキーみたいな男のが良いんじゃないのなんて思っていた。
しかし話しかけられると、そんなの何処かへ飛んで行って、この子可愛いなぁ…という感情に支配される。
宇佐美って、男って、すごく単純だった。

「宇佐美さん、夜ごはん…一緒に行きたいです」
「今日?」
「はい、あの、予定…って」
「空いてる」

嘘だった。
本当は同期の尾形と飲む約束をしていた。
今からLINEでサクッと断る予定だった。尾形、ゴメン。特に埋め合わせとかしないけど。

「じゃあ、夜…駅で待ち合わせでお願いします」

宇佐美は「え、女子トイレで2人でメイク直してから行こうよおっ」と言いかけてやめた。
だって彼女があんまり真剣だから。
は、はい…!と壊れたように首をカクカク振って応えた。



やばい、これ、何?

宇佐美時重、多幸感ゆえに夢見心地のまま仕事をした。
おかげで後輩の二階堂浩平から「宇佐美さん、まだヤク抜けてないんスか?」と揶揄われた。
宇佐美は仕返しに浩平を男子トイレに連れ込んで「共犯だよ」と言ってビニール袋の中にマーカー消しを垂らした。シンナーが揮発する。「ほんとスンマセン!やめ、うわ、癖になるだろッヤメロ!ホクロ野郎ッ」と暴れたものの。
宇佐美の恐ろしさにビビリ散らかし、それ以降は話し言葉が幼児返りを起こしていた。
ざまあみやがれ!

と、そんな事をしていたら定時となった。
宇佐美は小躍りしたいのを堪えた。
喜ぶのはまだ早い。ステイ、ステイだ。

「よぉ、予定のある宇佐美くん」

尾形は宇佐美の帰路を塞ぐように立ちはだかった。

「あ尾形ゴメンねー」

宇佐美はニコッと口元だけで笑って尾形を避けた。
尾形は宇佐美を追っ掛ける。2人とも早足で歩くのでコントみたいだった。

「おい待て。相手は誰だ」
「カドクラ」
「嘘だろ。どうせ最近お前がちょっかい出してた子だろ?フラれに行くのか?ご苦労なこったなぁ」

尾形はフリースタイルダンジョンのラッパーみたいに捲し立てて煽った。
宇佐美はアッと大きい声を出して尾形の髪の毛をクシャッと掴んだ。
尾形は驚いて固まった。

「そう、フラれちゃうかもー!僕、尾形みたいにスカした髪型してないからぁ!ねえこれ何?ジェルワックス?ジェルで固めてるの?それやればモテる?それならさ、ねえーー!かーしーてーよーーー!」
「うるせえクソが!」

宇佐美はニタッと笑って「じゃ黙ります」と言い走って逃げた。尾形はヤレヤレと髪を撫で付け、ため息をついた。
今までなら、こうして絡めば「コイツ同僚の尾形クン!」と待ち合わせ場所まで尾形を連れて、女の子にヘラヘラ紹介してくれた。それから尾形がその子に手を出したって「ああ、あの子可愛いよね」と笑う。悪友みたいにつるんでいたってのに。
まさか。
アイツ、本気だったのかよ。

尾形は、しかしこれはこれで面白いじゃねえかとタバコをふかした。月の綺麗な夜だった。
通りかかった白石に「ねえそれシケモクでいいから頂戴?」とオネガイされたので台無しになった。
あちらは上手くいっているだろうか。…



「待った?」

宇佐美は童貞みたいにドキドキしていた。
彼女はいつもより可愛らしく着飾っていた。
耳元や首元でチラチラ光るアクセサリーが彼女の美しさを際立たせていた。
潤んだ唇が静かに綻んだ。

あ、我慢できない。可愛い。
いや、ていうかなんか綺麗。すっごく綺麗になった。

宇佐美はマジマジと彼女を見つめた。
不躾な視線かもしれないけれど、これだけ美しい人を見ないでいる方が失礼だと思った。
彼女は「急に呼び出してごめんなさい」と切り出した。

「あの、お店予約してるんですけど、少し遠回りして行きませんか?」
「喜んで!!!」

宇佐美は居酒屋スタッフみたいに返事をした。
彼女はそれを聞いていつもの笑顔に戻った。緊張が解けたらしい。
2人で川沿いの広い公園を通り抜けてゆく。
これ、実は菊田の提案だった。
「コース料理に前菜があるようにさ、デートでも前菜を作るとステキかもよ。いきなり対面で飯より、どこか遠回りしてからお店入った方がさぁ、話も弾みそうじゃない?」
彼女はそれをメモして壁に貼りたくなった。
ああ、やっぱり相談して良かった!

潮風の混ざる冷たい風が吹いた。

「ここ、久しぶりに通りますよ、僕」
「私もです。気になってはいたんですけど、1人では歩かないですし、」
「だよね?僕が最後に通ったのは…営業の帰りかな。しかも谷垣と一緒。」
「谷垣さんかぁ」
「ここ、ちょっと段差があるでしょ?谷垣ったら躓いてさ、ズボン破いちゃって」
「ふふ」
「僕それ見て爆笑したらさ、同じく破けちゃって」
「えーっ」
「2人ですーっごい内股で帰ってきた。」
「そのエピソード知らなかったです」
「僕も忘れてた」

あはは、うふふ、と笑い合った。

「きゃ、」
「うわ」

そんな2人の前をバサバサとコウモリが横切った。
彼女は驚いて、それこそ谷垣みたいに段差に躓いた。
彼女は、あっと声を上げる間も無かった。反射的に目を瞑る。2、3秒経ってからアレ?と思った。どうにも痛くない。支えられているらしい。
だとしたら相手は1人しかいない。

「だ、大丈夫ですか」
「はい…」

王子様なの?
ロマンチックは止まらない。
月の綺麗な夜だからかもしれない。
彼女の瞳には宇佐美が世界一カッコよく映った。
もはや喜劇である。

「あ、ごめんね、勝手に触って、」

宇佐美はアタフタした。
結構しっかりと、彼女を横から抱きとめていたからだ。
彼女は腕の中で恥ずかしそうに俯いている。

「離すよ?」
「だ、だめです」
「へ?」

彼女は顔を真っ赤にしてもじもじして此方を見ている。

参ったな…。
可愛すぎるってもんだ…。

「宇佐美さん、ごめんなさい、私甘えてる…」
「へぁ、」

脳がオーバーヒートする。血液が沸騰する。心臓がドコドコ鳴って手から汗がドバドバ出る。眼玉もギョロと白眼も剥いてしまいそう。

彼女は宇佐美の胸に、頭をそっと寄せた。
アァ…と変な声が出る。取り繕っていられない。
ダメだ、こんなのって反則だ。
卑怯だ!
しっかり、しっかりしないと…!

宇佐美は荒い呼吸を抑えて唇を開く。


「あのぅ、ぼ、僕、もう…ッ」

どうしようと情けない声が漏れる。
そんな、カッコ付かない男の間抜けヅラを月だけが見ていた。


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