「お母さん、今帰ったよ。ごめんね、昼あがる予定だったんだけど、ちょっと延びちゃった」

母は車椅子に座ったまま何も言わない。ただ私の動作を目で追っているだけだ。その目も白くよどんでいて、きちんと見れているかは定かではない。私は口やかましい母だった頃を思い出しながら薄く笑った。

「そうだ、散歩行こうか。昨日より暖かいし」

ね、と母の瞳を覗き込むと、母は嬉しそうに瞳を細めて少しだけ口角を上げた。私も笑い返し、車椅子をゆっくり押し玄関に向かった。

暖かいとは言っても、やはり季節は初冬。風が吹く度、背筋がぞくぞくする。止めとけば良かったかしら。母が寒くないか様子を見ると、太陽の光が気持ち良いようでうつらうつら舟を漕いでいた。すると寒いと思っていた心にふわりとあたたかい何かが入り込んだ。私はそれが何か知っていた。そして言葉にすると冷めて、形を崩して消えてしまうという事も知っていた。私は目を瞑り母に聞こえないように深呼吸をする。新鮮な冷たい空気とあたたかい気持ちが交じり合ってまた新たな何かが生まれたような気がした。

母が目を覚ましたので、私はまたゆっくりと車椅子を押す。向かうのは、母が好きなあの公園だ。勿論私もだけれど。着くとやはり誰もいなくて、噴水だけが迎えてくれた。私達は噴水に近付き、水筒に入れておいた暖かいコーヒーを時間をかけて飲んだ。

「お母さん、寒くない?大丈夫?」

無駄だとは分かっていたけれど、私は問いかけた。母はコーヒーの中を覗いていて、案の定こちらに見向きもしない。私はため息をつき、仕方なく体を前に向けた。そして息を飲んだ。数メートル先に男がいて、私達を眺めていたのだ。男は私の視線に気付き、薄笑いの表情でこちらに近付いてきた。私はその男の名を呼ぶ。もう、二度と呼ぶ事などないと思っていたのに。

「…ワビスケ」

声は思った以上に震えてしまった。侘助は私の強張った声に、あの独特な笑い声を漏らした。そして今度は彼が私の名を呼んだ。まるで昨日も会ったかのように、綺麗に、淀みなく呼ぶものだから、私は少し泣きそうになった。

「よう、元気か」
「まあぼちぼち。あ、この人は私のお母さんでエレーン。お母さん、この人はワビスケっていうジャパニーズで私の、…親しい友人よ」
「北にいるんじゃなかったのか」
「こっちに呼んだのよ。色々不便そうだったから」
「…そうか」

私だけ泣くなんてフェアじゃない。瞳の縁にたまっている水を落とすまい、見せまいと必死で隠した。

「そういえばニュースで見たわよ。“ラブマシーン”」

意地悪げに私が笑うと、侘助は嫌そうな顔をした。しかしその後不安そうに、被害にあったかどうかを聞いてきた。

「何にも。元々ああいうのには疎いし。それに侘助は作っただけなんでしょう?関係ないじゃない。あんまり良くないように言う人もいるみたいだけど、気にしない方がいいわ。ああコーヒーいる?」

押し黙り何も言わなくなった侘助に、コーヒをつぎながら座るように言ったけど、彼はなかなか座ろうとしない。痺れを切らした私は、彼の腕を引っ張り、無理矢理左に座らせ、コーヒーの入った紙コップを握らせた。しかし彼はそれを飲まずに険しい顔で湯気を見つめているだけだった。両隣にコーヒーを見つめているだけの住人。なんだか肩身が狭い。私は嫌になり、再び口を開いた。

「母に会いに行ったのは、私なりの“けじめ”のつもり。ワビスケのおかげよ、ありがとう」

私の言葉に、侘助はびくりと肩を震わせ、紙コップを強く握りしめた。もちろん並々に注がれていた熱く黒い液体は彼の手全体にかかる。

「ちょっと、何してるの!?」

取り出したハンカチで侘助の手を拭こうとすると、彼は私から手を遠ざけ、重苦しそうに口を開いた。

「喜ばせようと思ったんだ、今までごめんって言おうと思ったんだ。でも…あれのせいで死んだ。周りは寿命だって言うが、あれさえなきゃ助かったに決まってる」

誰を指すのか察しがついた。お酒に酔うとたまに口にしていた「バアチャン」だ。私は驚きで何と言えば分からなかった。何と言えば彼の心は軽くなるだろうか。ある事を思いつき、私は言葉を音にした。

「大丈夫よ、きっと」

震えながらも頑なに握りしめた侘助の手を解し、液体を拭き取る。そして続けた。そっと包み込んだ彼の手は燃えるように熱かった。

「伝わったはずよ。…ワビスケとは比べものにはならないけれど、聞いてちょうだい。前にも言ったわね、私もあそこの生活が嫌で飛び出したって、だけど本当はね、都会で成功して母を喜ばせたいと思っていたの、認められたいと強く願っていた、それが出来ない自分が情けなくて仕方なくて毎日が嫌で死んでやろうかと思ってた。でもワビスケに会えて前向きになれたし、仕事も真面目に頑張ることが出来たし、…母にやっと会いに行くことも出来た。私の母はとても酷いアルコール依存のせいであちこち悪くなってそれが脳にまで及んで認知症になって私の事さえももう分からないの。会いに行ったら、誰だと言われた時は本当にびっくりした。で、面倒見てくれていた人がいるんだけど、母の症状が軽い頃、いつも私の名前を呼んでいたって。私は恨み言だと思った。有り金全部持って、母を捨てたんだもの。…でも違ったのよ。ずっと大丈夫だろうか、悪い事をしたって、自分は見捨てられて当然だって泣いていたらしいの。一緒に暮らしていて一度も言われた事ない言葉ばっかだった。母が生きている内に会えて良かったって心底思ったわ。それで、母が逝くまでずっと傍にいることにしたのよ。今まで過ごせなかった分、最後まで一緒に生きようって決めたのよ。多分、あなたの大切な人も同じ気持ちだったと思う。それに絶対ワビスケのせいじゃない。あなたに会えて一安心して逝ったのよ。私全財産かけてもそっちにかけるわ。…ああもううまく言えない!こういうのはやっぱり私には向いてないわね。気分を悪くしたらごめんなさい」

いつの間にか侘助の手は私の同じ体温になっていた。彼は私の手を強く握り替えして言った。

「いいや、ありがとうな」

私には先程よりはらいくらか楽になったように見えた。

「どういたしまして、わっ」

母が急に私の袖を引っ張ったのだ。何かを訴えるように口をもごもごさせた。そうだ忘れてた。

「ごめんね忘れてたわ。あ、この人があれを教えてくれた人なの!せっかくだから彼に」
「何の話だ」
「ナナツノコ、よ。お母さんこの歌だけ物凄く反応するの。たまに歌おうとする事もあるわ。ほら早く」
「仕方ねぇな」

侘助が照れ臭そうに、でも満更でもないように歌い始める。我慢できなくなった私も途中参戦をした。すると母も僅かながらだけど、嬉しそうにメロディを口ずさんだ。3人の歌は静かに生まれ、また静かに空気に溶けていった。


「俺、日本に残る事にした」
「ええいい事だと思う」
「それで、良かったらなんだが、俺と」
「残念ながらその先は必要ないわ。私には母がいるし、置いていくわけにはいかない」
「連れてくればいい」
「無理よ。体が弱いから」
「そうだな」
「でも、もしあなたがいいならたまに顔を見に来てくれない?お母さんあなたの事凄く気に入ったみたい」
「ああ」
「あーあ、折角のエリートな色男のプロポーズを断っちゃうなんて昔の私だったら有り得ないわ!ま、いいけど。あ、絶対会いに来なさいよ!」
「シシシッ俺はエレーンに会いに来たらすぐ帰るぞ。そういう約束だろ?」
「勝手にすれば!?」
「おっと俺右曲がるから。お前左だろ?とっと帰らねえと襲われるぞ。お前の母さんが」
「お母さんより色気ないって事かしら」
「さあな」

公園の入り口で私達は小突きあった。味気ないと同時に寂しかった。本当は抱き締めて行かないでって言いたかった。だけれど、さっき言った事を変える気はないし、第一私はそんな性格じゃない。

「じゃあ、な」

侘助は私の眼前にを突き出しながら言った。彼の意に気付き、私も拳を作り彼の拳に軽くぶつける。

「「GOOD LUCK」」

私達の声は綺麗に重なって星が散り始めた空に反響した。



七つの子

可愛 可愛と 烏は啼くの
可愛 可愛と 啼くんだよ
山の古巣へ 行つて見て御覧
丸い眼をした いい子だよ















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やっとこさもらってこれた…実は随分前(になるのかな?)にうおちゃんから頂いたものです。侘助さんもすきだし、読み返すとやっぱりうおちゃんの文はすきだなあって、うまいなあって思う。彼女は素敵な人ですほんと。ありがとうございました。碧子
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