「遙」

 耳元で呼ぶ。彼はなに、と答える。

「遙」

 もう一度耳元で囁く。彼は先程と何も変わらない様子でなに、と答える。

「狭くない?」

 今度は別の言葉を発した。彼は少し、と答えた。

 それもその筈、今は2人で家の湯船に浸かっていた。遙の家のよりは大きい湯船だけれど、2人で入るには狭い。わたしが思うに、1人分のスペースはきっと遙が1人で家で入るよりも、今こうして2人で入っている方が狭い。ほぼ体育座りのような体勢で、2人して肩を並べているのだ。無理やり連れてきてしまったかな、なんて心配してみても、遙の横顔を見ればそんな思いは消えてしまう。他の人にはわからないだろうが、やはりどこか、楽しそうだ。いや、真ならわかるかもしれない。けれど、今他の人のことを考えるのはよそう。
 湯船に張られているのは勿論水である。水風呂は嫌いだ。身体の芯まで冷えきってしまうような気がしてどうも好きになれない。ただ、水に浸かっている遙を見るのは好きだ。何を考えているのか知れない表情を見るのが好きだ。水に浸かる遙を眺めるのも最近の日課になってきた。ただ今日はどうしてか、久しぶりに水風呂に入りたくなったのだ。遙がいれば、好きじゃない水風呂もいいかもしれない、なんて。

「はあ」
「どうかした?」
「ただの考え事。気にしないで」
「わかった」

 そう答えると、遙は腕を水にくぐらせ始めた。ちゃぷん、ちゃぷん。水が鳴る。

「水の音っていいよね。わたし好き」
「知ってる」
「あれ、言ったっけ?」
「ううん」

 ちゃぷん、ちゃぷん。水面が波打つ。水の中の脚が揺れている。

「昔から苗字は、水の音に反応してたから」

 言われてみれば、そうなのかもしれない。よくわからないけど、遙が言うならきっとそうなのだろう。わたしをよく見ていてくれる、遙なら。

「苗字はよく、水の音がする方を見てたよ。気になるんだろうなって思ってた」

 水の音がする方。それは例えば今みたいに、ちゃぷん。それからぴちゃっと跳ねる音。砂をさらう、海の音。何かが入る音、ざぶん。そういう音がする方を、見ていた。
 違う、気付いた。水の音がする方を見ていたんじゃない。

「遙を探してたんだ」
「俺?」
「うん、そう。遙を探してた。遙はいつも水のあるところにいるから、無意識に水の音がする方を見ちゃってたんだ。そっか、それでわたし、水の音が好きなんだ」

 水があるところには遙がいるから。水の音がする方で遙を見付けられるから。水の音はイコール遙なんだ。

「なんで嬉しそうなの?」
「そう?」
「水に入って嬉しそうなの初めて見た」
「そうかも、初めてかも」

 思わず顔が綻ぶ。遙が好きな水に浸かるのを、わたしも好きになれたらいいと思っていた。遙はいつだってわたしに糸口をくれる。今日は少しだけ、水風呂が好きになれた。

「ねえ何で嬉しそうなの」
「遙のお陰だよ」
「俺何もしてなくないか?」
「うん」
「どういうこと?」
「わかんなくていいんだよ」

 ざばあ。振り返って笑顔を見せる。遙を残してわたしは水から引き上げた。




 冷えた身体をバスタオルで包み込む。指先はふやけてしおしおだ。後からあがってきた遙の指先を握ってみる。温度がない。

「どうした?」
「水は寒いよ」
「入らなきゃいいのに」
「入りたい気分だった」

 きっと遙はわかってくれないんだろうな、この気持ちは。はてなを浮かべたような遙の顔が目に入る。別にいい、わかってくれなくたって。ずっと遙の隣にいられれば、それでいい。

「これ」

 ふと目についた、ただの小石。洗面台に乗って、灰色でくすんだように見える。それは、なんとも浮いて見えて、そこだけ古くさい感じがする。

「それ、苗字がくれたやつ」

 忘れるわけがない。小さい頃、川原で遊んだ時のこと。相変わらず昔から水が大好きだった遙はずっと水の中にいた。川はいつも穏やかで、子供が入っても膝下くらいの小さな川だった。遙は服をびしゃびしゃにしながら水の中を見ていて、水面がきらきらと光っていたのを覚えている。わたしはというのもその頃からあまり水が得意じゃなく、川には入らずに遙をずっと見ていた。時々遙が発見したことを話に来てくれるのが大好きだった。

「イルカだってさ」

 苗字が言ってたんだ。遙は言う。どう見てもイルカに見えない。イビツな三角形。俺はイルカみたいに速くて綺麗だって。そんなことも言ったかもしれない。今だって思う。遙は綺麗なんだ。水の中にいる遙は誰よりも何よりも綺麗だ。

「……丸くてとがってなくて、なんか温かい感じ」
「何それ」
「遙が石をくれた時に言ってた言葉」

 わたしがそのイルカ石をあげると、遙は削られて滑らかになった表面の石を渡してきた。その時はその言葉がわからなかったけど、とても嬉しかったのは覚えている。わたし、温かいんだって!嬉しくて家族に報告した。その丸い石は今でも大事に机の上に置かれている。

「そんなこと言ってたっけ、俺」
「自分のことはよく忘れるよね、遙」

 その分わたしが覚えててあげる。自分のことを忘れても、わたしがずっと覚えててあげる。遙がわたしを見てくれるように、わたしも遙を見ていてあげる。

 ぶるる、と頭を振る遙の水滴が、顔に飛び散った。



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飛沫さまに提出

130913

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