「…………」 受け取ったコーヒーに口を付けた瞬間、俺は危うく噴きそうになるのを必死に抑え、平静を保とうとした。 不味い……。 いつもならば豊かな香りと深いコクに一日の勤務の疲れが吹き飛ぶコーヒーを淹れてくれるのだが…。隣を見ると専属機械鎧技師のニールも密かに眉間に皺を寄せている。反対にいる女医のケイトは流石というか、このコーヒーに口を付けても眉一つ動かさない。いや、いい意味で彼女は味に頓着しない性格だったな。 元々、ケイトをはじめとする医務室組の淹れるコーヒーは、薄い・温(ぬる)い・不味いの三拍子揃った壊滅的な味のコーヒーだった。砦にいる人間もさほど味にはこだわっていなかったのでこんなものかと思っていたが、アイリスが女医見習いとしてブリッグズにやって来て以来、革命が起きた。そう、美味いコーヒーを飲めるようになったのだ。休憩中のちょっとした時間に挽いた豆を使って淹れるコーヒーは絶品だ。何か凄い魔法でも使っているのかと思った程だが、本人は至って謙虚に「豆が新鮮だからですよ」と微笑んでいた。 そんな感じで、この頃は彼女の美味いコーヒーに慣れていた為に今日のこれは強烈だ。何か嫌なことでもあったのだろうか。それとも体調が良くないのだろうか。ちらり…と彼女を盗み見たが、自分のコーヒーを淹れている彼女の様子に特に変わった気配はない。 「アイリス…ちゃん…?」 耐えかねたのか、冷や汗の止まらないニールが口を開いた。 「え?」 カップに注ぎながら振り返ったアイリスは、まだニールの絶望的な心の内には気付いていないようだ。 「ニール、気にするな。そういう日もある…」 いつも完璧を求められたり、必要以上に期待をされると、気持ちが窮屈になって持っている力を十分に出せなくなる。緊張は視野を狭め、柔軟さを欠けさせる。周りもあまり期待の目で見るよりはゆったりと見守るくらいの姿勢がいいのだ。…と、あれこれ考えてしまうがフェミニストのニールのことだ。アイリスを傷つける様な事は言わないだろう。 「えーと、そろそろ…時間じゃない?」 ニールに促され壁時計を見るとあと10分くらいで午後2時だ。 「あ、いけない!もうこんな時間?!」 その事にハッとしたアイリスは入れかけのコーヒーをテーブルに置いて椅子に掛けていた上着と鞄を手にすると慌てて医務室から出ようとした。 「アイリス!あなた一人で大丈夫?私も行きましょうか…?」 ケイトの声が響く。彼女の机には書きかけの報告書やカルテがまだ束になっている。 「ケイトは仕事があるだろう。俺が行こう」 コーヒーを脇に置いて椅子から立ち上がりかけたその時、 「ううん、一人で大丈夫。ありがとう……」 今まで微塵も見せなかった寂しげな笑顔を残して、彼女は医務室を後にした。医務室には大丈夫かしら…と小さく呟くケイトの声が残った。 (一人で大丈夫とは言っていたが……) 結局、心配になってアイリスと一緒に砦を出た。午後2時、快晴。今ブリッグズは夏なので吹雪が起こる事もない。 「ダメね、また酷いコーヒーを淹れちゃった……」 ブリッグズの蒼い空を見ながら呟いた彼女を見て、そういう日もあるからあまり気にするな、と返すが、ううん…と唸り今日の淹れ方でどこが悪かったかを考えているようだ。だいたいこんなものだろう…で済ます俺から見れば、彼女の真面目で熱心なところは羨ましくもあるが…。 「あまり根を詰めるなよ…」 その良さが、自分を追い詰めることにならなければいいと思う。 「わぁ、今日は人が多い…!」 砦を出て暫く歩くとノースシティーに出る。アメストリス北端の街には一通りの施設が揃い、気候の良い今は涼を楽しもうと観光客も多い。そんな人々を横目に通り過ぎ、アイリスはある建物に入って行った。軍用らしく受け付けで身分証を提示すると代わりに小さなカードを受け取っていた。 緑の多い中庭では子ども達が遊んでいる。その中庭に面したこの通路には、暖かい陽射しが射し込み、爽やかな風が窓から吹いてくる。 (ここは、一体……) さっきから急に始まった頭痛に視界が歪む。風邪など3年前に軽く引いてから一度も引いていなかったのに。 アイリスが一つの部屋の前に立った。とんとん、と軽くノックをすると中の返事を待たずにドアを開けてそっと中へ入って行った。 (ああ、そうか………) 部屋の中のベッドに横たえられていた人物は、誰よりもよく知っている人間だった。それが分かった瞬間、アイリスのコーヒーの味と先程の寂しげな表情の理由に合点がいった。 「バッカニア、遅くなってごめんね」 そういうとアイリスは俺のベッドの脇にある椅子に腰掛けた。ピクリとも動かず瞳を閉じたまま眠り続ける俺の左手を取って自らの頬に当てる。ベッドの上の俺の体には包帯が巻かれ、腕には栄養を補給する為のチューブが付いていた。大総統との激闘で受けた大きな傷は治りかけてはいるが、まだ完治はしていないようだ。意識も未だに戻らない。アイリスは時間を見つけては俺を見舞っていたのだった。 「バッカニア、今日はね、ニールさんと新しい機械鎧のアイデアを話し合ったのよ」 アイリスの頬が当たる手の平が、温かい……… 命を懸けて国を守ったことに悔いはない。だが、それは何の為の戦いだったのか。アメストリスに住む、いや、世界中に住む人々の平和と笑顔を守る為の戦いではなかったか。そんな大層な目標を意識しながら戦っていたわけではないが、少なくとも自分の知っている人間を守りたかった。平和に暮らして欲しかった。だが俺の死は一番笑顔でいて欲しかった人を悲しませてしまった。 (アイリス…俺は……) 戻りたい…、戻らなければ……! そう感じた途端、急に体に鉛が付いた様に重たくなり始めた。二人を少し離れたところから眺めていた筈がそちらに強く引き寄せられる。腹に、腕に、痛みが走る。意識が浮上していくのと同時に肉体の重みに重力が加わり出した。 重い、痛い、眠い。だがもっと上へ…上へ…… ─────…光が、溢れた… 重たい瞼をゆっくり、ゆっくりと開ける。眩しい陽の光に漸く目が慣れはっきりしてきたその視界の中心には、俺のよく見知った女性がいた。信じられないといった驚きと喜びの入り交じった顔で…。 「…バッカニア……!」 「……………アイリス…」 久しぶりに出す声は掠れて彼女に伝わったかどうかも分からない。けれども手を取ったままの彼女の頬は紅潮し、瞳からは涙が溢れ出した。 「……っ、ずっと…ずっと悪い夢を見ていたみたい……」 次々と溢れてくる透明な雫を指先で拭ってやりたいが、体は思う様に動かない。頬を伝った涙が俺の指先を濡らす。 「バッカニア……お帰り…なさい。約束、守って…くれたね…」 約束。中央への出撃前、アイリスと約束をしていた。必ず生きて帰ってくると…。 開いた瞳で彼女の泣き顔を見るので精一杯だが、俺は今、帰ってきた。 「……アイリス……ただいま…」 「良かったね、アイリスちゃん……グス」 「ニール、なにメソメソしてるのよ…」 部屋の入り口には俺達の姿をそっと見守る技師と女医の姿があった。 それにしても…とケイトは自身も零れそうになっている涙を誤魔化す様に窓から空を見上げると心の中で呟いた。 (…死亡って聞かされたのに、発見された時は虫の息ながらもイビキが聞こえたってどうなのよ……) 中央出撃を前に、緊張で眠れぬ夜が続いていたという事が後々発覚し、ケイトにハリセンをくらうのは2ヶ月ほど先のことである。 (あまり期待されるとな……) (スパコーン…ッ!!) (痛いぞ、ケイト……) (愛のハリセンよ) fin ::少年と星は呼吸をやめない 戻 1/1page |