いつも失恋前提。自分基準の天秤で相手をはかって、心が折れて諦める。いつもいつも釣り合わない。勝手に傷ついて、勝手に振り回されて、勝手に想いを重ねて、勝手に待ちくたびれて、勘違いばかりして、いろんなことから逃げ回って、恋することに疲れてしまう。
 田宮さん。私がほんとうに好きなひとだ。生まれてはじめて溺れきった相手だった。恋の喜びも、つらさも、ぜんぶこのひとに教えてもらった。四十七歳の妻子持ちに、私は永遠の片思いをしている。逢えなくなったいまでも、途方もなく切ない夜は、彼を想って泣く。もうどうしようもないのだ。いつまで経っても保護にかけた録音メッセージをきいている私は。
 田宮さんを忘れられないまま、私は折原くんに出会った。私のバイト先の常連さんである平和島くんの知り合いみたいだが、ふたりの仲は犬猿以上だ。普段は物静かな平和島くんが、死ねとか消えろとか、ぶっ殺すとか、そういう物騒な言葉で折原くんにまくし立てていた。まさしく鬼のような形相で。折原くんは、それを飄々とした態度で交わし、負けないくらい嫌な言葉を浴びせていた。
 ところで折原くんには、悪い趣味がある。冴えない女の子を口説き落とす、というなんともあくどい趣味だ。そうでなければ、どうして私が折原くんに見初められよう。だって私の天秤には、折原くんと私が釣り合うはずがない、と出ている。それに、田宮さんのこともある。

 折原くんの誘いを曖昧にして逃げようとしたけれど、うまくいかなかった。なぜか彼には嘘が通用しない。用事があると言っても、「君の予定は把握済みだよ。ちなみに俺の情報では、今日は暇なはずなんだけど」と返された。
 めんどうくさくなって、反論はやめた。言われるがまま折原くんに連れられて、ロシア寿司で夕食をとった。サイモンさんと折原くんの会話が成立していなくて、私は終始笑っていた。食事を済ませた私たちは駅まで歩いた。
 折原くんの取り留めのない話の内容はやがて質問攻めへと変わり、割としつこいものだった。オーソドックスなものから変テコなものまで、いろいろ訊かれた。うんざりしてきた私は、どういうヤツが好きなのか、という質問に対して、
「私、折原くん好きだよ」
 と言った。目の前の交差点で、歩行者信号が青の点滅を表示していた。周りのひとが早歩きで渡り始めるのに、私たちはそうしなかった。
「…うそ」
 折原くんは驚いたようすだった。珍しく無防備な顔で私をじっと見つめている。端正な顔で、それほどまでに熱心に見つめられているのに、私の胸は熱くならなかった。
 点滅は赤になる。
「チャラくなくて、腹黒じゃない折原くん、みたいなひとがいい」
 思ったことをそのまま言ったら、折原くんはすこししかめ面になった。そしてすごい勢いで何やら言い募る。
「何ソレ。前者は違うとして、善良なだけが取り柄の俺なんて気持ち悪くない? そもそも俺のこと好きって言っておきながら、俺の改良バージョンみたいなやつを彼氏にしたいとか、ひどくない? ひどいよねえ。俺という存在は俺でしかないわけだから、君が“折原くん好きだよ”と言った時点で、後付けなしでありのままの俺が好き、ということだ。つまり善良な俺なんてのは単なる仮説であって、ありえない。短所はいわば長所の裏だ。ひっくり返せば魅力になる。まあ、俺自身、腹黒だなんて思ってないけどね」
 身振り手振りも大袈裟だけど、よくもまあ饒舌に回る口だ、と思った。私はちょっと疲れてしまったのを気づかれないように軽く笑って、
「なんていうか、好きの種類だよ」
 と言った。
 信号が変わり、私たちは歩き出す。
「いまの折原くんは私の器じゃ足りないから、ぴったりな折原くんがいいと思って」
 それまで軽やかだった足取りが、急に止まる。見上げた折原くんは、やはり不満げだった。
「足りないって…俺がダメだってこと?」
 彼は、ここが横断歩道の真ん中だということを忘れているのだろうか。私は慌てて折原くんのコートの裾を掴んで、急いで渡らせた。その間折原くんはおとなしかった。
 歩道に入ると私は手を離し、適当なことを言った。まあ妥当だろう、というような、差し障りのない返事だ。
「違うよ。折原くんのレベルが高すぎるの、だから私が間に合わないの」
「…君ってときどき、不思議な言い方するよね」
 不味くもなく美味しくもないものを食べたときみたいな、微妙な表情で折原くんは言った。滑舌が悪いから、簡単な言葉しか使わないようにしているだけなんだけれど、と思ったが、言わなかった。
「君に限って、気づいてないなんてことないだろうけど」
「え?」
「わからない?」
 正直、どうでもよかった。
「いつだって特別だろ。君だけは」
 ふと、思い出してしまう。
 私のことを特別だと言って笑った、田宮さんの笑顔を。
 細身で、猫背で、白髪混じりの天然パーマの頭をがしがしとかきながら片手はポケットに突っ込んで。煙草を吸うのに、いい匂いしかしなくて。冗談なのか本気なのかいつもわからないようなひとで、車の運転は上手なのに乱暴で、ふざけてばかりいたけど、ほんとうに優しかった。根っからのジゴロだったのだ。眠っている猫みたいな、日に焼けた笑顔で、私の名前を呼んでくれた。何度も、何度も。
 ああ、と思った。
 私はまだ、こんなにも田宮さんを好きでいる。頭の先から爪の先まで、田宮さんへの恋慕で溢れている。
 だってずっと夢をみるのだ。最後にみた夢では、私は田宮さんに抱かれていた。
 黙り込んだ私に、何を思ったのか折原くんは、「素直になればいいのに」
 と言った。私だって素直になりたかった。それに、単なる悪趣味に付き合うほど私は暇じゃない。
 いまこの瞬間ですら、田宮さんを求めている。
「恥ずかしいから、素直になれないんだよ」
 折原くんに田宮さんを重ねて、代弁をしてみる。こんなときでしかほんとうのことを言えない私が、情けなかった。ふがいなくて、涙が出そうだ。
「つまんないなあ」
「すいませんね」
 話している間も、私たちは歩き続け、ようやく駅入り口に着いたとき、
「不毛な恋を引きずるよりさ」
 立ち止まって、折原くんは私の手をつかんだ。細くしなやかな指が手の甲を撫でる感覚が、すこしくすぐったい。以外とぬくもりのある彼のでも、繋いだ指先がすこしも暖まらないのは、不毛な恋が私をこごえさせるからだ。体の芯まで凍てついて、目先の火じゃあ溶かせない。だれにも癒せない。私は、すっかり冷え切っていた。
「新しい恋で忘れたらいい」
 もう歩けなかった。折原くんが私を抱きしめたからだ。
 狭間に見えた、細めた目元が、忘れられない田宮さんのそれにそっくりで、痛むほど優しくて、私は、泣きそうになった。