可愛がっていた猫が死んだ。滑らかな毛並みを持った美しい猫だった。人間に餌こそ強請れど愛らしく媚びを売るようなことは絶対にしない子で、そんな気高さを私は気に入っていた。息の絶えた猫を優しく抱く私に、母は、その猫はいつでもあなたの傍にいるのだから悲しむことはないのよと言葉をかけた。私はその言葉がどうにも腑に落ちず、沈黙を湛えたままその場に蹲った。慰安は時に残酷な刃物へと姿を変える。他者の死は生まれてこの方幾度も経験したが、このとき初めて死から来る悲しみというものを感じた。魂の裂ける痛み。哀悼を捧げるだけでは、私が私を許してはくれないだろう。その後母は背中を丸め続ける私に向け、折り合いをつけなさいと言い放った。あなたは頭が良いのだから、と。そのときの母の穏やかな表情と声色を、私は何十年経っても忘れることはないだろう。



深々と冷える日だ。身を切る寒さに指先が悴む。吐く度に薄ら白く具現化する息が面白くて何度も息を吐いていると、隣で半兵衛様が微笑を洩らした。冬化粧をする野原の輝きはどんな艶女にも勝るが、優雅に破顔する半兵衛様には適わない。それほど彼は美しい。白い髪の毛と肌はまるで雪のようで、そんな半兵衛が雪原を闊歩しているのはなんとも不思議な反面、妙な神々しさがある。美しさは同時に儚さも兼ね備えてしまうものだ。逆に言えば、儚くないものは美しくない。散り行く一時に価値があるからこそ、そのものの煌めきは増す。

私は屈んで足下の白雪を掬い、そのままぽとぽとと手から零した。このたくさんの雪も春になれば解け、茫洋たる大地へと染み渡る。美しかった銀世界は若草の息吹を宿し、夏には緑が命を咲かせるのだろう。根雪の下で待つものは愛情か悲哀か。私たちにはまだ知る由もない。木々の向こうで堂々と聳える大阪城は静かに息を潜めている。


「半兵衛様、雪がきれいですね」
「そうだね。冬にしか見ることの出来ない貴重な景色だ」
「雪化粧をした大阪城というのもまた、味があって素晴らしいですね」
「秀吉に相応しい荘厳な外観だよ」


君主の夢を見据えた双眸は、冷たい炎を渦巻かせる。半兵衛様は常に豊臣様のことを思惟していて、誰もが憧憬せざるを得ない軍師の鏡だ。細い四肢に痛々しいほどの自己犠牲を刻印し、凛と歩むその姿はただただ美しい。

豊臣様が天下を掌握したとして、その後半兵衛様は一体なにを思うのだろうか。恐らく、私はもうその答えを知ってしまっている。震える唇で半兵衛様と名を呼ぶと、彼は一点の曇りもない表情で空を仰いだ。


「秀吉が天下を統一する日は近いよ。今に全国で秀吉の名が轟くだろう…そうすれば僕の生涯の望みは果たされる」
「…豊臣様の積年の悲願が叶った後、半兵衛様は、」


聞いてはいけないと分かっていた。こんなこと、自分の首を絞めるだけだと分かっていたのに。ひらひらと散って行く花弁雪のように笑む半兵衛様が悲愴すぎて、私は思わず泣きそうになった。唇を強く噛む。乾燥したそれは薄い血の味がした。


「僕の命はそう永くないんだ。本当のところ、秀吉の天下統一まで生きられるかどうかすらも怪しいところだよ」
「半兵衛様」
「これからは大詰めだからね、僕も秀吉も呑気に休んではいられない」
「半兵衛様、やめてください」
「君とこうして話が出来るのもきっとこれが、」
「半兵衛様!」


きいん。静謐だけが膜を張っていたこの場所に、風情の欠片も感じられない悲痛な声が響く。言霊の力は偉大だ。声に出すだけで、その事柄がいつか現実になってしまうような錯覚に陥る。だからこそ私は半兵衛様の吐き出す現実から目を背けたかった。耳を塞ぐ為に彼の言葉を掻き消した。若さは時に暴力になりうる。

簪から垂れる鈴が風に揺れ、消え入りそうなか細い音色を奏でた。紫の地に銀色の装飾が施された立派な簪は、確かに半兵衛様から頂いた物だ。可憐な少女ではなく艶やかな女性になりたいと懇願した私は、いつだって無理に背伸びをして大人ぶっている。本当は笑えてしまうくらいに幼稚なのに。溜飲が下がらぬといった私の面もちを気遣い、半兵衛様は困ったように微笑んだ。


「そんな顔しないでくれ。僕はいつだって君の傍にいるから」
「そんな世迷い事、ただの詭弁です!」


母の言葉が蘇る。死後も現世に想いが生きるだなんて都合の良い空論だ。なぜ死を享受しなければならないのか。私は走る感情に身を任せ、懐から小太刀を取り出す。そしてそれを自分の首筋に当て、握る掌に力を込めた。刀身は凍える冷気を纏っていて、身体がぶるりと震えた。


「僕より先に死ぬ気かい」
「だって怖いから…!魂だけが永遠に寄り添うことなぞ絶対にありません。もう二度と半兵衛様の隣に立てないのならば私は死んでしまいたい!」


ぐりい。生唾を飲み込んでから更に小太刀を首に押し付けた。生温かい液体が鎖骨を通り過ぎる感覚を覚える。半兵衛様は眉一つ動かさず、じいっと私を見つめていた。否定も賞賛もせず、ただただ私の瞳の色を窺っている。傷の痛みなぞ感じない。感じるのは心のいたみだけだ。


「何故…何故止めてくださらないのですか…!」
「僕は全てを享受するつもりだよ。死すらも否定するつもりはない」


半兵衛様は緩慢とした動作で私の腕を掴み、悠々と小太刀を奪取した。なんとも謂えぬ美しい所作で。
刀身の切っ先には微量の血が滴り、足下の真白い積雪に赤い斑点が次々に浮かび上がる。痛々しい生命の悲鳴であった。


「これが君の選択した道なら僕は決して反対しない。君は僕の中に在り続けるだろう」
「ですからそのような詭弁はっ…」
「詭弁ではないよ、それに感情論でもない。魂の在り方はそれを思う人間次第で幾らでも変わるものさ」


半兵衛様は小太刀を小さく振るい血を霧散させ、輝く銀色の刃を私に差し出した。悴む指でそれを受け取ると、彼は満足気に目を細めた。元々、私には自害する勇気なぞない。大切なひとが消えてしまう恐怖に怯え、感情に身を任せることしかできない小娘なのだ。小太刀を返されても自ら命を断つことはしない。そのことを半兵衛様は熟知していた。彼はどこまでも才があり、どこまでも優しいひとだ。泣きたくなるくらいに。もし、本当に想う気持ちに勝るものが一つもないのならば。


垂り雪が勢いよく枝から滑り落ちる。見渡す限り一面が銀世界。その日は柔らかな雪が降っていた。