三月の空気は柔らかいようで、じいんと身体の末端に染み渡る。
どうしてこんなに帰りが遅くなってしまったのかわからない。する必要のないロッカーの掃除をしたりクラスの離れた友達と話をしていたら思っていたより外が暗くなっていた。卒業式が近くなり、中学での生活との別れが名残惜しくなった私は何かと理由をつけてあと少しあと少しとぐずぐずしていたのだった。

「………あれ、どないしてんこないな時間まで」

しかしいよいよすることが思い浮かばなくなり昇降口でのろのろと靴を履き替えていた私は、不意に背後から声をかけられた。聞き覚えのあるテノールにゆっくり瞬きしてから振り向く。

「…志摩くん」

私に名前を呼ばれた志摩廉造くんは眼をゆるりと細めた。下がった目尻が優しげなかたちを作り出す。片手に薄い鞄、もう一方にスニーカーを摘まんだ姿勢で佇む志摩くんと真っ直ぐ向き合うと自然と見上げる格好となった。

「志摩くんこそ今帰りなん?」
「え、あ、俺は………いやその、坊が高校受かったから精入れて勉強せな言うから」

定型通りの質問を返したにも関わらず志摩くんはおたおたと慌て出す。坊、つまり勝呂くんはまるで仁王像のように怒ると聞いている。いつも一緒にいる筈の志摩くんがすべきことを怠ったのだとしたら、勝呂くんの反応は容易に想像出来た。自業自得とはいえ志摩くんの目線が泳ぎ身振り手振りが増えるのも仕方ない。乾いた笑い声を上げる様子に私もつられて可笑しくなった。何だ、案外普通に話せるじゃんと思いながら。
帰る、と言った私に志摩くんは「送る」と申し出てくれた。志摩くんとは帰り道は反対方向ではなかったか。やんわり断り靴の踵で地面をとんと叩くと、
「かわええ女の子が一人歩きしたらあかんえ?」
とゆったりした声が返ってきた。とうに夜の色に染め上げられている空。スニーカーの爪先を鳴らす志摩くんにかなり長いこと迷った結果頭を下げる。直後の満面の笑みに思いがけず心臓が跳ねた。「志摩くんが送り狼になるなんてことはないんよね」なんて軽口を叩くことは出来なかった。

志摩くんには二年の時に告白された。校舎と校舎を結ぶ渡り廊下でのことだったと記憶している。クラスが同じだったため会話を交わしたことはあったものの志摩廉造の女子好きは異常だとか何組の誰々に言い寄っては手酷い扱いを受けていたとか散々な噂を聞いていたから、私のことも手当り次第声をかけているうちの一人なんだろうなあと思っていた。どうせ私は志摩くんの一番ではない、私が何と返事しようと明日にはまた別の女の子に話しかけるのだろうと考えると悲しくて悔しくて、苦しかった。そして、
「───その冗談、何人の子に言ってるの?」
と問うた時の志摩くんの呆けた顔を気にも留めなかった程、あの時の私は幼かったのだった。自分が志摩くんを意識していると気づいたのは、それから程なくしてだった。
どうしてもっと早く自分の気持ちに気付けなかったんだろうと悔いてももう遅い。どうしてすぐに酷いことを言ったと謝らなかったんだろうという思いは尚更のこと。あの日以来志摩くんが私に話しかけることはなく、進級に伴いクラスも離れ、疎遠になった。一年以上かけて漸くひりつく痛みが和らいできた頃だったのに、最近になって胸の辺りがまた騒ぎ出す。「志摩くんが東京の高校に進学するらしい」と誰かが話していたのを聞いてからだった。

校舎の外に出ると、きんと冷えた空気に肩が竦んだ。眩い星と見まごう飛行機の明かり。じわじわ体温が奪われていく感覚に、コートを着てこなかったのは間違いだったと悟った。さっぶうう、という声が隣から聞こえてくる。校門を潜り迷うことなく歩く志摩くんには私の家の方向を知っている理由や高校のことを尋ねたいのに、余りの寒さに喉が凍りついたかのように動かない。

「もう卒業やな」
「………そやね」
「卒業旅行とか行くん?」
「…ん、仲良い子達と大阪の遊園地行こかって」
「そか、ええな」
「………」

ひたひたと二人分の足音が辺りに響く。沈黙は心を摩耗させた。会話をしなくなってからの、クラスが別々になってからの志摩くんを知りたくて、何か喋らないとこの漆黒に押し潰されそうで。志摩くんだってこんな重たい空気は嫌に決まっている。それでも自分から口を開こうとすると、どうしても去年の出来事に行き着いてしまうのだった。私の中のかさぶたを剥がすことが、志摩くんの傷を抉るだろうことが怖い。この期に及んで志摩くんに悪い印象を抱かれたくない愚かな私がいた。まだ私は、志摩くんに焦がれている。早過ぎも遅過ぎもしない足取りがもどかしくて泣きたくなる。
細い路地がいくつも伸びる住宅街はすれ違う人も僅かしかいない。夜の天蓋に覆われた私達は容赦なく寒さに晒される。感覚がなくなりかけている両手にはあ、と息を吹きかけると志摩くんが立ち止まった。外灯の下、一歩遅れて足を止めた私は志摩くんの名を呼ぶ。

「…あー…」
「?」
「………えっと、だからその、ほら、な?」

志摩くんは学校で言葉を交わした時のようにあたふたしだした。四方を忙しなく見やり困ったように眉尻を下げる。何か不測の事態が起きたわけでもなさそうだし、突然の挙動に私は首を軽く捻る。そろそろ動かないと足先から凍ってしまいそうだという程間が空いてから、志摩くんがばつの悪そうな顔で私を真っ直ぐ見る。絶えず吐き出されていた白い吐息が途切れた。志摩くんの手が、私の冷たい手を掴んでいた。

志摩くんの手はすっかり赤くなっていた。かじかむ指先が関節の骨ばった部分を撫でていき、包み込むように柔い力で握られる。呼吸が止まりそうになった。ぐらりと視界が揺れる。何人もの女の子を時に追いかけ、時に並んで歩く志摩くんの後ろ姿を見てきたけど、その子達とはただの一度も手を繋いで歩いていなかったことを知っている。軽々しくこんなことをする人ではない。あんなことを言ったのに、それでも尚。

「…何や、こないな風にすんの初めてやな」

空いた手を制服のポケットに入れながら志摩くんは伏し目がちにはにかんだ。じわじわと温まる掌。志摩くんと私の温度が溶け合う。
志摩くんが私達の関係に未来を求めているわけではないことは、触れる直前の躊躇いを含んだ表情から想像がついた。私も胸にしこりが残っている限り、溢れて仕様のない気持ちを告げることは出来ない。意気地がないことぐらいわかっている。しかし、京都の狭い町の中で世界が完結している私にとって東京は果てしなく遠い地だった。思いをいくら籠の中で大事に温めたとしても、きっと孵ることなく塵となる。
だから、今だけ。
このまま離ればなれになれば志摩くんの穏やかな眼差しも、屈託ない笑顔も、群雲のようにふわふわした軽い声も、その声が紡いだ「すき」の言葉も、いつか記憶が色褪せてしまうのだろう。志摩くんだって、私のことを忘れてしまうかもしれない。髪の色も、輪郭も、一緒にどんな話をしたかも、学校から私の家までの道だって。
それでも構わないから、今だけ、この手の冷たいようで熱い温度だけは、永遠のものであってほしい。
くっと手に力をこめた私は志摩くんの顔色を窺えず俯く。素直になれた唯一の瞬間。数拍置き志摩くんが私の手を握る力も次第に確かなものになる。相変わらず会話はない。向かい合い立ち尽くす私達にしんしんと冷たい空気が降り注ぐ。無数の星が優しく瞬く空。手を離すタイミングを測れない私達は、ずっとずうっとそうしていた。