血腥い。鼻がもげそうになる臭いに眉を顰めながら私は食い入るようにその光景を目に焼き付けた。言葉を発そうにも蹴られた咽喉から零れる声はただの濁音のみ。喋ろうと無理に声帯を動かせばすかさず咽喉に渇いたような痛みが走った。首に手を当てて痛む咽喉を押さえつける。七松先輩。確かにそう呼んだ筈なのに彼の耳には全く届かない。嗄れた声ならば尚更の事。痛む咽喉の他にも怪我した左足を庇いながら、一歩、また一歩と彼に近寄った。
 ほんの一瞬の隙。しかし、それは確実に致命的な数秒だった。敵忍に気付かず一弾指の不意をつかれた。迂闊だった。そう自分の失敗を叱咤するよりも早く先制を受けた。まずは動きを封じるよう足を、その次に声を上げぬよう咽喉を、じりじりと獲物を嬲っていく攻撃だった。鳥の羽を一枚一枚毟るような、蜘蛛の脚を一本一本千切るような、卑陋な遣り口。このまま死ぬのだろうか。そんな考えすら過った。瞬間。七松先輩が現れたのだ。彼は迷うことなく持っていた苦無を敵の頸筋目がけ突き立てた。まるでそれは獣が標的の急所へ牙を立て噛み付くように。咄嗟の襲撃に身構えることすら出来なかった敵の上空に真っ赤な飛沫が散った。
 先輩は既に動かなくなったそれを何度も何度も苦無で刺した後、それでは足りないといった様子で今度は拳を叩き落していた。バコン、バコン。その鈍く低い音はついに骨を砕く音へと変わった。木の幹を踏みつけたような音に皮膚が粟立つ。全身が震えた。先輩の手に持つそれはもう人と呼ぶには言い難い形貌へと変わっていた。怖い。怖い。怖い。今目の前にいる人は果たして本当に私の知る七松小平太なのだろうか。もしかしたら、彼に似たまた別の生き物かもしれない。
 だとしたら彼は一体誰?
 小刻みに繰り返している息をはっと止め、更に彼へと近寄る。息を殺したのは本能的なもの。全ての神経が鋭く研ぎ澄まされている今の彼ならば、どんなに小さな音さえも過敏なまでに拾い取る気がした。どうしてこんなにも怯えているの?彼は本当に私の知る七松小平太なの?酷く不可解で馬鹿げた疑問だとは思った。だけど、それ程までに信じ難い状況なのだ。
 あと、一間、五尺、四尺、三尺…

「!」

 ぴくり、不意に彼の肩が動いた。驚きで小さく呼吸が漏れた。ダメだ。きっと彼なら気づく。案の定、彼はそれから拳を下ろすとこちらを振り返った。 その顔は私のよく知る七松小平太以外の何者でもなかった。
 先輩の瞳が見開かれる。
 今にも泣き出しそうな表情を浮かべた先輩は、手にしていたそれなどもうただの塵だとばかりに適当に放り投げ、捨てた。さっと立ち上がった先輩が私の両肩を掴む。冷たい。土で汚れた手ではなく血で汚れた手に眩暈がした。
 こんな手など知らない。
 先輩は声を震わせながら何度も私の名前を読んだ。いつの間にか背中に回された腕がキツく私を抱き締める。私もそれに応えるように先輩の大きくて逞しい背中に腕を伸ばした。彼は怯えている小さな子供みたいに震え続けた。
 先輩、大丈夫ですよ。
 大丈夫だから。
 あやすように背中を擦れば先輩は栓を切ったかのように嗚咽を上げた。その頃には先程まで先輩に抱いていた恐怖心など寸分たりともなくなっていた。
 それと同時に一種の疑惑が生まれた。
 こんなにも綺麗な涙を流すひとが制御しきれない過剰な憤懣を孕むとあれ程までに残酷な事が出来るのか、と。ほんの少し震えた。
 七松先輩。
 声には出なかったが、先輩の名前をゆっくり紡ぐと、私は背に回っていた彼の片手を掴んだ。血でべっとり汚れた手。それを掴むと乾燥した部分の血がぱりっと剥がれた。ああ、やっぱりこの人には血なんか似合わない。いつも泥に塗れていた彼の手を思い出して胸が苦しくなった。私の頭を豪快でがさつにそれでいて優しく撫でてくれた手は、穢れていないあの清らかな手は、もうここにはない。なくなってしまった。それなのに彼はあの日と変わらず、大切な何かが傷つく度に暖かくて美しい涙を流すのだ。
 先輩、聞こえますか?
 先輩の手を胸に押し当てる。ちょうど掌が心臓を捕らえる位置に置けば、どくん、と心臓が高鳴り、その鼓動を先輩へと伝えた。

「いきてます」

 言葉にならないような擦れた声だった。それでも聞き取ってくれたのだろう。先輩はぐっと唇を噛んだ、その数秒後、涙を乱暴に拭うと不器用にくしゃっと笑ってみせた。その笑顔に目頭が熱くなった。泣くな。ほら、笑うんだ。痛みで顔が引きつりそうになる。それでも奥歯を噛み締め痛みを堪えて懸命に笑顔を作った。少しでも先輩に安心してほしくて。
 大丈夫。
 その言葉は彼に言い聞かせているのか、自分に言い聞かせているのか分からなかった。

「お願い、」

 先輩の震える手が縋るように私の頬を覆う。

「独りにしないで」

 その一言に身体中の血が温度を失った。ああ、どうすれば。どうすれば、私はこの約束を守れるのだろうか?確証も持てないのに今ここで契ってしまうことは一種の裏切りになると踏んだ私は沈黙を選んだ。否、選ばざるを得なかった。もしかしたら明日死ぬかもしれない。明後日、一週間後、一月後、一年後…。そう遠くない未来。いつかは。必ず。残酷ね。どうやっても纏わりつく死を拭うことができない。生きている限り。どう足掻いても無理だった。死なずに彼の傍に居続けることが。
 私には出来ない。

「      」

 彼の獣染みた掌に手を添え目蓋を下ろすと、今ばかりは瞼の裏側に潜む黒い影を頭の中で殺した。