元就さまの私室で頂く二人きりの夕餉は、いつでも重苦しい静寂の中で静々と行われる。


膳を摘む私の箸の動きが芳しく無い事が、どうやら相手にも伝わっていたらしい。
秋口の心地良い涼しさに似合わず、指先は冷え切って冷たい。

眼前に出された見た目は質素だが、充分に贅を凝らした膳を一瞥して、私は仏頂面のまま小さく鼻で笑った。

隅っこの漬け物だけをぱりぱりと無言で喰う私に苛ついたのか、御前にいらっしゃる元就さまは細い眉をひくりと釣り上げて、端正な眉間に皺を寄せる。

あら、何時も冷静沈着なお顔が台無しだわ。
なんてぼんやり思っていると、舌打ち混じりに口が開かれた。



「折角貴様の為に膳を用意してやったのだ、もっと美味そうに食う事すら出来ぬのか。」

「それは心外です。私は頼んでないです、こんな素晴らしい膳を毎回毎回。その気持ちだけでわたくしめは箸が進みません。」

「屁理屈は良い。さっさと食わぬか。」



皮肉混じりに返せば、益々顔の皺が深くなる。日暮れ前の薄黄昏が部屋の隅を暗く色付けた。
部屋行灯の光と羽目殺しの障子窓越しに差す日が交差して、元就さまの横顔にぼんやりとした影を落としている。



元就さまは五日に一度か、それより少し頻繁に、私を私室に(半ば強引に)招いてこうして二人きりの食事を用意する。
最初唐突に呼ばれて目の前へ膳を置かれた時もぽかんと呆けてしまったが、寧ろ私はそれが元就さまの一時の酔狂では無かった事が訝しくて仕方無かった。



「何を考えていらっしゃるんです。」

「貴様の知る所の無い事だ。言ってどうなる。」

「私の事なのですから関係無いことは無いと思うのですが……。」


箸を嫌々動かしながら問うても、何度も使い古された返事が返って来た。いつもこれだ。真意を訊きたくても、関係無いと寸断される。




私は厩に居を持つ様な、汚いただ一介の馬取りでしかないのに。所詮は家畜の世話番である。

そして元就さまの部屋に呼ばれてから、私の世話する駒が元就さまのものに成り代わったのは言う迄も無い。


ただそれ程彼が私に構う理由が、どうしても思いつかないのだ。



「……元就さま、」

「何だ。」

「楽しいですか?毎回毎回こんな仏頂面の娘が夕餉の伴で。」

「機の利いた事一つ言えぬ、出来ぬ小娘一人と対面して我が少しでも愉快に成ると思って居るなら貴様は余程のうつけか。」

「聞いた私が間抜けでした。」



ふん、と馬鹿にした様に一瞥されて、ごもっともと言わんばかりに息を吐いてしまった。
ちっ、と舌打ちが聞こえる。




「小娘は小娘らしく我が与えた物に恭順して喜んで居れば良い。」




聞こえた瞬間、私は視界を縫う様にして顔を上げた。自分でも驚く程に冷ややかな視線をしていたに相違無い。

此方を見据えていた元就さまの細い眉と眸はぴくりとも動かなかった。



私は其れが非常に白々しいと思った。私を一介の小娘呼ばわりして置きながら、何故こんな度を越えた扱いをする。
彼が取り入る気すら起きない捨て駒の一枠に過ぎないのに、今の言葉もそうだ。恭順だって?元より私は恭順を越えて服従しているつもりだ。私達の安芸を、中国を治める御方に服従せずして何に服従すると言うのだ。

爪先の感覚が無くなった。


眼前の元就さまは私より何倍も賢いのだから、既に私が畏れ敬い服従している事は重々承知なのだろう。



つまり彼が今望んでいる恭順は。



私はそれ以降の思考をばっさりと止めて、冷え切った自分の指先に力を込めた。冷たい。冷たすぎて血まで凍ったようだった。
認めてはいけない。臣下として、民草として。

だって元就さまには、



「室さまがいらっしゃるのに。」



ぼつり、雨粒のように落とした言葉を、元就さまは聞き逃さなかった。


「何故其処で我の側室が貴様の口から出る。」


あからさまに不機嫌になった口振りを隠そうともせず、元就さまは淡々と仰った。

いつの間にか暮色はいよいよ以て西へ沈んで行く。部屋の隅が仄暗く埋もれる。



「本来ならこういう事は室さまとされるべきでしょう。私なんかに構うくらいなら、」




弄ぶくらいならいっそ見せつけてくれ。


声帯まで震わせ掛かった言葉に枷をかけて、言葉尻を不自然に呑み込んだ。

馬飼い程度が、侍女にも満たない身分の私が、なんて出過ぎた本音なのだろう。
本当は室さまの輿入れの前の前から既に諦めなど、報われることの無いことなど承知していたのだから。


正室も居ないのに娶った女が側室で、彼には誰か懸想する方でも居るのだろうかと要らぬ世話を焼く。政略結婚でも、他の女を正室にしたく無い程に。
事実、嫁いで来た室さまと元就さまの関係は冷え切った物だと手に取る様に解るのだから。


「それで、」

「は、い。」


つい、と真っ直ぐに此方を見据えて来る元就さまに、心臓がどくんと跳ねる。背筋が凍えた様に固く、重い。
箸を持つ手すら上がらない。




「あの女を構い、それを見せつけろと。」



諦めさせろと、そう言いたいのか。

くっ、と喉奥で元就さまは笑われた。二の句を告げない私は、目を大きく見開いたまま、ぽとりと箸を取り落とす。ころころと畳の上を滑るそれは、行灯の光を受けて艶やかに照っているだろう。



「痴れた小娘よ。」

「っ、あ。」

「貴様如きが我に指図するか。」




ぎしりと畳を歪ませて、元就さまが私の隣へ腰を下ろす。射殺す程の眼光を強かに受けて、私の体は蛙の様に竦み上がる。
心臓は呼吸を止め静まり返り、凍てついた私の腕がゆっくりと元就さまの繊手に掬われる間も、血は急速に温度を失って行く。

ああ、こんな事、在ってはならない。絶対にいけないのに。私が、私如きが、





「我はそなたを構いあの女に見せ付けておるのよ。」





その艶めいた闇の双眸に私の姿がふわりと映れば、今まで精一杯張って居た境界の糸がぶつりと切れる音が聞こえる。


このまま私の体が氷像になってしまえば良い。そう思うほどに体は冷たく、芯まで震えている。
ただそれを、自分の頬と掴まれた右手の熱が許さなかった。