空を見上げれば海鳥たちが元気よく鳴いている。環境だけみればどこかのリゾート地のようなここは、噂通り天国のような場だと評しても過言ではない。
――ただし、そこには“死”という意味合いが含まれているけどな!
おれはため息をついて、ヤシの木陰に座り込んだ。気力なく海を眺めてみるが、恨めしいほど綺麗に青く澄んでいる。遭難して島にたどり着いてからもう三日が経過していた。
エースの冒険を綴っていたあの小説の内容はもうほとんど覚えていない。かろうじて思い出せたのは、シクシスという島の名前と、そこに漂着した“デュース”がエースに出会い、一悶着を得て船出を共にしたということだけだ。
いつ遭難したか、どうやってあの小型船『ストライカー』を作成したかなんて覚えていない。そもそも、それらが描写されていたのかすら分からない。
おれはノリと勘で時期を選び、あの家を飛び出して海へと旅立った。その選択が正しかったかどうかなんて誰にも分からないことが、今になってひたすらに恐ろしい。
ほんとうにこれで良かったんだろうか。そんな不安がこの三日間ずっとおれを苛んでいた。
「野垂れ死に、かぁ」
ここでエースに出逢えなければそうなるのだろう。隣で転がっている白骨死体がその現実をひしひしとおれに伝えてきていた。
薄っすらとした悪い予感は、視覚化された死のせいで危機感へと変化する。近い将来、こいつの仲間になる自分の姿を想像してさらに落ち込んでしまった。
「おれはバカだ……」
前々から無人島にたどり着くと分かっていたなら、せめてサバイバル技術でも磨くべきだった。後悔先に立たずとはよく言ったものだ。
記憶を思い出してから数年間。あの家を出るために努力を重ねて計画を立てて、そのくせ最後は勢いだけで飛び出した。医学と技術力はそれなりに身につけたし、多少の備えもしていたが、逆に言えばそれだけだ。自分の計画性のなさと愚かさにげんなりして、ヤシの木にもたれかかって目を閉じた。
このまま死んだらマジで犬死にだな。誰も救えないどころか、決められた筋道すら辿れないなんて。何のためにここまでやってきたんだか。
「墓でも建ててやろうぜ。おれも手伝うからよ」
「墓か……。それもそうだな……」
バカだけに墓ってか。ははは。誰だか知らねぇが、この極限状況にしてはユーモアのセンスがある。ちょっとだけ笑えて落ち込んだ気持ちが浮上した。
そうだよな。名も知らぬ死体とはいえ、さすがに墓くらいは建ててやらなきゃ可哀想だもんな。
「……って誰だ!?」
ハッと慌てて目を開いて身体を起こし、聞き慣れない声がした方を向く。
すると――。
砂を踏む軽い音。ツヤツヤと光る黒いブーツ。おれの目の前に、ひとりの男が立っていた。眩く輝く海を背にしたそいつの姿は、どこか夢から出てきたかのようで、不思議と現実味に欠けていた。いや、おれにとってその男はこれまでずっと非現実的な存在だったから、そう感じたのかもしれない。
そして、目が合うなりお辞儀をして丁寧な挨拶をしてきたそいつは、まさしく太陽のような明るい笑みを浮かべた。
「おれの名はエース。浜辺を散策しているところだ。よろしく」
ポートガス・D・エース。
またの名を、ゴール・D・エース。
おれがずっと逢うのを待ち望んでいた男であり、近い将来、その命を救う予定の男。
これが、その出逢いだった。
「あ、ああ……よろしく」
おれは呆然としながら挨拶を返した。出会う必要があったし、実際に出会えると信じて行動したとはいえ、実際にそうなると驚きの感情が湧いてくる。なにしろ、ついさっきまで出会える保証や確信がねぇわって不安になって落ち込んでいたからな。
会いたかったけど、ほんとうに会えるもんなんだな。まじで良かった! これで死ななくて済む!
おれの隣に腰掛けたエースは、じっとこちらの目を見てゆっくりと口を開いた。
「突然ですまねェが、船が壊れちまったんだ。助けてくれ」
「こんな状態のおれを見て、よく言えるな……」
ボロボロの服にやつれた顔。明らかに遭難したのが丸分かりの見た目をしているおれに対して、よくもまぁ人助けを求められるな、こいつ。そういう大らかさというか人懐こさがあるのは知ってたけどさ。
おれは着ているコートを相手に見せびらかすようにバサバサと振った。振ったところでコートから零れ落ちるのは砂粒と埃だけ。コートの下はベルトの通ったズボン一着。文字通りの素寒貧だ。
「悪ぃが、見ての通りおれもお前と同じ遭難者だ。この前の嵐に巻き込まれて、ほとんどの荷物ごと船は海の底に行っちまった。今ごろ、主人抜きで深海への冒険に繰り出していることだろうよ」
あの船にはそれなりに食料も医療道具も積んでいたのだが、あいにく全ておじゃんだ。こうなることが分かっていたら、もう少し手荷物を増やすなり対策できたものを。ベルトに括り付けている僅かな保存食と水の入った袋だけが唯一の所持品だった。
海の下に沈んでいった物たちのことを思うと、自然と肩が落ち込んでしまう。ワンチャンこの島に漂着されててくれねぇかな……。
「そうか……。まァ、お互い災難だったな」
おれの言葉を受けたエースは、にかりと明るく笑った。こんな状況でも前向きな態度でいるのは、なるほど、たしかに大物らしい。
分かってはいたけど、実際にその肝の座り具合を目の当たりにすると感心してしまう。
「まったくだ。だから、お前の助けにはなれねぇよ。救援じゃなくてガッカリしただろうけど」
「いや、それは期待してなかったからいい。そうじゃなくて、協力を頼みてェんだ」
「協力?」
おれが首を傾げると、エースは頷いて遠くの砂浜を指差した。砂浜の向こうで南国を感じさせる木々が鬱蒼と生い茂っているのがよく見える。
「あっちでいかだを造っているんだが、どうにも上手くいかねェ。船の組み立てを手伝っちゃくれねェか」
「へぇ、こんな辺鄙なところでいかだを造れるのか」
「ロープとか布切れが砂浜に落ちてたから、割となんとかなってるぜ。それで二、三個ほど造ってみたんだが、どれも波に乗っている途中でバラけちまった。原因は分からねェが、どうにもこれじゃあダメらしい」
軽い口調で語っているが、こちらを見る目は真剣だった。こんな絶望しかない状況でも、何が何でも足掻いてやろうという強い意志がひしひしと伝わってきた。
「どうしようか悩んでいたら、ちょうどお前を見つけたんだ。おれひとりじゃダメだったが、ふたりで協力すれば、ここから出られるような船が造れるかもしれねェ」
こんなところで誰かと出会えるなんて滅多にないだろ。そう言い切ったエースは、再び「協力しようぜ」と言い、こちらに嬉しそうに笑いかけてきた。
「…………」
エースはまだ名前も知らないおれのことを島からの脱出のために誘ってくれている。これが原作通りの出来事かどうかは分からないが、こちらに向けられた、こいつの嬉しそうな表情がなんだかやけに眩しく感じられた。
こんな危機的状況で、下手したら裏切られるかもしれないのに。脱出用の船を造るなんていう、命の掛かった話を持ちかけてきやがってさ。迂闊にも程があるだろ。
エースは強いから他人に襲われたところで負けはしないだろうけど、それでも、こんなところで見も知らぬ他人に背中を預けようとするなんて馬鹿だ。
そんな馬鹿なことを、エースはこの“おれ”に対してやろうとしている。
――これがどれほど嬉しいことかなんて、きっと誰にも分からないんだろうな。
にやつこうとする口元をなんとか抑え、わざと呆れたように肩をすくめた。
「誘ってくれたのはありがたいが、おれたちで上手くいく保証はどこにもねぇぞ。時間と資材を無駄に使うだけかもしれない」
「そんなの、やってみないと分からねェだろ」
どうやら、おれの声色で意図が伝わってしまったらしい。
帽子の下からキラキラと期待に満ちた目がこちらに向けられる。おれはその期待に応えるように深く頷いた。
「――しょうがねぇな。できる限りのことはやってやるよ」
「ああ! よろしくな!」
エースは嬉々とした笑みを浮かべ、まだ年若く骨ばった手をこちらに差し出してきた。男らしい、そこかしこに傷痕のついた手だった。おれは片手を差し出し、できるだけその手を強く握りしめた。
「こちらこそ。これからよろしく頼む」
きっと、これからこいつとは長い付き合いになるだろう。そんな想いを込めてしっかりと握手を交わす。
エースはおれが手を強く握ったのが分かると「おおっ」と楽しげに笑い、同じくらい、いや、だいぶ強めに握り返してきた。山育ちに容赦なく握られるとさすがに痛い。でも、こういうノリがいいところは気が合うかもな。
そんなことを考えていると、こちらも愉快な気持ちになってきて、はははと久々におれの口から笑い声が漏れ出た。
「そういや、まだ名前を聞いてなかったな」
そして、ふたりで船を造るための作業場に向かっている最中。ふとエースが声を上げた。たしかに、エースに名乗られたが、おれは名乗り返していなかった。意図あってのものだったが、さすがに訊かれたら無視できない。
おれは生家のことを思い出し――目元に着けているマスクに触れた。
「名前は……ねぇな。顔と一緒に故郷に捨ててきた」
「えー、なんかないのか? さすがに名無しじゃ呼びにくいぞ」
「じゃあ、好きに呼んでくれ」
エースは悩ましげな唸り声を上げた。そりゃあ、いきなり名付けろって言われても困るよな。
「故郷に捨てたって言ったよな。訳アリなのか」
「たいしたことじゃねぇよ。ただ、実家と折り合いが悪くてな。せっかく海に出て冒険してるってのに、うっかり見つかって騒がれたら面倒だから捨てただけだ」
原作の“デュース”がどんな理由で名前と顔を伏せていたのかはよく覚えていない。おれとしては、島でそれなりに名の知られている実家と縁を切りたかったから、船出と共に捨てることに決めたのだ。
どうせ、名前も見た目もいつまで経っても慣れなかったしな。かといって、前世の俺のことも詳しく思い出せないんだから、いっそのことまっさらにしてしまったほうがマシだった。
「適当に自分で名前を付けても良かったんだが、センスがなくてな」
偽名はいろいろ考えていたのだが、そのうちどうでもよくなって投げてしまった。エースに名前を貰えるんなら、自分で付けても無駄だなって思ったし。
「ふぅん……」
エースは帽子のつばを弄りながら気のない返事をした。今この場で名前が思いつく様子はなさそうだ。
……えっ。もしかしてこれ、おれは名無しのままになるのか? さっき熱い握手を交わした仲なんだが、ちょっと幸先が悪すぎないか?
「まぁ、なんか思いついたら適当に呼んでくれ。よほど変なやつじゃなきゃ構わねぇからよ」
おれは興味がなさそうに言い切った。乾いた口内で無理やり唾液を飲みこむ。
もともと、おれの名前が“デュース”になることは期待していなかった。なにしろ、おれは成り代わった人間だ。”俺“という記憶を持つ、根本が違う他人なのだから、同じ
きっと、違う名前を与えられること海に出る前から考えていた。どんな名前を与えられようと、エースの船に乗って救うために頑張るっていう目標は変わらないしな。
とまぁ、そうやって格好つけたことを言っているが、現実は名前が違うどころか名無しの危機なんだが。
……だめだな。下手に考えると落ち込む。さっさと船造りに取り掛かって気を紛らわせたい。
「……“デュース”」
「は?」
いつの間に立ち止まっていたのか、エースはおれの後ろにいた。おれが振り返ると、エースはニヤリと笑みを浮かべた。
「そうだ、お前はデュースだ! これからお前、そう名乗れよ!」
「……――」
はっ、と息が詰まる。
――いいんだろうか。
そんな言葉が脳裏をよぎる。
――おれが、それを名乗っても本当にいいんだろうか。
――おれは“デュース”じゃないのに。それでもお前はその名前を与えてくれるのか。
気づけば、戸惑うように尋ねる声がおれの口から零れ落ちていた。
「お前、なんで……」
「エースとデュース。ほら、なんか響きが似てるだろ?」
「まぁ……」
エースはあっさりと理由を教えてくれたが、なんで、わざわざ響きを似せようとしたんだろうか。エースの考えがまったく分からなくて困惑する。
唖然としているおれを気にすることなく、エースは言葉を続ける。
「おれたちは、これから島を脱出するために力を合わせる運命共同体ってヤツだ。それなら似ているほうが良いだろ」
あっけらかんとそう言い切って、エースは満足げに頷いた。帽子から伸びた紐が揺れ、首飾りがきらきらと太陽の光を反射する。
「ついでに、その顔を隠しているやつも入れて、マスクド・デュースにしよう。うん、悪くねェな」
運命。運命共同体ときたか。
それはなんて――。
「小っ恥ずかしい言い回しだな。それを言うなら一蓮托生だろ」
「お前、変なところで突っかかってくるなァ。こんなところで出会えたんなら、イチレンタクショーよりも運命のほうがいいだろ」
こいつ、もしかして運命共同体って言葉の意味を間違えて認識しているんだろうか。運命的なズッ友! という意味じゃなくて、これから生きるも死ぬも同じくするって意味なんだが。
さすがにそこまで無知じゃないとは思いたいが、あいにく尋ねられる空気でもなかったので口を噤んだ。
経緯はともあれ、おれは名前を貰えたのだ。
「……運命はともかくとして、名無しよりかはマシか。これからはそう名乗ってやるよ」
ようやく受け入れたおれを見て、エースは嬉しげに笑った。
おれにとって、“デュース”という名前は、エースの相棒の象徴のようなものだった。いわゆるトクベツ枠ってやつだ。
なにしろ
だが、おれたちの間には運命なんてあるわけがない。なにしろ、おれは同じ立ち位置にいるだけの偽物で、この出会いだって筋書きに従っただけだ。別の名前を与えられてこそ相応しいってもんだろ。
そのはずだったのに、どうやらエースにとっては違ったらしい。
エースはおれと出会い、おれと言葉を交わした上で、“マスクド・デュース”という名を与えた。
一見するとふざけているだけの、運命じみたトクベツな名前を、おれたちは運命共同体だからと当たり前のように笑って、おれに差し出してきたんだ。
……本当なら、その名を貰っても断るつもりだった。名前の意図を聞いてみて、そんな変な名前なんていらねぇよと笑い、軽い調子で躱そうと思っていた。
――だけど、まあ。あんなふうに言われちゃあ、しょうがねぇよな。
どうせ、どんな名前を得たところで偽名には変わりないんだ。それなら、おれがそれを名乗って良いのかもしれない。
そこに込められた意味が、今ここにいるエースとおれの関係性を表しているのならば。
たとえ綴られる文字が同じでも、おれがその違いを知っているのならば。
どんなに紛い物で偽物だとしても、自信を持って
おれはエースに背を向けて空を見上げた。そこには太陽が燦燦と輝き、雲一つない青空が広がっていた。
まったく、眩しすぎて視界が滲んで嫌になる。
「デュース……いい名前だ」
しみじみと呟いたおれの髪を、潮風が吹いて静かに揺らす。
相変わらず見慣れない髪色が視界に入ったものの、不思議といつもよりもそれに違和感を抱かなかった。
それからさらに数日後。おれたちはようやく完成させた小型船『ストライカー』に乗って、海上を勢いよく進んでいた。
「――海賊王を、超えてみせる!」
波をかき分け、スピードを上げた船が宙へと飛ぶ。舞い散った波飛沫が、陽光を受けてキラキラと輝く。
悪魔の実の力を使って『ストライカー』を繰り、声高に決意の言葉を述べるエース。その無邪気な笑みを傍で見上げながら、おれは決意を新たにした。
――おれは、こいつのために生きて、生き抜いて、死のう。
自分の正体が分かってからのおれは、エースに出会えることを望んで、そのために頑張ってきた。
それがおれに与えられた道だからと、自分にずっと唱え続けていた。
本当は、もうずっと前から頭がおかしくなりそうだった。
訳もわからず他人の身体を使う羽目になって、いままでの人生が全て無駄になった。
”俺”の記憶は残っているくせに、そのときの名前や見た目は全く思い出せず。そのくせ、鏡に映るおれの姿を見るたびにどうしようもない違和感に襲われていた。
この悪夢じみた現実から逃げ出したいと何度思ったことか。「死んだら元の世界に戻れるかも」と考えたこともある。それでも、失敗してまた別の人生が始まる可能性を思うと、恐ろしくて実行には移せなかった。
だから、せめておれにとって納得のいくゴールを目標にして、クソみたいな環境をなんとか生き抜こうと足掻いてきた。
『あの家でクソみたいな扱いを受け続けるくらいなら、筋書きに従って生きたほうがまだマシ』
以前、そう思ったのは本心だ。
死ぬことができなくて、どこにいっても地獄なら、前を向いて自ら選んだ地獄に踏み込んでいくほうが自尊心は保たれる。だからおれは、医学を学び、実家を出て無人島に行くことを――エースの隣に立って生きることを選んだんだ。
だが、結局のところ、地獄は地獄でしかない。
“俺”が“おれ”であるかぎり、本当の自由なんてものはどこにもない。どこかでうっかり命を落とすまで、
だというのに、“
たったそれだけのことが、おれにとってはこの世のどんな出来事よりも嬉しかったんだ。
おれはエースに魂を救われた。だから、この恩を返さなきゃいけない。
これは義理や道理の話じゃない。おれ自身の意思で恩返しをしたいんだ。
エースのために生き抜いて――死の運命を覆す。
あの戦争で、あいつが理不尽な理由で殺されるのを防ぐためなら、この命なんていくらでも使ってやる。
どうせ、おれの人生は一度めちゃくちゃにされて終わってしまったんだ。今の人生はネクストステージというよりも、他人の脚本の上を歩いているようなものだし、望んで得たわけじゃないから愛着もない。極論、失ったところでちっとも惜しくはない。
でも、あいつはちがうだろ。エースの人生は今しかない。終わった人生に続きなんてものがないことは、身をもって嫌というほど知っているんだ。どんなに生きるつもりがなかったとしても、あいつの望むように、一度しかない自分だけの人生を生き抜いてほしい。いつか答えを得た先で、誰にも殺されず、歳をとって寿命を迎えるまで満足に笑って生きててほしい。
たとえ、それがどんな身勝手な
あいつが生きてくれるならば、後悔なんてするわけがない。
空は快晴。目指すは“