翌日、俺が教室を覗くと、そこに彼女はいなかった。
いつも座っているはずの席は空いていて、ひとつも荷物が置かれていない。がらんとしているそこは、にぎわう教室内のなかで異様に浮き立っていて、どこか物寂しそうだった。

誰かを探しているのかと親切にも問いかけてきた生徒をかわし、俺はそっと踵を返した。彼女のいた空間を目にしていると、どうしようもない苦い痛みがじんわりと胸を占める。あのときの彼女の顔を思いだして、その場に座り込みたくなるほど息が詰まる。
俯き気味に足を進めていると、ドン、と誰かと肩がぶつかった。

「おっと、すいません。――おや、仁王くんじゃありませんか」
「……ああ、柳生か」

人にぶつかるだなんて珍しいですね、と柳生は眼鏡を上げながら首を傾げる。その物言いが白々しい響きを持つことに気づく人間は少ないのだろう。
この男は紳士と呼ばれているわりに猫を被るのが上手い。鈍感そうに振る舞うのは日々を安寧に過ごすための処世術であることを、数年間ダブルスを組んでいた俺は知っていた。
どうせ今だって、俺の様子がおかしいのを分かっていて、わざとぶつかってきたに違いない。テニス部のレギュラーの座に就けるほど器用な男が、朝で賑わっているとはいえ、廊下で人にぶつかるわけがないのだ。
俺の反応があまりに元気のないものだったからか、柳生はそのまま言葉を投げかけてきた。

「なにかあったのですか?」
「まあな」
「それは大変ですね。貴方の元気がない様子を見ているのは、友人として心苦しいものです。なにか力になれたら良いのですが」

そう言いながら、柳生は俺の背後をちらりと見た。
彼女の教室からさほど距離は離れていない。
きっと俺があの教室から出てきたことを察したのだろう。

「そういえば話は変わりますが、先日、病院で悠里さんと出会いましたよ」
「へぇ」

なにも話は変わっていない。むしろ、より近づいた。

「なんだか、彼女はいつもより寂しげでしたね。何度もどこか遠くを見つめていましたし。あれはきっと、会いたい人を想っていたのでしょう」
「そーか」

きっと、その人物は幸村なのだろう。
話を聞いているのもおっくうで、こいつを無視して行ってしまおうかと足に力を込めようとした。

「――ああ、それで、彼女から貴方宛てに伝言を預かりましたよ」
「なんじゃと?」

前言撤回だ。思いっきり踏みとどまった。まだ話を続けたい。

「いえ、私にもよく分かりませんでしたが、あれはきっと貴方宛てでしょう。仁王くん、と小さく呟いていましたし」

もったいぶらずにさっさと話してほしい。俺がいら立ちと共に睨みつけると、柳生は穏やかな顔で言葉を紡いだ。

「『わたし、ほんとうはもう知っているんだよ』……彼女はそう言っていました」
「…………」
「何を知っているのかは分かりません。ただ、その会話の前に真実を隠すことについて語っていたので、おそらくは仁王くんの秘密についてなのではないかと――」
「まさか」

昨日、冗談まじりに交わした言葉を思い出す。

――仁王くんにだって、わたしに隠しておきたいひみつの一つや二つ、あるでしょう?

俺の秘密なんて分からないと口をとがらせていた彼女。
分かるはずもない。教えたくもない。だから俺は、誤魔化すようにしか返答できなかった。

その秘密を、彼女は知っていたのか。
好きなひとが彼女自身――悠里であるという真実を、ずっと分かっていたのか。

別れ際の笑顔が脳裏をよぎる。

いつか、大切なひとができるといいねと、彼女は目を細めて微笑んでいた。
俺の秘密を知っていたのならば、あのとき、彼女はなにを考えていたのだろう。どんな気持ちで、その言葉を俺に伝えたのだろう。

――幸村が好きな彼女は、いったい俺のことをどう思っていたのだろう。

あんなにたくさん考えていた、彼女の入院先を探すための計画がぱらぱらと崩れてゆく。
会いたくて仕方がなかったはずなのに、逃げてしまいたくなる心持ちが津波のようにざぶざぶと襲ってくる。

会ってしまえば、訊きたくなる。
しかし、彼女の考えを受け入れる覚悟など、今の俺にはどこにもなかった。



仁王の住むこの街は、高低差が激しい。
海風の強いそこは、駅からほど近い公園だった。
無料で解放されているため、休日には子供たちが遊びにやってきたり、ピクニックを楽しむカップルたちがやってくる。なだらかな丘があるためか、いつもは平日だろうと芝生に寝そべって日向ぼっこをしている人もいるのだが、さすがに冬の早朝の潮風に当たりたがるひとはいないらしい。丘は人気がなく、閑散としていた。

深い理由があってこの丘にやってきたわけではない。
ただ、なんとなく、潮風に吹かれるままに足を運んでいたらここに辿りついただけだった。

「…………」

無心で丘を登る。
急な坂道には慣れていた。くたびれてきたスニーカーで芝を踏みしめ、もくもくと上を目指す。仁王が踏んだところで、この芝は死にやしない。ただ少しだけ折れて、また元気よく育ってゆくのだから。

部活で鍛えていた身体は、疲労を訴えることもなく頂上へと辿りつかせた。
いつのまにか俯いていた顔を上げる。
びゅうびゅうと強い風に目を細めながら見えたのは、辺り一面に咲く名もなき花の畑だった。

仁王が花について詳しくない。名もなき花などと呼んだけれども、雑草のようなこれらにもきちんとした名称があるのだろう。
しかし、そんなものに関心はなかった。ただ、そこに花があるということさえ分かっていればよかった。

昨日のことを、仁王はぼんやりと思い出していた。
それは、彼女の言伝を聞いた数日後の出来事だった。




たまたま部活のない日だった。いつも夜の闇に包まれている帰り道は、あの日のような明るい茜色に染まっていた。
仁王はテニスが好きだった。しかし、自主練習に打ち込むような気力はない性分だった。きっと、部活仲間は休むことなく、ストリートテニスに励むのだろう。駅に向かう道の夕日のまぶしさに目を細めて歩きながら、それに該当するテニスが大好きな面々を思い出す。

そして、その筆頭であるはずの幸村と路上でばったり鉢合わせた。

驚く仁王を気にすることなく、幸村は笑ってその隣にやってきた。
「一緒に帰ろうか」。その言葉の真意をつかめないまま、通学路を歩む。
いつもならばよく話す幸村は、珍しく黙りこんでいた。彼女の姿が見えないことは幸村も知っていた。きっと幼馴染のことが心配でたまらないのだろう。
仁王は秋の気配を感じる空気を吸いながら、その横顔をちらりと見ていた。
しばらくして、幸村はぽつりを言葉をこぼした。

「俺はね、悠里のことが好きなんだ」

それは、心底しみじみとした響きをしていた。なにかを祈るような切実さと、事実を確認するような揺らぎのなさがあった。
きっと、幸村にとって、その言葉はずっと前から抱えている真実なのだろう。
仁王はその響きを羨ましく思った。

「幼馴染だなんていうけどね、俺はもう、とっくの昔から、そんな目で悠里のことを見ていないんだよ」

幸村はぐっと口を結んだ。彼の瞳には疚しい色など宿されていなかった。ただただ真っすぐな熱が、ちらちらと光を受けて輝いていた。

「これは俺の秘密だ。でも、仁王には言っておきたかったんだよ。なにしろ、悠里は川が好きだったから」

それじゃあ、また明日。
彼女によく似た彼は、彼女のように不思議なことを言って仁王に手を振った。幸村が踵を返してはじめて、幸村の家は駅前ではなく学校の近くにあることを、ようやく仁王は思い出した。
彼はあのことを言うためだけに、わざわざ遠回りしてやってきたのだろう。短い髪が揺れながら遠ざかっていく光景は、先日の彼女をどこか連想させられた。




カモメの鳴き声が聞こえる。
こんなに風の強い日は、きっと高く飛ぶのに向いている。

手に持つ小さな花束がしゃくしゃくと音を立てていた。ビニールのなかでまとめられている花は、なんだか窮屈そうに見えた。
風に煽られながら青いリボンをほどいた。花の茎を縛る輪ゴムを外し、ビニールと共に手で軽く握りしめる。縛っていたものから開放された花たちはふわりと広がり、手の中であちらこちらに揺れだした。

この丘からは海がよく見える。
朝日を浴びてきらきらと輝く海は、なにかの始まりを期待しているような面持ちがあった。
神さまというものがいるならば、きっと、こんな色の海から世界を作りはじめたのだろう。

上も、下も、あの茜色からほど遠い。
その青い世界の中心に向かって、手のなかの花束を思いきり投げこんだ。
風に煽られた花々は、散り散りになって中に舞う。

願わくば、これが彼女へ手向ける水葬の花となりますように。
ただそれだけを願って、仁王は青のなかに堕ちてゆく花を見送りつづけた。



END.




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