ねぇ仁王くん、話があるの。 この言葉からはじまる会話で、今までろくなものがあったためしがなかった。 俺はただ、黙って頷くことしかできなかった。 夕焼けがきらきら輝く穏やかな放課後。きっと空には眩しいほどの茜色が広がっているはずなんだろう。わたしは仁王くんに問いかけた。 「空は赤いかな」 「ん……まぁ、夕方じゃしの」 わざわざ放課後まで教室に残ってもらった仁王くんは、わたしの呟きに反応してくれた。 そっか、赤いんだ。仁王くんのことを疑うすべもないわたしは素直に頷いた。光の有無はわかるけれど、もうあの綺麗な赤は二度とみれない。そう思うと、いまさらになって悲しい気持ちになった。 「わざわざ残ってくれてありがとう」 「友だちじゃし、当然じゃろ」 「そっか……そうだよね」 さりげない仁王くんの一言ひとことが暖かかった。 ほんとうに、仁王くんはわたしにしてはもったいないくらいの友だちだと思う。わざわざ思いだそうとしなくても、仁王くんにお世話になったことはたくさん浮かんでくる。 だから、その仁王くんには正直でありたかった。 「ねぇ、仁王くん。わたし、もうすぐ入院するの」 仁王くんの顔を見ずに、わたしは一気に話しだした。 「もう長くないかもしれないって、お医者さんが言ってたの。入院しても、ほとんど手遅れだから退院できないかもしれないって。もしかすると、こうして学校で会えるのも最後になるかもしれないの。……わたし、もう色もわからないんだよ?」 笑えない事柄なのに、なぜかわたしは微笑んだ。それと同時に目がじわりと熱くなる。ちぐはぐしているのは、わたしが嘘つきだからだろうか。 でも、泣いたらだめ。わたしは微笑みつづけた。 「そうか……」 仁王くんはただひとこと、ぽつりと言葉をこぼした。とても悲痛そうな表情だった。それでも、わたしを慰めたり、過度な反応をしないことがうれしかった。 やっぱり、仁王くんはやさしい人だ。 「仁王くん、いままでありがとう。仁王くんの友だちで、わたし、幸せだったよ」 「……俺も楽しかったぜよ」 仁王くんが笑う。 モノクロの世界のなかで、きらりと光る銀色を見たような気がした。 わたしはその輝きを忘れないように、なんども心の指でなぞった。 「……ねぇ、仁王くん。はじめて会ったときのこと、覚えてる?」 「まぁの。印象的な出会いじゃったきに」 「ふふっ。まさか仁王くんが、私のことを幸村くんの追っかけだって勘違いするとは思わなかったよ。すごくこわかった」 「えらい俺は怒ったもんな。そんでお前さんは半泣きになって、幸村に飛びついとった」 「あぁ、それは思いださなくていいのに。はずかしいよ……」 「俺も、あのあと幸村からこてんぱんにやられたナリ。お互いさまじゃ」 「仁王くん、ちょっと半泣きだったもんね」 「それは言わんでええじゃろー……」 「おあいこだよ」 いつものように、冗談混じりの言葉をかわしあう。 曖昧になりつつある私の記憶のなかで、二年前にもなるこの話を思いだせたことは奇跡に近かった。 あのときは、まさかこうして仲良く話しあえる間柄になるだなんて、想像もしてなかった。仁王くんのやさしさと、幸村くんとの縁と、私の運の良さでここまでこれたのかな。そうだったら、すべてをうまく取りそろえてくれた神さまにお礼をいいたい気持ちだ。 わたしは机に寄りかかって、窓の向こうを見た。 どこからかテニス部の明るいかけ声が聴こえてくる。風が吹いて、カーテンが揺れる。 ふっと、幼い頃の幸村くんが頭をよぎった。 テニスラケットを手に、きらきらと笑う幸村くん。はじめての大会に緊張した面持ちの幸村くん。たくさんのトロフィーを手に入れて、すこし退屈そうな顔をしている幸村くん。 すこしづつ成長して、幸村くんの背丈が伸びる。 わたしと同じ中学に通えることが決まって、嬉しそうにしている幸村くん。面白い後輩ができたと愉快げに話す幸村くん。全国大会で二回も優勝して、真田くんたちと喜ぶ幸村くん。入院して、悔しそうに涙を流す一年前の幸村くん。……そして、花壇で女の子と楽しげに会話をしている幸村くん。 幸村くんは、わたしなんかを気にせずに暮らしてほしかった。 願わくば、これから消え逝くわたしの代わりに、ずっと幸せでいてほしかった。 「それで、お前さんの入院先はどこなんじゃ?」 「ひみつ」 「えっ?」 「迷惑はかけたくないからね。誰にも教えないことにしたの。それなら幸村くんにもバレないでしょ?」 わたしは人差し指を唇にあてて、ふふっと幸村くんのように笑った。 仁王くんにも迷惑はかけたくなかった。できることならば、わたしはひそやかに逝きたかったから。 「そんな秘密、いつかはバレるじゃろ」 「それでも、わたしは真実をなるべく迷子にしておきたいの。仁王くんにだってわたしに隠しておきたいひみつの一つや二つ、あるでしょう?」 「……それはそうじゃが」 「ええ、ほんとうにあるの? なになに、せっかくだし教えてよ」 「秘密じゃ」 「ずるい切り返しだ」 「お相子じゃろ。知りたいならお前さんの入院先を教えんしゃい」 「うーん……じゃあ、いいや」 わたしがすっぱり追及を諦めると、仁王くんは残念そうに眉を落とした。 そんなにわたしの入院先を知りたかったのだろうか。あの白い空間にわざわざやって来ても、楽しいことなんてひとつもないのに。 「お願いだから、調べようだなんてしないでね」 「…………」 「また会おうだなんて約束はできないよ。元気でね、仁王くん」 最後に彼女はふり返り、思いだしたように質問を投げかけてきた。 「仁王くんは、好きなひと、いる?」 「……おらんよ」 俺はそう言うしかなかった。 彼女の寂しそうな顔を前にして、言えるはずがなかった。 ――お前さんじゃ。なんて、そんなこと。 いつも彼女が幸村の姿を目で追っていることを知っていた。俺が彼女にとってはただの友人止まりだということも知っていた。 どうせ枯れゆく花ならば、なにも知らずに逝かせてあげたかった。 彼女は目を細めた。長い髪がふわりと揺れる。 「……そっか。いつか、大切なひとができるといいね」 そうして彼女は、二度とその姿を見せることはなかった。 ≪ ≫ |