病院は、わたしの友だちが苦手な場所だった。
薬の匂いも、白い壁も、なにもかもを含めた雰囲気そのものが苦手なのだと、友だちは眉をひそめて言っていた。
隣で話を聞いていたわたしは、ただ、そうなんだ、と頷いた。

それは仕方のないことなのだろう。友だちは一時期、命の危機をそこでさらされながら生きていたのだから。
あのときの恐怖や、不安を思いださせる場所なんて、心地好いと思えるわけがない。

わたしの予想どおり、もともと体力があって、運動が大好きだった友だちは、退院してからは一度も病院に寄りつくことはなかった。そして、いまではもうすっかり治って、きらきらと輝きながらテニスコートに立っている。

いままで以上に体に気を使うようになったあの友だちは、もう二度と病院に足を踏み入れることはないのだろう。

それを考えるとなぜだかいつも苦しくなって、それなのに自分が嬉しいのか、悲しいのかはわからなかった。

「悠里」

意識が、ゆわりと浮上する。
耳に届いた音が自分の名前だと理解するのには、すこし、時間がかかった。

「起きなよ、悠里」

わたしを呼ぶ、やさしく、あたたかい声。
目を開けると、眩しい白がちかちかと差し込んできた。
光が反射するその中で、黒い影がゆらゆらと動いている。

「……だれ?」

しばらくして、影がやっと人の型を生成した。夜を迎えようとしている空のような藍色の髪。すらりとした白い肌。神様の作り物のような綺麗なパーツたち。
人間だったんだ。わたしが呟くと、目の前の人間は苦笑した。

「そうだよ。まだ俺は人間をやめたつもりはないな」
「まだ? これからやめるの?」
「さぁ。それはどうだろう」
「きっとやりかねないよ……幸村くんなら」

思いだした。
この人の名前は幸村くん。病院嫌いで、テニスが好きな、わたしのやさしい友だち。
わたしの言葉をどう捉えたのか、ふふっ、と幸村くんは花が咲いたように笑った。花が咲いて、周りがふわりといっそう明るくなる。そうだ。あともうひとつ。
幸村くんはかっこいい。

「どうしたの、こんなところで」

幸村くんは首をかしげた。
こんなところというのは、ここが病院だからだ。
思いだしたくないと考えていても、その質問の答えは水の流れのように、なめらかに頭の奥からするすると浮かんでくる。

「わたし、病気になっちゃったみたい」
「えっ?」
「不治の病みたいなものね。もう長くないんだって」
「……冗談だろ?」

幸村くんの顔がゆがむ。
あ、だめだ。そんな顔をさせるつもりはなかったのに。
わたしは口角を上げて微笑んだ。

「冗談じゃないよ。だって、これはずっと治らない恋の病なんだから」

はぐらかしだ。でも、本当は恋の病にも罹っているのかもしれない、なんて。そう考えている最中にも、心臓ははくはくと高鳴っている。
ごまかすように、えへへと情けない声をだして笑う。
幸村くんは少し怒ったような、ほっとしたような顔になった。

「冗談はほどほどにしなよ」
「うん、ごめんね。本当は、たいしたことのない風邪をひいただけだから」
「ほんとうに?」
「うん」
「なら、いいけど……」

悪化しないようにしろよ、と幸村くんにしては乱暴ぎみな言葉をかけられた。

それにたいして、少しだけ、申しわけない気持ちになる。
幸村くんは数ヶ月前、生死に関わる病に罹っていたから、こういう話には敏感だって知っていたのに。どうしてわたしは言ってしまったのだろう。
あんなことを幸村くんに告げたところで、どうしようもないことはわかりきっているはずなのに。口からぽろりと落ちた言葉は、もう取り返しのつかないところにまで転がってしまったみたいだ。
重くなりかけた空気をはらうように、わたしは無理やり明るい声で話題を変えた。

「幸村くんは? 怪我?」
「いや、予防注射を打ちにきたんだよ」
「インフルエンザ? 冬はいつも流行るもんね」

そこまで話していたら、ちょうど幸村くんの名前が呼ばれた。
綺麗な看護婦さんだねと幸村くんに言ったら、今は看護師って言うんだよと直された。
なるほど、平等化の波はここまで来ているのかと、わたしは妙に納得した。

「それじゃあ、また明日」
「うん。また明日」

幸村くんはまた、花が咲いたように笑った。わたしが手をちょっとだけ振ると、幸村くんは新しい呼び名の職業になったお姉さんに連れられて、奥に消えていった。

「また明日」

あと何回、この言葉を聞くことができるんだろう。
わたしはゆっくりと目を閉じた。そして、そうっと開けてみたら、さっきのような輝きはどこかに消えてしまった。あたりを見渡せば、幸村くんがいなくなった待合室の花はすっかり色あせて、枯れてしまっているようだ。

「また、明日……来ればいいな」

祈る気持ちでつぶやいて、こりずにまた瞼を下ろす。
次こそは眩しいくらいの光が広がっていればいいのにな。
わたしは幸村くんの後ろ姿を思いだしながら、右手で左の手をやわらかく包みこんだ。




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