夢物語の臆病者
わたしはただの平凡な少女だった。そして、きっと、世界中の誰もが体験しうることがないことを成してしまった人間だった。
『世界を越える』
『二次元の世界に入る』
ああ、それはなんて聞こえのいいものなんだろう。
憧れの世界に飛び込み、力を手に入れ、筋書きを変えながらも、その世界に住むキャラクターたちと一緒に、楽しく、思い通りに生きる――そんな都合のよいことが、叶うわけがないというのに。
冗談のような話だが、わたしはかの有名な児童文学書『ハリー・ポッター』の世界にトリップした人間だった。内容はいたって単純。ある日、目が覚めたら、夢小説の王道のように若返ってトリップしていたのである。
ただし、目覚めた場所はホグワーツの森でもなんでもなく、ただのマグルの世界、ロンドンのど真ん中だった。だから、その時点でホグワーツの教員が迎えに来るというベタな展開は見事に打ち砕かれてしまい、ここがどこかもわからなかった私は途方に暮れたのをよく覚えている。
当然のようにダンブルドアの孫だとか、翻訳ピアスなんてものもなかったが、幸運にもイギリスに留学をした経験があったために、なんとか英語を駆使して孤児施設の世話になり、餓死するような事態は起こさなかった。――もっとも、この時点で、世界は都合のいいものではないと、わたしは気づいておくべきだった。
トリップ特典だか、いるとも知れない神様の意地の悪い悪戯だかは知らないが、わたしは世界を越えたときに、身体に魔力を宿してしまったらしい。それゆえに、世話になっていた孤児院の元にいつの間にかあの入学許可証が届き、あれよあれよという間に、わたしはホグワーツの組分け帽子を頭に乗せて、椅子の上に座っていた。
「君は勇敢だとは言い難いが……その信念の強さと義理堅さは、まさに騎士道と言うべきだろう。よって――グリフィンドール!」
ここからは、まさに夢のような生活だった。
悪戯仕掛人――ジェームズ、シリウス、リーマス、ピーターとそこそこに仲良くなり、リリーとは気の合う友人同士になり、あのセブルスとも知り合い以上の関係になれた。闇の陣営とはそこまで仲良くする気はなかったし、自分で言うのもなんだが平凡な女だったわたしは、マルフォイ家や、シリウス以外のブラック家の人たちと知り合うことはなかった。
それでも、おおよそは夢のような話で――夢のような世界だった。
それが違うと気づいたのは、おそらく、自分が死ぬときだ。
逆に言えば、そこまでいかないとわたしは世の中の常識に気づけなかったのだ。
なんだって、当たり前の話だ。
『世の中は自分の都合のいいようには作られていない』
そんなことに気づくまでに十年近くもかかってしまうだなんて。本当に、馬鹿みたいな話だった。
死ぬ時のことは、はっきりと覚えている。
死は、ダンブルドアが言うように、たしかに眠りにつくようなものだった。
ただし、残念なことに永遠の旅とまではいかなかったようだ。
なにしろ、デスイーターの手によって死んだはずのわたしは、死亡現場の近くにあった辺境の村の、とある教会にお世話になっていたからだ。
身体は幼児に逆戻り。救いと言えば記憶があることと、死んだときに飛ばされた自分の杖を無事に発見できたことくらいで、秘境に近いこの村には、世の中の情報がまったくと言っていいほど流れてこなかった。
西暦は1985年。
魔法界との繋がりはこの杖一本のみ。
情報はまったくなし。
――ジェームズたちは、どうなったのだろうか。
――闇の陣営は滅んだのか。
――それとも、まだ続いているのか。
――ハリーは生まれた? それとも、違う子供が生まれた?
――リリーは、セブルスは、大丈夫なのか。
――わからない。情報があまりにも少なすぎる。
――せめて、わたしに姿現しをする技量か、ふくろう便を頼めるお金があればいいのに。
何度も何度も悩んで、そのたびにわたしは自暴自棄になった。ぼんやりと日がな一日ベッドの上で、窓から空を眺めるばかりの生活を送ったこともあれば、泣きながら暴れに暴れて物に当たったこともある。
幼児がこんなに気味悪い行動をしていたのに、捨てようともしなかったシスターたちには感謝をしてもしきれない。せめて彼女らが魔法使いだったらいいのに、だなんて、そんな欲は少しも出せなかった。
そしてわたしが推定年齢十一歳となったとき――とうとう魔法界との繋がりがやってきた。
『ホグワーツ魔法魔術学校』
緑の字で書かれたそれを見たときの感動は、きっと誰以上のものでもなかったはずだ。こんなにも焦がれていた世界からの繋がり。ようやく訪れた魔法界からの情報。あまりの嬉しさに、ついベッドの上で跳ねてふわふわと宙を舞ってしまった。
世間一般から孤児だとされているわたしには、きっとホグワーツの教員が説明と案内をしにやって来るだろう。期待に胸を踊らせて待っていたそのときのわたしは、すっかり昔の自分に戻ってしまっていた。嫌なことから目を逸らす、昔のわたしに。
教会にやって来たのは、なんとダンブルドアだった。「校長先生……」とつい口に出して呟くと、かの偉大な魔法使いは淡いブルーの瞳をキラキラと輝かせて微笑んだ。
「君はどうやら、ずいぶんと長い旅をしてきたようじゃの」
わたしの腰にある杖を見て、愉快そうにダンブルドアは言う。すべてを見透かしたような台詞は、逆にわたしを安堵させた。
「覚えているんですか?」
「おお、もちろんわしは君のような可愛らしい少女のことは知らぬ。だが、勇敢に戦って命を落とした、立派な女性のことはよく存じておるよ」
「……ありがとう、ございます」
感動で目の前が滲みそうになった。それともこれは悲しさなのだろうか。
何に? わたしが死んだことに?
「あの、すこしお尋ねしてもいいですか?」
「もちろんじゃ。時間ならたっぷりとあるのでのう」
「ありがとうございます。……あの、あなたは不死鳥の騎士団が現在どうなっているかをよくご存知ですよね? とくにジェームズやリリーのことを。彼らはいま、どうしているんですか?」
背の高いダンブルドアの顔をじっと見上げる。彼の目に、哀れみの色がちらついたような気がした。
「君はそのことも知らされておらんのか……。ミス・サトリ、予言のことは知っておるかの?」
「えっと……教科書通りの意味での“予言”なら」
嘘だ。
ダンブルドアの言葉の続きを聞くのが恐ろしくて、耳を塞いでしまいたくなる。
「……これは機密情報じゃがの、『三度ヴォルデモートから逃げきった者たちの子で、七月の末に生まれた子がヴォルデモートを打ち負かす』という予言が、君が亡くなった後すぐに出たのじゃ。そして、なんの因果か、そこにはポッター夫妻の子供が見事該当しておった」
「うそ……」
違う。嘘に決まっている。
「その予言を聞き付けたヴォルデモートは、もちろんその子を殺そうとした。だが、君の知る通り、ポッター夫妻は可愛い我が子を差し出すほど非道な者たちではなかった」
「…………」
「ハロウィンの夜じゃ。その日にすべては起こった。ここからは魔法界すべての者が知る話じゃがの。その夜、ヴォルデモートはポッター家に押し入った。だが、無垢な赤子を殺そうとしたヴォルデモートは、しかしその赤子のみを殺し損ねて消えてしもうた。
あの日のポッター家に残ったかけがえのないものは、小さな赤子の命のみじゃ」
「それじゃあ、ジェームズとリリーは……」
「残念な話じゃが――彼らは亡くなった」
わたしは愕然として、へたりと地面の上にすわりこみ、ぽろぽろと涙を流した。
それしか、わたしはすることができなかった。
そんなの嘘だ。そう言ってやりたい。でも、原作の筋書きをよく知るわたしは、それが偽りの話でないことを分かってしまう。
なんということだろう。未来を知ることで、希望を持つことすら潰えてしまえるだなんて。そんな馬鹿馬鹿しいことを、今のいままで気づけなかったことに吐き気がした。
しばらくして、ようやく泣き止んだわたしの背を撫でながら、ダンブルドアはわたしの目をじっと見つめてきた。
「ミス・サトリ。君はホグワーツに行かねばならん。どんなに君が拒絶しようとも、じゃ」
「でも――でも、なんの意味があるというのですか? わたしはとうの昔にホグワーツを卒業した身だというのに……」
「今年は、ハリー・ポッターが入学するのじゃ」
その言葉を聞いて、わたしはびくりと肩を震わせた。
ハリー・ポッター。魔法界の救世主。この世界の主人公。
わたしの友人たちが命を張ってまで守った、たったひとりの、かけがえのない子供。
「君なら知っておるかもしれぬがの、ハリーは君のよく知る者たち……ポッター夫妻の子供じゃ。そこで、ちと頼みがある」
「……なんですか」
「これからホグワーツで生活をして、ハリーを危険から護ってはくれぬかの?」
「……誰から、ですか?」
「何から」ではなく、「誰から」とわたしは訊いた。その時点でもう、分かっていると言っているようなものだ。
ダンブルドアも理解しているのか、目を細めて頷いた。
「もちろん、ヴォルデモート卿からじゃ。あやつは世間的には死んだとされておるが――」
「まだ生きている、でしょう?」
「それで十分じゃのう」
ダンブルドアの目がキラリと光った。
不本意ながらも、わたしは人生で二回目となるホグワーツへの入学をはたした。しかし、やる気も生きる気力もまったくない。楽しみと言えば、元同期だったセブルスがいるくらいで……どうしてか、以前に入学したときのように、あのきらきらと目を輝かせたような気持ちはどこかへ行ってしまった。
なぜだろう。
首を傾げるまでもなく、わたしはその問いにすらすらと答えられる。
『未来の筋書きは変わらない』
『この世の中は都合通りには進まない』
この二つの事実が、とてつもない大きな重しとなってわたしの心に存在するからだ。
『未来は変わらない』
どう足掻いたところで決して変えられやしない。ジェームズとリリーが亡くなったように、きっとシリウスやリーマスも近い将来に亡くなってしまう。
『世の中は都合良くいかない』
逆ハーレムができるほど魅力的でもなければ、特殊能力のひとつもない平凡なわたしの力では、成しえることなんて限られている。財力も能力もなければ、現実となってしまったこの世界は当然のように厳しいのだから。
むかし読んだ、夢小説の物語を思い出す。
みんなから好かれていて、闇の陣営からもちやほやされていて、簡単にアニメーガスを習得できて、さらにはパーセルタングも話せたり、魔力が無尽蔵にあったり、決闘が恐ろしく強かったり――。
本当に『夢』小説なのだな、と笑ってしまう。
わたしが自慢できるのは、唯一、優・Oを取れた妖精の呪文くらいで、DADAや変身術はよくても人並み。闇の呪文なんてもってのほかで、パーセルタングなんて話せた日には周りから避けられたって甘んじて受け入れたいくらいだ。
ただ前世の記憶を持っている――この世界の未来を知っているという点において、特異な存在なだけ。でも、それですら力にならない無意味なものなのだから、もはや救いようがなかった。
偉大な魔法使いの足元どころか同じ空間に立つのですらおこがましい、一魔女にすぎないわたし。トリップしたことが最大の偉業だなんて、小説になりもしない、くだらない話だろう。
本当は、今すぐにでも消えてしまいたい。
でも、ハリーを守るという約束がある。
わたしのよく知るこの物語が終わりを迎えたら、ようやくわたしは自分を消せるのだろう。
それまでがひどく待ち遠しくて――でも、同時に恐ろしくもあった。
あの日に死んだときに、わたしは終わったはずなのに。
いつまでもだらだらとエンドロールを受け入れられなくて、意地悪く幕引きを延ばすわたしは、どうしたってグリフィンドールには相応しくない、ただの臆病者なのだ。