甘くてすっぱい
九月一日。ホグワーツの新学期が始まる。
ホグワーツに向かうプラットホームはいつものように騒がしく、混みあっていた。ばさばさと、重たい布をふり回したかのようなふくろうの羽根の音。幼い少女の誘惑するような、にゃおんという甘い鳴き声。保護者は愛する子供との別れを惜しみ、抱きしめたり、さまざまな言葉をかけている。子供は保護者に抱きしめられたり、友人たちと集まって久々の邂逅を楽しんでいた。
汽車から出される乳白色の蒸気がホームを包み、それらをすべて淡い影にさせた。その数メートル先もおぼつかないなかを、ミユキはトランクを引きずりながら、なんとかくぐり抜けていた。
少女の身体にしては大きいはずのトランクから、カラカラという軽い音しか聞こえないのは、決して気のせいなどではない。なぜならば、ミユキはこのトランクの重さを、魔法で少しだけ軽くしたのである。彼女の言いぶんは、「荷物を運ぶ協力者がいないんだから、これくらいの楽はしてもいいでしょ」である。マクゴナガル辺りが耳にすれば、確実にいい顔はしないだろう。
列車は無事に生徒たちを全員のせて、なめらかに速度を上げつつロンドンを発った。
田園風景が走る窓の外を眺めながら、ミユキはおもむろにひとつの手帳を鞄から出した。手帳はそこらのマグルの文房具屋で売られていそうなチープなもので、表紙には鮮やかな百合の絵が描かれていた。
今年、ミユキは自らの行動予定を粗いながらも立てていた。
昨年までは『何もしない』ことが行動予定だったため、これといった予定を立てる必要はなかった。しかし、今年からはそうもいかなくなった。
なにしろ、ミユキというイレギュラーが存在するこの世界は、もはや完全な原作通りの道を辿らなくなったからだ。シリウスの脱獄日もそうだが、少しずつ原作から逸れた展開になりつつあることは明らかだった。
ジェームズの息子であるハリーを守ることが、ミユキに課せられた任務であり、彼女自身の意志だった。
原作がずれつつある以上、ミユキの知る未来がどこまで現実に起こるかはわからない。しかし、大筋は変わらないはずだろうから、それを有効利用しない手はないだろう。そのため、ミユキは自らの知識を利用して、手帳にこの先の行動予定を書きこんでいた。
パラパラとめくられた手帳のなかは、ヨーロッパ地方ではまず見かけないであろう日本語で埋まっていた。ミユキは九月一日と英語で印刷された文字の横をちらりと見る。
『動く必要はなし。リーマスによって助けられるはず』
日本語で記されたそれは、そっけない文章だった。しかし、ミユキは気にすることなくページをさらにめくり――六月六日と書かれた場所を開いた。
『ハリーのために動く』
ただ一言。それだけだった。
シリウスの冤罪を晴らすとも、ピーターを捕まえるとも書かれていない。どこまでも簡潔なこの予定表は、ひとりの少年を焦点にして書かれているのだ。
ミユキがつねに気にかけるのは、ハリー・ポッターの安否だった。決して友人の生死を問題にせず、自らの個人的な予定も彼女の頭には存在しない。
かなり奇妙なこの手帳は、ミユキの精神性をそのまま反映させたものなのである。
「……Expecto patronum(守護霊よ来たれ)」
ミユキは杖をポケットから抜いて、ぽつりと呪文を唱えた。
杖の先から現れた銀色の鳥を見て、ミユキはほっと顔をゆるませた。仮にディメンターがこのコンパートメントに侵入してきても、気絶せずに自分の身を守ることができそうだ。それに、これから先も遠距離の連絡手段に困ることはなくなるだろう。
あらかたの魔法は不得意になってしまったミユキだったが、パトローナスチャームが成功したことには自分で驚いた。
幸福な記憶と集中力のみを必要とするこの呪文は、むしろミユキにとっては簡単なものとなってしまったらしい。三年生の魔法すらおぼつかない現状においては皮肉な話だったが、素直に喜ぶほかはないだろう。
どんな種類なのか未だによくわからない小さな銀色の鳥は、ミユキのほうを見て首を傾げ、ひと鳴きするとゆるやかに掻き消えた。
「(いい加減、鳥類図鑑を見なくちゃだめだな)」
そのように思いつつも、数分後には忘れてしまいそうな気がしてならなかった。なにしろ、初めてあの守護霊を出したときから、毎回この考えを忘れているのだから。
二度あることは三度ある。次にまた忘れても、おかしくはないのである。
原作通り、ディメンターが襲ってきたが、ミユキは守護霊を出して難をしのいだ。それでも一瞬、冷たい指先が背筋を這うような、ぞくりとする感覚に襲われた。
もうすこし守護霊を呼ぶのが遅かったら、いまごろミユキも、ハリーのように、床の上で気絶していたかもしれない。ミユキはチョコレートを齧りながらそう思った。安いマグル製のチョコレートであったが、冷えた身体を温めるには十分な甘さがあった。
いつものように賑やかな新学期の宴会がダンブルドアの号令で始まる。組み分けをされたばかりで緊張したおもむきの新入生。彼らの緊張を解こうと気さくに話しかける監督生や上級生。夏休みを終えて、ひさびさに顔を合わせる生徒たち。その会話に混じる銀色のゴースト。みながみな、思い思いにお喋りをする騒がしさのなか、ミユキはローストチキンを自分の皿に取りよせる傍らで、教職員の席へとちらりと視線を向けた。
鳶色の髪をした穏和そうな男性が、全身を黒に包んだ男性の横に座っている。
穏和そうな男性の顔には、野生動物の爪で引っかかれたような、大きな傷痕がある。ローブはあちこちがつぎはぎだらけで、くすんでおり、他の教職員らがしっかりとした衣服を身につけているだけに、かなりみすぼらしく見えた。
お金がないのか、貧乏性なのか。料理を食べる手つきは飢えている人間の所作ではなかった。おそらくは後者なのだろう。しかし、それにしてはやつれている雰囲気がある。
ミユキが最後にこの男性を見たのは十数年前のことだった。しかし、雰囲気がほとんど変わっていなかったため、すぐに彼のことは分かった。
「リーマス……」
同じ寮で学生時代を過ごし、卒業後も騎士団員として共に戦った仲間。
人狼であるがゆえに思うように就職ができず、いままで苦労してきたであろう友人。
視線に気づいたらしいルーピンと目が合いかけたために、ミユキは慌てて皿の前に顔を戻した。
「(親友をなくして……リーマスはどれだけ大変だったんだろう)」
あそこまでやつれているとは、想像だにしていなかった。まだ三十代前半だろうに、鳶色の髪には白髪がたくさん混じっているし、顔も身体も痩せている。満月が近いからではなく、慢性的に栄養が足りていないのではないだろうか。
ミユキが亡くなってからのこの十数年間を、ルーピンがどのようにして過ごしていたのかは知らない。ただ、昔からルーピンが人から突き放されることを極端に恐れていることは知っていた。なにしろ、人狼は根本的に人には受け入れられないことを、彼は実感を持って生きていたのだから。
もしかすると、ルーピンは満月が訪れるたびに、職場を点々としていたのかもしれない。毎月、たいした履歴を必要とせずに就けるような、安い賃金の職場。人狼だとばれないために、辞めては別の職場で就職するという行為を繰りかえしていたのかもしれない。
監督生だったルーピンがあれほどみすぼらしくなっているのだから、そうだと考えたほうが妥当だろう。ミユキはフォークでローストチキンを突きながら結論づけた。
反人狼法なんてものがなくても、十分に人狼は苦労をしているのだ。すくなくとも、心優しい友人であったルーピンはそうだろう。ミユキは今年に起草された反人狼法を思い出し、フォークを握る手を無意識のうちに強めた。
宴会が終わり、寮に向かうグリフィンドール生の塊の最後尾をミユキがとぼとぼと歩いていると、後ろから、軽い力で肩を叩かれた。
「やあ、ちょっといいかい?」
ふり返ると、そこにはルーピンが立っていた。
かけられた言葉は疑問形にも関わらず、有無をいわせない雰囲気がある。断る理由もないミユキは大人しく頷いた。
連れられた先はルーピンの研究室だった。全体的に黒を基調としており、木製の家具が目立っていた。まだこまかい荷物は運びいれただけ、といった様子で、トランクや包装された道具らが無造作に置かれている。いや、無造作というには規則正しく並べられているほうだ。ルーピンの真面目な性格が現れているようであった。
ルーピンは自分のデスクの前にある椅子に座り、その近くの木製の椅子をミユキに勧めた。どうやら長くなる話らしい。
彼女が座ったのを見て、ルーピンはぐっとこちらに身を乗り出した。
髪と同じ鳶色の瞳が、ミユキの黒い瞳を見つめる。
「君は……ミユキ・サトリの娘かい?」
「……いいえ」
「じゃあ、そういう名前の女性が親戚にいないかい?」
「いいえ。わたしは孤児ですから」
ルーピンはぐっと口元を引きしめた。
「ごめん……嫌なことを訊いたね」
「大丈夫です。親戚がいないのは事実ですから」
ミユキは微笑んだ。愛想笑いにしか見えないかな、と同時にちらりと思った。
「ところで、君の名前はなんていうんだい?」
「ミユキ・サトリです」
はっと息をのむ音だけが室内に響いた。
気まずい沈黙が流れる。ミユキは静けさに刺されているような感覚がした。
おずおずとミユキはルーピンの顔をうかがう。ルーピンの傷跡が増えていることに、ここで気づいた。
「あの、同じような質問を友人にもされましたが、本当にわたしに親類はいないんです。わたしは五歳のときに教会前に捨てられていたらしいし、わたしを探す親戚は今までにいませんでした。名前はシスターがなんとなく読んだ書籍から付けたものですから」
実のところ、同名の理由は、シスターにそう名乗ったからである。教会の世話になりはじめたのは五歳からだが、その年齢であれば名乗りくらいはできる。たまたま書籍を拾い読みをして付けた名が同じになるなど、確率的には低すぎる。
ルーピンは微笑んだ。疲れがにじみ出ている笑みだった。
「そういうこともあるんだね。悪いね、わざわざこんなところにまで連れてきてしまって」
「いえ、大丈夫ですよ」
ミユキは頭を軽く振る。
彼女の膝の上に置かれた手は、ぐっとかたく握りしめられていた。
ミユキは、自分が嘘つきであることを重々承知していた。しかし、彼女はこれから先も、よほど嘘をつくのが難しくならないかぎりは、ルーピンに自らの身を明かすつもりはなかった。
それはなにも、原作を変えるうんぬんの理由からではない。ミユキ自身の個人的感情から、そうしたくなかったのだ。
「(セブルスは同じ仕事があるから仕方ないとしても……リーマスにはいまさら『生き返りました』だなんて言えない)」
亡くなったはずの友人が転生(または甦り)をしたなど、そうそう打ち明けられても喜べる話ではない。そもそもルーピンはいま、親友を殺した旧友が脱獄したニュースを抱えているのである。ダンブルドアは正体を明かしても良いと言っていたが、ミユキからしてみれば、大変な心労がかかっている友人にこれ以上の負担をかけたくなかった。
できることならば、ミユキは生徒その3くらいの立ち位置で、ささやかにルーピンと関わっていきたかったのである。
だというのに、ルーピンはニコリと笑いながら、デスクの上にあった籠を寄せて、中に入れられていた色とりどりのキャンディーのなかからひとつ摘まみ、ミユキに差しだした。
「今日はもう疲れただろう。また世間話でもしに、この研究室においで。いつでも歓迎しているよ」
手の平の上にぽとりとキャンディーが落ちる。それは、すこしだけ淡い夕日色をしていた。